031
−欲望に揺れる花原(3)−

 周囲に火薬のつんとした香りが漂い、鼻腔の奥を刺激する。
 自らの両手で構えた拳銃の先から立ち上る、白い一筋の煙を見つめながら、藤田矢子は大きく肩を上下させている。
 乱れた呼吸を整えようと、唾を飲み込んで一度大きく息を吸い込むが、気休めにすらならなかった。
 矢子の一メートルほど前方で、鷲尾健介が大の字になって仰向けに倒れ込んでいる。股間から飛び出した白い内蔵が何本も周囲へと散らばり、パーティークラッカーのリボンを思わせる様となっていた。
 彼の身体はピクリとも動きはしないが、失禁でもしているかのように、裂けたズボンの股間部分から今もとめどなく真っ赤な鮮血を流し続けている。
 地面に乱れ咲く無数の赤い花に囲まれた様子が、棺桶の中を連想させた。
 取り落とした拳銃が、自らのローファーのつま先に一度ぶつかって、地面を転がった。
 全身の震えが両手にも伝播し、指先から力を奪い去っていた。
 殺人に手を染めてしまった恐怖感と罪悪感に苛まれ、矢子はそれらを振り払うべく、たった今起こった出来事について振り返る。
 何も殺すつもりでやって来たわけではなかった。力のない無抵抗な女に暴力を振りかざし、乱暴の限りを尽くそうとしていた健介に苛立ち、追い払い、あわよくば荷物を奪ってやろうと考えていただけであった。
 健介を殺してしまったのは狙いではない。不意打ちにあって驚きのあまり、撃つつもりのなかった銃を誤射してしまっただけのこと。いわばこれは事故である。罪なことではない。
 落ち着きを取り戻そうと、矢子は自らに言い聞かせた。
 プログラムの最中に、ルールで認められている殺人について、罪かそうでないかを自問自答することはナンセンス極まりない。だがルール上では問題なくとも、正常な倫理観を持つ人間にとって、自らの行いの善悪を判断することは、精神の安定のためには不可欠であった。
 矢子がもし一連の出来事を正当防衛として軽く捉えられるような人間であったならば、どれだけ気持ちを落ち着かせることができただろうか。残念なことに彼女は楽観的にはなれず、強い後悔の念に逆らえずにいた。
 またあたしは穢れてしまった――。
 全身の震えを押さえ込もうと、両腕で肩を抱える矢子。周囲への意識が途絶えかかっていた中で、誰かがブレザーの前裾を掴んできた。
 闇の中へと消え入りかけていた意識を引っ張り出され、自分を引っ張る誰かがいる方へと目を向ける。
 橘冬花が矢子の前裾を掴みながら顔を覗き込んできていた。表情の変化が薄く、感情を読み取り難くはあるが、こちらのことを心配している様子であった。
 矢子はとっさに手を振り払い、冬花に向ける目を鋭くした。
「なに? 同情でもするつもり?」
 他人に哀れに思われることを嫌うあまり、つい反射的にきつい言葉が出てしまった。冬花に罪が無いことをすぐに思い出し、自分の発言に後悔するが、一度出した言葉を上手く訂正できるような器用な性格ではないため、今の姿勢を押し通すしかなかった。
 身につけた衣服を乱れさせたまま、冬花は手を払われたことに驚いた様子を一瞬見せた。だがこちらの動揺を見透かしているのか、すぐに元の落ち着いた顔つきに戻った。
「ありがとう」
 抑揚の乏しい拙い発音で、彼女は確かにそう言った。短い言葉だが、幼少の頃から他人の言葉を耳で聞いて学習できなかった冬花にとって、精一杯の発声であったことが窺える。
 矢子はあっけにとられていた。
 普通に考えれば、暴漢から助けたことに対しての礼を言われたのだとすぐに分かるが、他人から感謝された経験がほぼない彼女は、それをすぐには理解できなかった。
 矢子が黙っているため、自分の言葉が伝わっていないと思い込んだのか、冬花はもう一度、先ほどよりも少し声を張って言った。
「助けてくれて、ありがとう」
 非常に時間がかかったが、矢子はようやく発言の意図を理解した。そして、危うく泣いてしまいそうになった。
 殺人への罪の意識にばかりとらわれていた中で、その感謝の言葉は何よりも重かった。
 自らの行動が一人の命を奪ってしまったのは確かだが、その反面で助かった人物がいた事を思い出すきっかけとなった。自分がやったことは、間違いばかりではなかったと思い直すことが出来た。
「べつに、あんたを助けたくて来たわけじゃないわよ……。あたしが個人的に、あの男にイラついたからってだけで……」
 お礼に対して素直に返す術を知らないために、ひねた物言いになってしまったが、内心悪い気はしていなかった。
 実際、冬花の言葉のおかげで、矢子が抱える罪の意識は幾分和らいだようだった。意識を持ち直すことができた為だろうか、一時は止まらなかった身体の震えが、今はおおよそ治まっている。
 手の指にもきちんと力が入り、地面に落としたレイジングブルを難なく拾い上げることができた。
 周囲に危険が迫っていないことを確認すると、矢子はそのリボルバー銃を上手く腋に挟み、乱れた冬花の衣服を整えてあげた。健介に乱暴された際に引きちぎられたのか、ワイシャツのボタンが一個見当たらなかったが、さすがにそれだけはどうしようもない。
「ところで、あんたの武器はどこ?」
 冬花は武器を手にしている様子がなく、ずっと気になっていたので聞いてみた。だが冬花は頭を横に傾けるだけで何も答えない。
 矢子は埒があかないと判断し、すぐ傍にあった冬花のカバンを勝手に開けてみた。飲食物や地図など、矢子にも支給されたものが手付かずの様子である中で、ただ一つ見覚えのない物が目に付いた。大きめの歯磨きチューブのようにも見えるその表面には「対人用トリモチ」と記されていた。防犯用グッズとして市販されているものだ。
 冬花が武器の所在についてはっきり言わなかった理由がなんとなく分かった気がした。銃やスタンガンとは違い、確かにこれは武器なのかどうか一見分かりにくい。
 いわゆるハズレ武器の一種なのだろうが、量販店に侵入した窃盗犯が対人用のトリモチに足をとられ、駆けつけた警備員に捕まったという間抜けなニュースを聞いたことがあるので、使い道が全くないわけではなさそうだ。
 ただ、正面から襲いかかってくる敵に対して、力のない女がトリモチ一つで対抗するには心もとない。
 矢子は健介の死体からスタンガンを奪うと、それを冬花の手に無理やり握らせた。
「これがあるだけでもだいぶマシでしょう。もうああいう変な輩に見つかるんじゃないよ」
 そう言って踵を返し花畑の外に向かおうとした。が、今度はスカートの端を掴まれて動きを止められてしまった。
「今度はなに?」
 振り返ると、冬花が何か言いたそうな目でこちらを見ていた。
「自分も連れてってくれってか? 言っとくけど、あたしはあんたを助けはしたけど、連れて一緒に行動するかっつーと、話は別だかんね」
 すると冬花は違うとでも言わんばかりに、首を大きく左右に振ってみせた。
 相手の思惑が読み取れず、矢子は仕方なくそちらを向き直り、話を聞く姿勢をとることにした。
「じゃあ何だっていうの?」
 その問いに、冬花はまたおぼつかない発音で短く返してきた。「義人君、知らない?」と。


 少し考えた挙句、彼女が言っているのは同じクラスの鈴森義人(男子十一番)のことであると理解した。
 交流は全く無いが、もちろん義人のことは知っている。常に穏やかな印象で動きがのっそりとしており、面長でほんの少し肥満気味な男子生徒だ。そして目の前にいる橘冬花の交際相手でもある。
 だが冬花が聞きたいのは、それを矢子が知っているかどうかではないだろう。義人の安否、または所在について彼女は情報を得たいのだ。
 残念ながら、プログラム開始以降に一度も会っていない義人が、何処にいるかなんて分からない。だが、ほんの二時間ほど前までは生存していたことは知っている。放送で読み上げられた死亡者の中に、彼の名がなかったからだ。
 放送を聞き取れない冬花はその情報すら得られず、不安でたまらなかったに違いない。
「鈴森がどこにいるかなんて分からない。だけど、さっきの放送の時点ではまだ生きていたみたいだし、たぶんまだ大丈夫」
 矢子はやや希望を交えた見解を加えつつも、自らが持つ情報を正しく伝えた。そうすると僅かにだが、冬花が安心した様子を見せた。
「あんた、鈴森を探してるの?」
 冬花が、こくんと頷く。
「義人君が言ってくれた。神様が守ってくれているから、きっと私と義人君は無事また会えるって」
 彼女にとっては長い言葉を、随所に間を挟みながら、ゆっくり懸命に口から出した。
 話の流れから、どうやら冬花は自らがプログラムに参加していることを理解してはいるようだった。その上で彼女が妙な冷静さを保っているのは、耳が聞こえないがゆえに浮世離れした信仰心のお陰なのかもしれない。神様が守ってくれる、なんて言葉を鵜呑みにする中学生は今時そういないだろうが、彼女はある程度信じていたのだろう。
 冬花は義人や自らの生死よりもむしろ、いつ会えるのかを気にしているのかもしれない。
 見るからに純情そうな冬花たちカップルが、実際また無事に会えるかどうかというと、冬花のぼんやりとした動向を見る限りは、よっぽどの幸運が起こらなければ難しいと言わざるを得ない。
 冬花は無意識なのか、相変わらず矢子のスカートを掴んで離さない。
 矢子は考えに考えた末、「あーもう」と頭を掻き毟った。
 冬花一人がどこかに隠れて時間を過ごすだけならどうにでもなると考え、この場に置いていくつもりだった。だが人を探すために烙焔島全体を歩き回ると言うなら、心配のあまり放っておくことができない。
「しょうがないから一緒について行ってやるよ。鈴森見つけるまでだかんな」
 自分の意志でそう言いつつも、今まで相手にしたこともない人間のために何故身を削っているのか、矢子は訳が分からなくなっていた。


【残り三十八人】

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