“彼女”は道なき山を走っていた。まるで何者かから逃れようとしているかのように全力で。
風雨に侵食されて薙ぎ倒された木々が転がる足場の悪い斜面をものともせず、舗装されたアスファルトの上であるかのように慣れた様子で進んでいく。
その速度は凄まじく、山に不慣れな同じクラスの一般生徒では、ついて行くことは不可能だろうというほど。
そのうえ彼女は植物や岩に隠れた地面の凹凸を的確に避け、前に進むのに最適なルートを瞬時に割り出していた。まるで島の地形をもとより完全に把握していたかのような芸当だった。
そのスピードを維持し続けることができるならば、他の生徒がエリア一つ移動するのに要する時間を、彼女ならば五分の一もかけずに済む。
実際、走り出してからものの数分でエリア一つを軽く越えていたが、驚くべきは全く息が上がっていない、その無尽蔵な体力である。
支給された武器など荷物も全て持ち運んでいながらも、その重さを苦に感じている様子はない。
男子を含めたとしても、クラスでこれほどの身体能力を誇る者は、はたして他に存在しているだろうか。
チェック柄のスカートを大きく翻しながら一歩前に踏み出すごとに、襟元に結んだリボンが大きく揺れる。
十分な距離を移動したところで彼女は後ろを振り返り、誰もいないことを確認してから、ようやく足を止めた。
高く伸びた雑草に膝まで隠れた状態で一息つき、走ってきた方向とは反対の方へと改めて目を向ける。
彼女が立っている位置から、伸び放題の草木の隙間越し遠くに、木造の小屋の姿が見える。ガラス窓すらない簡素な造りで、長年風雨に曝されてきたうえ人に手入れもされていないからか、屋根と壁がすっかり黒ずんでしまっている。へばり付いた大量の苔が腐っては変色を繰り返し、建物全体を覆ったようだ。
常人ならば近寄ることすら躊躇してしまいそうな不気味なその建物に、彼女は一切迷いもせず一直線に近づいていった。まるであらかじめこの場所にこの小屋があるのを知っていて、はじめからそれを目指していたかのように。
木の板でできた簡素な扉は鍵がかかってはいなかったが、建て付けが悪く、開くのに多少の力を要した。長い年月をかけて枠が歪んでしまったようである。
彼女が扉を手前に引くと、錆び付いた蝶番がギィギィと音を立てた。
案の定、中は暗く、とてつもなくかび臭い。屋根には数箇所の隙間があり、そこから僅かな光が筋となって漏れてきているが、視界を明るくさせるほどではない。
高い湿度と暗闇に支配される中、彼女は周囲を見渡す。
壁際に木で組まれた簡素な棚があり、そこに杭やロープ、土のう袋などが収められているのが、辛うじて確認できる。泥がついたビニールシートなんかも折り畳まれてあった。棚に入らないシャベルなどは壁に立てかけてある。
見ての通りここは住居ではなく、倉庫として使われていた山小屋である。
奥に一歩踏み込んだところで彼女はスカートのポケットに手を入れ、掌サイズの小型の拳銃、コルト・ベスト・ポケットを取り出した。
それを上に掲げておもむろに引き金を引くと、乾いた破裂音と共に打ち出された銃弾が、屋根に開いた小さな隙間を見事にすり抜けていった。
その直後、「ギャッ」と呻き声が聞こえ、屋根の上から入口の前に何かが転がり落ちてきた。
土の地面に全身を打ち付けたその人物は悶絶していたが、危機を感じたかすぐに身体を起こし、こちらを向いた。
落ちてきたのは御手洗曜子(女子十八番)だった。普段はきっちりオールバックにしている髪型が、落下の衝撃のせいか乱れている。
屋根の上に完璧に潜んでいたのを見抜かれてしまったうえ、下からの唐突な奇襲を受けたことによって、かなり動揺しているようだった。
実は周囲にうっすらと足跡が見られたことと、小屋の壁面についた苔が足型に擦れていたことから、屋根の上に誰かが潜んでいることは明白だったのだが、曜子はそんな自らのミスに気付いていなかったのだろう。
「あ、あんたは辻斬り狐……いや、せ、千銅さん?」
曜子は自信なさげに口を開いた。
狐の面を被った金髪の女子生徒の姿に、訳が分からなくなっているようだった。
辻斬り狐を名乗る仮面の転校生と、クラスで唯一金髪の千銅亜理沙。この二人はまったくの別人であり、曜子が混乱してしまうのも仕方がない話であった。
「黙ってないで、答えてよ」
仮面の下から向けられる視線の重圧に堪えなれなくなったか、曜子は声を荒げた。
彼女の側には回転式拳銃、コルト・ドラグーンが転がっている。標的が小屋の奥に進んだところで、屋根の上から身を乗り出して狙撃するつもりだったのだろうが、転がり落ちた際に手から離してしまったようだ。
元より曜子がゲームに乗る気であることは明らかだった。入れ込んでいるビジュアル系バンド『raspberry』のライブに行くために、祖母の葬式に出なかったような非人道的な価値観の持ち主だ。彼女にとってraspberryこそが人生の中心であり、クラスメートの命を含むその他万物の価値は微細なものに過ぎないのである。来週またライブがあると教室内で鼻息を荒くして語っていた様子から、彼女が生き残るためになんでもすることは簡単に想像できた。
そんな曜子であっても、こちらが銃を向けていると、さすがに反撃に出られない様子だった。下手に無謀な行動を起こさないあたり冷静さはあるようだ。
だが抵抗しなければ助かるなんて誰も言っていない。強盗などを相手にしたときならば無抵抗が通用するかもしれないが、殺意を持つ相手には残念ながら効果はまるで望めない。
「ちょっと、まさか本当に撃つつもり? お願い、見逃してよ! ほらっ、そこに転がってる銃あげるから!」
曜子の下手くそな演技が嘘を余計に際立たせていた。相手が隙を見せれば、自らの銃に飛びついて反撃しようという、彼女の魂胆がありありと読み取れる。
自分へと向けられたコルト・ベスト・ポケットの照準が一向にずれる様子はなく、焦った曜子は両手をパーにして必死に前に出した。まるで銃の軌道を手で塞ごうとしているかのように。
raspberryのロゴが掘られたごつい指輪が、悪趣味な色彩の光を放っていた。
ニセ辻斬り狐は構わず、コルト・ベスト・ポケットのトリガーを絞った。
火薬の破裂音がした直後、額のど真ん中を正確に貫かれた曜子が、血潮を振り撒きながら後ろに崩れた。
足の間接を女の子座りの形に折り曲げたまま倒れている曜子の側から、コルト・ドラグーンを拾い上げるニセ辻斬り狐。
死体のほうを一瞥するもすぐに向き直り、小屋の中へと戻っていく。
扉から入って右手にある棚を力ずくでずらすと、その下から木の板でできた四角い蓋が姿を現した。いわゆる床下収納のようなものが隠れていたのだ。
迷いなくすぐにそれを発見した様子から、ニセ辻斬り狐はあらかじめ床下収納の存在を知っていたかのようだった。
木の蓋を外すと、深さ一メートル以上はありそうな空間が露になる。そして驚くべきことに、そこには一丁のライフルと弾薬が詰まった箱が収納されていた。
かなりの重量があるはずのそれらをニセ辻斬り狐は軽々と持ち上げ、取り出す。
だが高い湿度の中で何年も放置されていたせいか、ライフルの金属部分は豪快に錆び付いており、駆動部分がことごとく固まってしまっていた。仮に動かせたとしても手入れ無しにそのまま使用するのは危険である。
ニセ辻斬り狐は少し考えていたようだったが、最終的には諦めたのか、ライフルと弾薬を元の場所に戻してしまった。
ずらした棚の位置も律儀に元に戻してから、ニセ辻斬り狐は静かに小屋から出た。
曜子の死体を一瞥するも、その直後に何者かの視線を感じたのか森の方へと向き直る。姿形は確認できなかったが、遠くの草葉が揺れている様子から誰かがいて、彼女の方を見ていたのは確実だった。
その第三者はいつから、どういうつもりでそこにいたのか知る由はない。
距離があったとはいえ、もし相手が双眼鏡などを持っていたならば、こちらの姿をはっきりと見られてしまった可能性はある。だがニセ辻斬り狐は逃走した相手を追おうとはしなかった。
抜群の移動速度を誇るニセ辻斬り狐であっても、追いつくのが難しいほどの距離があったし、なにより姿を見られてしまっていたとしても、なんら不都合はなかったから。
御手洗曜子(女子十八番) - 死亡
【残り三十九人】
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