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−欲望に揺れる花原(1)−

 都市部から都営鉄道で二十分という程近い距離にある街で、鷲尾健介は小学生の時に一時だけ暮らしていたことがある。
 街は東西に走る線路によって分断され、駅の北口から出ると、新しく出来た大型ショッピングモールを中心とした住宅地が広がっているのが見え、対して南口側では酒場や遊戯場などが集まった歓楽街が栄えていた。
 街の特色が違えば、そこに集まる人種も大きく変わってくる。
 駅を挟んだ南北の街は合わせて一つの市とされていたが、住宅地側に比べて、歓楽街側の治安はあまりよろしくないと、世間的に認識されているくらいの差があった。
 街の南側も歓楽街が栄えているとはいっても、一本道を外れれば一般住居が建ち並んでいる。健介たち一家が住んでいたのは、その南側に建つ五階建ての築十五年ほどのマンションであった。
 今更な話、なぜ治安の良い北側に住まなかったのかと疑問に思ってしまうが、おそらく世間知らずなところがある彼の両親が不動産屋に勧められるがままに、地価の高い南側に考えもなく決めてしまったのであろう。
 その浅はかさが、当時感受性が強く多感な時期でもあった健介の人格に、大きな影響を与えることになるとも知らず。
 当時健介は幼いながらもおかしいと思っていた。自分たち家族が住むこのマンションに出入りする、明らかに住人ではない男達はいったい誰なのか。そのいずれにもマンションに入る際のみ案内人のような女が付き添い、いくつかの決まった部屋に入っていっているようだった。
 好奇心に駆られるがまま、健介はとある男に訪ねてみたことがある。おじちゃんたちは一体何をしに来ているの、と。
 見知らぬ四十代くらいの男は階段の踊り場で立ち止まり、小学生の男児に突如質問されて狼狽したのか、中空に視線を走らせながら「ええと」と言い淀んだ後に沈黙した。ばつが悪い様子で半開きになったままの口元からは、ヤニで黄ばんだ歯が覗くだけで、肝心の言葉が一向に出てこない。
 それに見かねた様子で付き添いの女が「行きましょう」と小声で言い、腕を絡めた状態で男を引っ張って行ってしまった。
 結局その時は健介の質問に対するきちんとした返答は得られなかったが、そのマンションで起こっていることは広く噂として知れ渡っており、健介の耳に届くまでにそれほど時間はかからなかった。
「健介ー。お前、エロエロマンションに住んでるらしいな」
 ある日の下校時、潰れたランドセルを背負った同じクラスのガキ大将にからかわれた。しかし健介はその言葉の意味を理解できていなかった。
「知らねーの? お前んとこのマンション、女が男にエロいことする店がいっぱいあるんだぜ」
 健介は帰宅後、両親が出払っていたのをいいことに独自に調査を始めた。勝手に起動することを禁止されていた父親のパソコンを使い、その日聞かされたことの真偽を確かめようと考えたのだった。
 そして健介は、小学生にとっては余計と言えるような様々な知識を得ることとなってしまった。
 世の中には男の欲望を解消するための性的なサービスを提供する店が存在する。そういう店は本来許可を得て営業しなければならないものだが、届出をしていない違法の店舗も数多く暗躍している。
 無知な小学生にとってそれらの知識は、いずれも信じ難い衝撃的なものであった。そして、インターネット上のとある掲示板の書き込みを読み、さらに驚かされることとなった。何店舗もの違法風俗店が巣食うメッカとして、健介が住むマンションの名が挙がっていたのだ。
 そこまで読んで健介は、自分の周囲で起こっていることをようやく理解した。
 マンション内で出会う女と見知らぬ男たちの正体は、違法風俗店の客引きと、それに釣られてのこのことやって来た客だったというわけだ。
 自らを取り巻く環境の真実を知ってから、健介は自宅のあるマンションに足を踏み入れるだけでも、どこか緊張した面持ちになってしまうようになった。度々すれ違う男女のペアの背中を見送る度に、その二人がこれからどんな行為に及ぶのかといった妄想が頭をよぎり、胸の高鳴りが止まらなくなるのだった。
 この特殊な環境が、ちょうど思春期に入りかかっていた健介の人格に、多大な影響を与えたのは明らかだった。
 結局、健介よりも遅れて事態に気付いた両親によって、教育的に環境が良くないという考えの下、僅か一年でそのマンションから引っ越すこととなったが、その判断はあまりにも遅すぎた。
 濃密な色情に溢れていた環境での一年間は、思春期男児の性への関心を乱すには十分過ぎた。



 烙焔島は中心部が持ち上がった山のような形状になっており、西側は日陰となる時間が長いためか、東側より高い樹木の本数が幾分だが少なめな様子である。そのため日照時間は同じでも、高木に四六時中光を遮られてしまうエリアが広い東側と比べ、少ない光量でも成長することができる低木や藪が、西側ではより広く濃密に勢力を拡大していた。
 山のふもとに近いエリアH−3には、四方数十メートルにわたって平地が広がっており、そこも背の低い植物によって地面が見えなくなるほどに深く侵食されてしまっている。
 山の中に突如といった感じで現れるその不自然な更地は、おそらくはかつて島にいた人達によって開拓された土地と考えられるが、今や荒れに荒れ放題であった。
 広大な土地を間切りするかのようにあぜ道の出っ張りが何本も伸びていることから、田んぼか畑として使われていたことが辛うじて分かるが、現在はその土地を支配しているのは農作物ではなく、赤い小さな花を咲かせるたった一種類の植物だった。無数に増殖したその花が広場を覆い尽くしているその様は、春の蓮華畑を思い出させる。
 花畑のすぐ傍らに積み上げられたまま朽ちた土嚢の山を背に、鷲尾健介(男子二十四番)は見つからないように上半身を低くしながら座り込んでいた。
 スマートフォンの画面を指でなぞりながら、映し出された“コレクション”を次々と切り替えていき、堪能する。『モデル体系の二十三歳Sっ娘』という触れ込みで有名な最も気に入っているAV嬢が、大きなお尻をこちらに向けた雌豹のポーズで姿を現したとき、彼は不気味とも取れる笑みを浮かべた。
 『AV嬢』という名のついたフォルダには、主にネットから収集した数百枚を超える画像が収められていた。全裸か、あるいは極めて布地の少ない衣装を纏った女性を写したものばかりであり、大体が二十歳から二十五歳の間くらいと思われる。中には性行為の最中という、極めて破廉恥なものも紛れていた。
 コレクションを順々に眺めながら、彼は気分をいきり立たせる。
 常に命の危機が付きまとうプログラムの最中であれば、普通の人間ならば注意深く周囲を警戒するものだが、その点で健介はかなり特殊な人間だったと言えよう。
 プログラムに選ばれた多くの人間が周囲を気にするようになるのは、頭の中の大部分を恐怖感が満たしてしまうためであるが、健介の場合はそこに性欲が介入し、恐怖感が占める頭の中の割合を幾分下げてしまうという現象を起こしていたのだった。
 『AV嬢』フォルダの中身を存分に堪能して気分が高まった健介は、次にその隣の『クラス女子』フォルダに指を滑らせた。AV嬢に比べれば枚数こそ少ないものの、これまでに隠し撮りしてきたクラスの女子達の厳選された画像が、何枚も大切に保管されているのだ。
 教室内で着替えをしている最中や、プールの授業中の水着姿、制服の隙間からふいに姿を覗かせた下着を激写したものなどが、特に至高の一品。
 それらを眺め続けているうちに、彼の妄想は膨らんでいき、どんどんと性への衝動が抑えられなくなっていく。
 どうせ死ぬなら、クラスじゅうの女を好き勝手に犯しまくってやる。
 そんな強い欲求が頭の中を大きく乱すことによって、死と隣り合わせの状況下では考えられないほどの落ち着きが、彼の中に生み出されていたのだった。
 不純な動機から好戦的になっている彼は、今や全ての女生徒にとって天敵でしかなくなっていた。
 散々妄想で楽しんだ後に、健介はようやくスマートフォンをズボンのポケットの中に仕舞い込む。
 さて、この島のどこかに隠れているであろう女たちを探しにでも行くか。
 と身体を起こして周囲を見回したとき、彼の目に思いもよらぬ光景が飛び込んできた。
 背にしていた土嚢の山の向こう側、花畑の真ん中に、一人の女生徒が座り込んで佇んでいたのだ。
 健介はすぐさま再び身を倒して、花畑側からの死角となる土嚢の裏に隠れる。
 つい先程まで深い妄想に耽っていた彼は、周囲への警戒を怠っていたため、すぐ近くにいる人物の気配に気づくことなんてできなかった。だがそれを失態だと、自らを責めるようなことはしない。
 遮蔽物も何もない広場に、堂々と身を落ち着かせようとする人物がいるなんて、誰だって考えやしないだろう。
 あんな無用心に身を晒すなんて馬鹿げたことをしている女子は一体誰なのか。正体を確かめようと健介は頭だけを遮蔽物から出し、目を凝らして相手の方を見た。
 座り込んでいた女生徒は橘冬花(女子九番)。赤い花を咲かせている植物を摘んで、呑気に冠を作っているようだった。


【残り三十九人】

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