008
−闇の世界(8)−

 その突然のことに身を固めてしまったのは藍子だけではなかった。三年もの時を同じ教室で過ごしてきた仲間達皆が、江口のその卑劣な言葉に、耳を疑わずにいられなかった。
 黒ずんだ染みが付着した薄汚れたほうきと塵取りで、友の死体の一部を掃除するなんて馬鹿げたことを、各々の良心が許すはずが無い。
 さすがに秀之も、これには呆れてしまうばかりだった。
 よくもまあ、ここまで非人道的なことを、あっさりと他人に命令できるものだな、と。
 江口にとって人間の遺体を掃除することなんて、チョークの粉で汚れた黒板を掃除することと、大して変わらないのかもしれない。
 いったいどんな生き方をすれば、こんな倫理的にぶっ壊れた人間が出来上がるのだろうか、と秀之は思いながら、鋭い目つきで担当教官を静かに睨みつけた。
「おいおい……、あなたもこの程度のことが出来ないのですか?」
 先ほどの佳織と同様に動き出せないでいる藍子を見て、江口はうんざりした様子で頭を掻いた。
「それでは、さっきの女と同じく、あなたもここで死んでもらうことになりますが」
 そして銃が構えられるのを見て、流石に秀之もドキリと胸を高鳴らせた。
 こんな悲劇がまだ続くのか。
 しかしそれを断ち切ったのは、藍子の思いがけない言葉だった。
「撃ってください」
 つぶやいた彼女は涙を拭いて、何か強い意志の下で突き動かされた様子で、江口の顔に視線を向けた。力の入ったその目には、悲しみと恐怖の他に、友人達を葬られた怒りが垣間見えているように思えた。
 意外だった。いつも明るく笑顔ばかりを見せている藍子も、他人に向けて敵意を剥き出しにすることがあるなんて。
「……あなた、自分で何を言っているか分かっているのですか?」
 江口は相手の予想外な反応に、引き金にかけた指の動きを止め、眉をひそめる。
「友達にこんな屈辱的なことをするくらいなら、死んだ方がマシです」
 何かを決心したのか、あるいは吹っ切れたのか、藍子の声は一本芯が通っていてとても力強くはっきりとしていた。
 命の危機を前にしても自らの正義を貫こうとする彼女の勇気には感嘆するばかりだ。しかし、この場に限ってそれは、命を軽視した無鉄砲で愚かな行為とも言えた。
 江口は「ふん」と鼻を鳴らし、再度銃を構え直す。
「そんなに死にたいなら、お望み通りにあなたもさっさと殺してやりましょう」
 頭に銃口を突きつけられて、藍子はきゅっと両目を閉じて口をつぐんだ。両手を床について、全身をブルブルと震わせている。いくら気丈に振る舞っていても、やはり死を身近に感じれば恐怖を覚えないはずがない。
 一時の沈黙が訪れる。
 今にも動きそうな引き金を直視できず、クラスメートの何人かは、目を閉じたりそむけたりしていた。
 この部屋の空気が銃声によって震わされるのは、一秒後か、はたまた十数秒後か。そのいつ訪れるか分からない瞬間を黙って待っている時間は、まるで悠久の時のように長く感じた。
「待ってください!」
 重苦しい空気を切り裂いたのは、人ごみの中から突如火中に飛び込んできた何者かの声。
 清太郎だった。彼は顔を強張らせながらも、なにやら決意を固めた様子で両手を広げて、勢い良く江口と藍子の間に割って入る。そして、ほうきと塵取りを拾いあげ無言のまま、床に散らばった臓器や肉片を回収してみせた。
 皆がそれを静かに目の当たりにしている最中、誰かが唾を飲み込む音だけが聞こえてきた。
「……これで、いいんですよね?」
 グロテスクな臓物を乗せた塵取りを前に差し出す清太郎。しかしその手は僅かに震えているように見える。彼の中に存在するのであろう倫理に背いたその行為は、簡単そうに見えて、実は相当の決意と覚悟を要したに違いない。
 突然の出来事に、江口は「あ?」っと、一瞬訳が分からないような表情を見せたが、状況を理解するや否や、傍にいた兵士に片付けるよう顎で指示した。
「助かりましたね、小娘。運のいい奴です」
 江口はそう言って、下がった眼鏡の位置を人差し指で直しながら、藍子の傍からゆっくり離れる。
 ある一定の距離が開くのを確認できたところで、これまで遠巻きに見ていた女子数名が藍子の元に駆け寄った。
「大丈夫? 藍子!」
 と顔を覗き込んだのは八代久実(女子二十一番)
 今まで一切、声も手も出せなかった彼女たちだが、江口という存在に束縛されて動けなかっただけで、実際は静かに藍子の身を案じていたようだ。
「みんな、ありがとう。私は大丈夫」
 藍子は笑顔を見せようとするが、目には涙が浮かんでおり、顔はもはや蒼白状態。感情に背いて無理矢理に作った表情はすぐにでも崩れてしまいそうで、とても痛々しく見えた。
 笑えるはずがない。いくら一時の恐怖が過ぎ去ったとはいえ、先生やクラスメートが死んだという事実は変わらないのだ。
「高槻君、本当にありがとう」
 藍子に礼を言われ、清太郎は短く「いや」とだけ発し、ひきつった笑みを浮かべた。
 よほど複雑な心境だったのだろう。藍子が無事で良かったという思いと、江口の前に出ることで生じた恐怖が、彼の中に混在しているのだ。
 いくら清太郎が冷静にふるまっていても、それなりに付き合いがある秀之には、彼の心中を容易に察することができた。
 いずれにしろ、この危険な状況で他人を助けるために身を張れる勇気は賞賛に値する。
 秀之も気持ちでは前に出そうにならないわけではなかったが、自分に及ぶ危険と秤にかけた結果、全く身体が動かなかった。
 無鉄砲に敵陣に突っ込むことと、安全のために身を隠すことのどちらが正しいのかは分からない。しかし人道的なのはどちらかと問われるならば、多くの人間が前者と答えることだろう。
 とはいえこれを恥じたりはしない。清太郎みたいな人間がいることを認めつつも、自身の安全確保が一番大事、という秀之の方針が揺らぐことはないからだ。
十五年という年月を元に形成された価値観は、非常に強固だった。

「あの……、ちょっといいですか?」
 一騒動が収まって皆が少しだけ落ち着きを取り戻している中、森川真澄(女子十九番)がふいに、江口の後ろ姿に向かって手を挙げた。
 この期に及んで、いったい何を言い出すのだろうか。
 江口から一定の距離をとっていた全員の注意が、一斉に彼女に向けられる。
「……いったいなんです?」
 振り向いた江口はあからさまに面倒臭そうな顔をしていた。
 緊張が走る。
「すみません。あの、私たちがプログラムに選ばれたってことって、家族たちはもう知っているんですか?」
「ああ、それですか」
 思い出した、とばかりに身体ごと再び生徒たちに向き直る江口。
「あなたたちがこの船に乗り込んだ後、プログラムのことは軍の人間が一軒一軒伝えて回っているはず。そうですよね?」
 江口は確認するように、傍らの矢口に問いかける。
「ええ。しかし例年も起こっていることのようですが、今回もショックで我を失う両親や、中には食って掛かってくる者もいたようですね」
「残念なことに口頭での説明では鎮まらない親御さんもいらっしゃったようで、何軒かは武力行使に至った模様です。死者も数名いるようです」
 矢口の説明と岡野が付け足した内容に、食堂内がどよめいた。自分の家族は無事なのだろうかと、それぞれ心配になるのは当然のことだった。
「そんな……」
 質問した張本人である真澄がうなだれる様を、秀之は静かに見ていた。するとその後ろで、また別の誰かが手を上げた。クラスで唯一の特徴的な金髪を揺らし、千銅亜理沙が真っ直ぐに起立しながら「私も一つ聞いていいですか?」と問う。
 表情には感情が一切出ておらず、何を考えているのかは全く読めない。
「なんです?」
「私、家族がいなくて、施設で生活しているのですが、そういう場合はプログラムの連絡は誰かに伝わっているのですか?」
「ああ、あなたは女子八番の千銅亜理沙ですね。なるほど」
 江口はこのクラスのメンバー全員の顔と名前を覚えているのだろうか。亜理沙の姿を見ただけで、出席番号とフルネームをばっちりと言い当てた。
「あなたの場合は施設の方に連絡が行っているはずです。家族の安否を心配する必要が無くて良かったじゃないですか。もし連絡を受けた施設の人間の身に何かがあったとしても、それはあなたの肉親ではないですからね」
 もしかして、江口には人間の血が通っていないのではないだろうか、と秀之は思ってしまった。
 血の繋がりが無いにしても、何年も一緒に過ごしてきた施設の方々はもはや家族同然だ。当然、安否を心配しないはずがない。そしてそれは、亜里沙と同様に施設で暮らしている秀之だって同じ。しかし、江口はそういう考えに及ばない様子だ。
「時間が無いので説明はこれくらいにしたいのですが、理解してくれましたか? 千銅さん」
「分かりました」
 あっさりと引き下がる亜里沙。これ以上追及しようとする素振りも見せず、一見静かで落ち着いているようだった。しかし内心では色んな思いを巡らしているのだろうか。
 秀之は、施設の園長である尾藤たちの顔を思い浮かべたりもしたが、はたして彼らが無事でいるかどうかは分からない。ただ、血の繋がりの無い無関係な自分達にも愛情を持って接してくれていた人達だったので、もしかしたらプログラムの報告を受けて変に反抗したりしていないかと、心配からか息苦しさを覚えた。
 捻くれた精神で世の中を少し斜めに見てしまっている自分ですらこうなのだから、いくら危険レベルとはいえ、施設で上手くやっていた彼女が、何も思わないはずはないだろう。
「えー、それでは落ち着いてきたようやし、そろそろプログラムのルール説明を始めますか」
 岡野が喋り始めると、矢口がなにやらリモコンのようなものを操作しだす。食堂内の各所に設置された数台のテレビモニターに「共和国戦闘実験第六十八番プログラム、ルール説明」というタイトルが映され、場に合っていない軽快な音楽が流れだした。
 再びざわつきだす部屋の中、エアートラックスは壇上にある一番大型のモニターの両脇に着き、江口は休憩とばかりに隅に置かれたパイプイスに腰掛ける。
 ハンドマイク片手に手慣れた様子で進行をするのは矢口。
「共和国戦闘実験第六十八番プログラムとは、皆さんご存知の通り、最後の一人が決まるまでクラスメート達で殺し合う殺戮ゲームです。制限時間は三日。一人で行動しても、何人かでグループを組んで戦ってもらってもOK。不意打ちや騙し合いなど、基本的に何でもありです」
「矢口さん、殺し合おうにも武器が無いと、なかなかプログラムは円滑には進まないんとちゃいますか?」
「よく聞いてくださいました、岡野さん。実はこの後、生徒の皆さんには様々な武器がランダムで配布されるんです。武器と一概に言っても、銃器のような強力なものから、使いようの無いハズレまで色々あるんですけどね。これは、力の強い男子とかが有利になりがちなプログラムに、少しでも公平性を持たせようという政府からの配慮です」
「うわー、矢口、どないしよう! 俺の武器、爪楊枝やったわ!」
「岡野さん、急にコントに入んないでくださいよ。まあそれはともかく、岡野さんみたいにハズレ武器が当たってしまったら、かなり不利になりますね。幸い、武器の奪い合いは許されていますので、いかにしてより強力な武器を手に入れるか、しっかり戦略を練りつつ戦っていただきたい」
 漫才のような岡野と矢口の明るい掛け合いは、殺し合いゲームの解説だとはとても思えない。これがもし、長々としたプログラム説明を肩の力を抜いて気楽に聞けるように、という政府側からの配慮なのだとしたら、それは完全に余計なお世話だった。
「矢口さん! 俺、戦いたくないんで、逃げます!」
 駆け足で逃げる動作をする岡野。
「そうはいきませんよ、岡野さん。実はプログラム中、生徒の皆さんにはこちらの首輪を着けて、行動できるエリアを制限させていただくんです」
 矢口の説明に合わせてモニターに映されたのは、銀色に光る金属製のリングだった。どうやら首につけるものらしい。
「うわっ、俺の首にも、いつの間に! 何なんですかこの首輪は?」
「これはですね、ソロモン四号という首輪型の装置でして、皆さんの行動範囲を制限させていただくものです。内部に埋め込まれたコンピューターが心臓パルスを読み取り、生死の状態や居場所等の情報を、プログラム本部に送り続けてくれます」
「つまり誰がどこにいるのか、江口先生や兵士の方たちは常に分かっているってことなんやな」
「その通り。しかもこの首輪、内部には爆薬も内蔵されていて、もし皆さんがプログラム会場から外に逃げ出したら、自動的に爆発するんです」
「死ぬやん! そんなことしたら!」
「その通り。だからくれぐれも、そんな馬鹿なことはしないでください」
 再び部屋の中全体に緊張が走ったのを、秀之は空気で感じ取った。今はまだ首輪は着けられていないが、後々あんなものに拘束されることを考えると、寒気がする。
「ちなみにこの首輪、プログラム会場の外に出てしまう以外にも爆発する場合があります。まず、不審な動きをしている者に対して、こちらから電波を送って人為的に爆発させるというケース。プログラムでは毎回、脱走などよからぬ事を企む方がいらっしゃいまして、そういう方は問答無用で失格とさせていただきます。それと、禁止エリアという場所に踏み込んでしまった場合に、首輪は自動的に爆発してしまいます」
「禁止エリアっていうのは何なんやろうか?」
「プログラム会場は縦横十列に区切られていて、プログラム開始から六時間が経過しますと、それから一時間おきに一つずつ侵入禁止エリアとされていきます。プログラムが後半に差し掛かると生き残りの人数が少なくなって、なかなか出会う機会が少なくなりますからね。行動できるエリアを狭めてプログラムの進行をスムーズにしようという、これもまた政府の配慮です。ちなみにこの禁止エリア、六時間おきにどこのエリアが入れなくなるのか放送しますので、聞き逃さないよう注意してください」
「あーもう、こうなったら首輪をはずして逃げ出してやる」
 岡野が首輪をはずそうとする臭い演技をすると、矢口が困った顔でお手上げのポーズをとる。
「岡野さん、実はこの首輪、無理やり外そうとしても爆発するんですよ」
「えっ、マジかいな!」
「さらに耐ショック性の完全防水で、壊すことも出来ない。それでも過去には驚くことに、首輪を外して逃亡を図る者もいたようで、改良に改良を重ねて開発されたのが今のバージョン。はっきり言って完全無欠。もはや開発元の人間でさえも、専用の工具が無ければ外すことができません」
 矢口の解説は、逃げ出そうとする気持ちが完全に失せてしまうような、絶望的な内容だった。
「ちなみに今回のプログラム会場は島です。皆さんを会場に下ろし終えたら、この武装客船サンセット号は島を離れ、数隻の巡視船と共に海上を巡回し続けます。先ほどはシートがかかっていて皆さん気づかなかったかもしれませんが、実はこの船の甲板上には機関銃が取り付けられていまして、もしもの事態には遠慮なく撃ちます。あなた達が海上にいる私達に攻撃を仕掛けることや、外部から助けが入ってくることも、まず不可能と思ってください。皆さんはプログラムにだけ集中して取り組んでくだされば大丈夫です」
 シートの中の機関銃――。
 秀之は、はっと、頭の中で何かが繋がるのを感じた。甲板にいたときに気になっていたシートの中身は機関銃だったのだ。そしてそれを見た明斗は、この船が林間学校のために動いている訳ではないと気づいた。
 今さらながら、非常に悔しい思いに襲われた。異変に気づけるチャンスはあったのに、それに気づけなかった自分がとても恨めしい。
 そして、いち早く真実に近づきつつあった明斗の鋭さは、たいしたものであるとも思った。
現在彼は、苦虫を噛み潰したような顔で矢口の説明を聞いている。
 前々から思っていたが、実は知識の量が豊富というだけではなく、頭の回転もかなり早いようだ。
「おっと、そろそろプログラム会場に近づいてきたようですね」
 モニターが急に切り替わり、海上の様子が映し出された。どうやら船の前方に取り付けられたカメラからの、リアルタイムの映像のようだ。遠くの方に小さくだが、確かに島らしき影が見える。
「今回のプログラム会場となるのは、こちらに見える烙沿島(ラクエンジマ)という島です」
 矢口がそう言った瞬間、一人の少女が勢い良く前に出てきた。亜里沙だった。彼女は何かを確認するかのように、モニターに写る島の姿を真剣に見ている。
「千銅、どうした?」
 岡野が不思議そうに彼女を見る。全員が大人しくしている中、亜里沙の行動はとても目立っていたようだ。
「……駄目……れない」
 何か小さく呟いたかと思えば、次の瞬間、彼女は驚くほどの素早さで岡野に飛び掛り、床に倒し押さえつけていた。
「うわぁ! なんなんや、この女!」
 驚いた矢口が慌てて、腰のホルスターから拳銃を取り出そうとするが、すぐにその動作を止めてしまう。亜里沙の方が先に、岡野から奪い取った拳銃を、矢口に向けて構えていたからだ。


 彼女の素早さ、身のこなしには秀之も驚かされた。いくらエアートラックスの二人が訓練を積んだ兵士ではないとしても、一瞬で移動できるような距離ではなかったし、岡野を倒す際に繰り出された体術は、そこらのひ弱な女子中学生がとっさに出せるものではないと思えた。
「そ、そこの女、動くな!」
 生徒達を取り巻いていた兵士達が一斉に、亜里沙に向かって銃を構える。しかし彼女は表情を変えず、むしろ普段は見せない鋭い目つきを、兵士達全員に向けていた。
 その迫力には、つい気圧されそうになる。
「やめろ、千銅! 下手に歯向かうな!」
 角下優也が声を上げる。
 確かにこの状況は、いつ彼女が撃たれてもおかしくない。
 いや、亜里沙も今にも、矢口の額を撃ちぬきそうだった。
 まさにどちらが先に手を出すかという、一触即発の状態。
 サンセット号に乗り込んで以降、最大の緊張が部屋に満ちていた。


【残り四十八人】

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