007
−闇の世界(7)−

「笹野先生!」
 小栗圭織は一瞬我を忘れているように見えたが、すぐに意識を呼び戻したのか、物言わぬ抜け殻となってしまった先生に、飛びつくようにして泣き付いた。
 彼女に限らず、多くの生徒が思いを巡らせたことであろう。
 結婚したばかりで、幸せの絶頂だった先生が、なぜこんなことにならなければならないのか。
 つい先ほどまで見せてくれていた、あの大好きな笑顔がもう見られない。
 そう思うと、怒りや悲しみが一斉に襲い掛かってきて、とてもやりきれない気持ちになる。
 しかし、一時の悲しみが過ぎ去ると、次にこの場を支配しようとするのは闇。死への恐怖。
 空気が急速に淀んで、力無き学童達の心を冒してゆく。
 このプログラムという舞台での主役は、先生なんかではない。殺し合いという下等な悲劇をこれから演じなければならないのは、我々生徒達に他ならない。凄惨な死というものを前にして、一人、また一人と、本当の恐怖はこれから始まるのだと気づかされていく。
「う……うぁぁぁぁぁぁっ!」
 その悲鳴に気付いて振り返ったときには既に、榛名一成(男子十九番)が食堂の出口へ向かって駆け出していた。
 恐怖のあまりに現実から逃げだそうとしたのか、しかしそれは冷静さを欠いてしまった者の、迂闊で愚かな行動でしかなかった。
 兵士達の無数の銃口によって退路を断たれている中で、食堂の外に出られるはずがないし、仮に出られたとしても、船を取り囲む大海原を泳いで逃げおおせることが可能だとは、とても思えない。
 一成は人込みを避けるように一度跳躍し、テーブルの上に飛び乗った。
 陸上部所属の彼。しかし決して脚が速いわけではなく、特筆すべきはむしろジャンプ力。部活動では三段跳びの選抜メンバーに選ばれているだけあって、跳びはねることに関してのすばしっこさは、他の追従を許さない。
 全速力で走る一成が足を踏み出すごとに、しわ一つ無く綺麗にかけられていた白いテーブルクロスが大きくずれて、飾られていた花瓶が次々と倒れて割れた。
「よせ! 榛名!」
 視界の端で担当教官の江口が銃を構えた瞬間、清太郎の叫び声が聞こえた。
 しかし一成は止まらない。
 テーブルの上を駆ける彼は、端にたどり着くとそのまま大きく跳び上がり、また別のテーブルの上に着地する。
 三段跳びをよく知らない秀之でも、感心してしまうほどの素早さだ。
「榛名! 危ない!」
 今度は望が叫ぶ声。
 間もなくして、一発の銃声が食堂に響く。
「ひぁぁぁっ!」
 大きく狙いを外した銃弾が床に突き刺さり、その傍に立っていた鈴森義人が後ろに跳んで尻餅をついた。
 一発目は外れ。だが笹野先生を殺したときのように、自動式の江口の銃はもう次弾を撃ち出す準備を済ませている。
 ダンダンダン!
 連続して響く火薬の音。しかし江口の銃の下手さもさることながら、一成の予想外の素早さもあって、なかなか命中しない。
 ホップステップ、と、彼はもう二度目のジャンプで次のテーブルに移動している。出口はもう目の前。あとは最後のジャンプで出口手前のテーブルに移るのみ。
 競技のときと同じく、三度目のジャンプでは前二回の「ホップ」よりも「ステップ」よりも大きく踏み込み、最大の跳躍を予感させた。
 テーブルが激しく軋む。
 皆の視線がアーチを描くように動き、その先で一成は確かに素晴らしい空中演舞を実現させていた。滞空時間、飛距離、共に今までで一番なのは確実。
 白いテープを切るかのごとく、一成の張った胸がよりいっそう前に突き出される。ゴールはもう目の前。
 そんな最中に秀之は見た。一成の身体が徐々に下降を始めたとき、空中で彼の胸を、何かが目に見えない速さで貫いていったのを。
 スポーツマンとしてお世辞にも恵まれた体格とは言えないその一成の身体が、急激に体勢を大きく崩した。引いていた顎が前に突き出され、頭が下がり、前のめりになっていく。そして最後は前転しながらテーブルを飛び越え、頭を下にした逆立ち状態になって、扉の横の壁に叩きつけられた。一成が出口に到達するよりも早く、江口の銃弾が命中してしまったのだ。


 どさりと床に落ちた彼は胸から大量に出血しており、ピクリとも動かない。その様子から、既に絶命しているのが見て取れる。
 焦ると危険を省みず考えなしに行動してしまう、という理由から、実は注意レベルと判断されていた一成。不幸にも秀之の目算通り、その性質が命の危機を自ら招くこととなってしまった。
「うわぁぁぁぁぁっ! コメちゃん! コメちゃん!」
 今度は別の場所から泣き叫ぶ声が上がった。
 一成が倒れている場所よりも手前で吉野梓が、首に大穴を開けて倒れた女子を必死にさすっている。
 倒れているのは安全レベルの越野光(女子五番)だ。『こしのひかり』という名前から『の』の字を取ると『こしひかり』という米の銘柄になることから、『コメちゃん』の愛称で親しまれていた長身の子。運悪く、なかなか狙いが定まらない、江口の下手な銃の流れ弾の餌食になってしまっていたのだ。
 そしてもう一名、うめき声を上げている者もいる。銃弾が掠ったらしい太もも付近を押さえながら、堀口夏生が辛そうな表情で屈み込んでいた。
「お、おい! 夏生、大丈夫か?」
 角下優也が心配げに駆け寄ろうとすると、夏生は手を上げてそれを制する。
「だ、大丈夫だ……俺のはただ掠っただけだ……」
 しかし、いくら身体の芯は捉えなかったとはいえ、銃弾は確実に足の肉を深く抉りとっている。抑えた手からはみ出すほどの出血が痛々しく、とても大丈夫には見えない。
 が、夏生が配慮する気持ちも分かる。笹野先生、越野光、榛名一成、と立て続けに三人も殺されて、現場は大混乱状態なのだ。負傷者を気遣うことも大切だが、それよりも早くこの騒ぎを鎮めなければ、新たな犠牲者が出ないとも限らない。
「沖田! 皆を落ち着かせろ!」
「は? 何で俺が?」
「俺は急いで夏生の手当てをする! その間、誰かがこの場を収めないと、また混乱した奴が殺されてしまうかもしれない!」
 すぐ近くにいたからか、唐突に重大な役割を押し付けられて困惑したものの、次の瞬間には秀之は舌打ちしながらも動き出していた。ここで目立った行動を起こすと、自らの身に危険が及ぶ可能性があるものの、黙って見ている訳にもいかないように思った。
「みんな! 落ち着け! 落ち着くんだ!」
 混乱した中でも全員に聞こえるよう、秀之は珍しく声を張り上げたが、死という巨大な恐怖に襲われている面々は、そう易々とは静まらない。大音量のざわつきの中に、秀之の声は虚しく飲み込まれてしまっただけだった。
 血の臭いが充満しだした食堂内の光景は、もはや地獄絵図だ。
「アホやなぁ。この武装客船サンセット号から逃げられるはずあらへんのにねぇ、岡野さん」
「せやな。それにしても、こんなに混乱してて、これから皆プログラムのルール説明ちゃんと聞けるんかいな?」
 プログラム補佐官のエアートラックスが、話しながら困ったような顔をする。場を収拾したい気持ちは彼らも同じなのだ。
 それよりも、秀之はさり気に聞こえた単語が妙に気になった。
 “武装客船”とはいったい何なのか?
「ヘケケケケケッ! ナニコレ、スゲースゲー! 早速イロイロ始マリ過ギダロ!」
 相変わらず辻斬り狐が一人で歓喜している。そして、その後ろでは鳴神と山田が、こちらは未だ一言も発さず、冷ややかな目で退屈そうに騒ぎを見守っている。
 同じ転校生でも、あまりに態度が対称的だった。もしかしたら、プログラムへの参加理由がそれぞれ大きく違うのかもしれない。
 騒ぎの中で、秀之は冷静に転校生三人の観察と分析を始めた。この地獄のような状況下では彼らの危険性を計ることが、自分の身を守るための重要な情報になる、と考えたからだ。
「臭いですね……、臭過ぎます……」
 泣き声や悲鳴が飛び交う中で唐突に、担当教官の江口が自らの鼻をつまみながら呟いた。光る眼鏡の奥で目を細め、不愉快そうに顔を歪める。
「誰か、この臭い汚物をとっとと外に運び出してください」
 彼が指差す方にあるのは、額を打ち抜かれて血や脳の一部をだらだらと流している笹野先生の遺体。
 指示を出されて兵士たちは一斉に、はっとした表情になって、急いで部屋の外から担架を三つ持ってきた。
「おらっ、そこをどけ!」
 越野光の死体に張り付いていた梓たちを突き飛ばし、兵士達は光の死体を乱暴に担架に乗せ、食堂から運び出していった。続いて一成。そして最後に笹野先生の死体に手が付けられる。
 誰もそれを止めることができない。つい先ほどまで恩師や親友の遺体に泣き付いていた者たちも、一歩下がって黙って見届けることしかできなかった。
 しかし皆、腹の内は煮えたぎっていたに違いない。大事な仲間達を虫けらのようにあっさりと殺され、さらに今度はその遺体をゴミか汚物のように扱われたのだから。
「まだ臭いですね……」
 三人の死体が運び出されたのを見届けてからも、江口は白衣の裾で鼻を押さえていた。
「掃除用具はありますか?」
「ございますが」
「急いでここに持って来てください」
 指示に従って、兵士の一人が今度はほうきと塵取りを持ってきた。
「そこのあなた。こいつでそこに散らかっているゴミを集めてください」
 佳織の前に放り投げられたほうきと塵取りが、床にぶつかって大きく音を立てる。
 それを見て、佳織はあたふたとするばかり。
「えっ? えっ?」
「分からないですか? あなたの目の前にあるそのゲロみたいなのを、とっとと取っ払え、と言ってるんですよ」
 佳織の前に散らばっているのは、グチャグチャしたソーセージの出来損ないのような物体。血みどろのそれの正体は、粉砕された笹野先生の脳であった。
 鬼畜だ……。
 秀之は江口のことを冷ややかな目で見ながら、心の中で毒づいた。生徒達に愛されていた恩師の脳を、ほうきで掃くなんて馬鹿げた行為、できるはずがない。特に笹野先生を慕っていた佳織にそれを強要するのは、あまりに酷なことである。
「で……出来ません。そんなこと……」
 佳織が当然の返答をすると、江口は全く表情を変えず、銃の引き金にかかった人差し指を軽く引いた。
「そうか。それでは仕方が無いですね」 
 パン、と乾いた音がしたかと思いきや、正確に頭を撃ち抜かれた佳織が勢い良く後ろに倒れた。いくら銃が下手な彼でも、さすがにこの至近距離からでは外さない。
「佳織!」
 佳織が倒れる様を近くで見ていた森下藍子が、ボロボロと涙の大粒を落としながら顔を覗き込む。当然、急所を貫かれた佳織が動くことはもう無く、死を確認した藍子は顔を上に向けて泣き叫ぶばかりだった。元々仲が良くて、林間学校でも一緒に行動することになっていただけに、ショックはより大きかったに違いない。
「馬鹿な奴です。私に逆らえばこうなるなんて、容易に想像できたでしょうに」
 江口は喋りながらジェスチャーで、今度は佳織の死体を運び出すよう、兵士に指示を出した。
 さすがに秀之も、この一連の馬鹿げた殺人劇には吐き気を覚えていた。
 信じられない。人はこうもあっさりと、ポンポン死んでいくものなのか。
 ここにいると、尊いはずの人の命が、風船のように軽いもののような、馬鹿げた錯覚をしてしまいそうだった。
 人を殺すという重大な行為を軽くやってのける、この江口という男はいったい何者なのだ?
 白衣を着て、よく見ると手術用の薄いゴム手袋を装着している彼は、まるで医者のように見える。しかし、人の命を救う立場にあるはずの医者とは、彼の立場は完全に真逆。
 血や内臓の臭いを嫌うなど、医者だとしたら成立しないことだらけだ。
「おい。そこのギャーギャーうるさい女」
 そんな江口が、今度は床に膝をついて泣き崩れている藍子へと近寄った。


 そして、またしてもほうきと塵取りを放り投げた。
 刹那、嫌な予感が秀之の中を駆け巡った。たった今起こったばかりの悪夢のような光景が、早くも頭の中に蘇る。
「この床に散らばった生ゴミ、あなたは掃除できますよね?」
 案の定、思った通りの展開だった。そして、その馬鹿げた命令を再び耳にして、藍子は涙をぴたりと止め、そして石像のように身体を固めた。


 越野光(女子五番) - 死亡

 榛名一成(男子十九番) - 死亡

 小栗佳織(女子三番) - 死亡


【残り四十八人】

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