兵士達のざわめきも、コンピューターのファンが回転する微かな音も、プログラム本部の教室からほんの少し離れてしまえばすぐに聞こえなくなる。古びた木造の校舎内はどこへ行こうが至って静か。それだけに耳に当てた携帯電話を相手に話を続ける男の声は、より際立って廊下じゅうに響き渡っていた。
用足しを終えた田中一郎(担当教官)は、こげ茶色をしたスラックスのファスナーを上げつつ洗い場へと向かい、簡単に手を濯いでから、肩と耳の間に挟んだままだった携帯電話を手に持ち替えた。通話の最中に用を足すなど、それはたいへん失礼極まりないことであるが、彼はそれを気にする様子も無く悠々とやってのけたのだった。
「えー……、あ、はい、そうですねぇ。しかしながら――」
ネチネチとした湿っぽい口調で話を続けながら、そのまま何事も無かったかのように本部へと戻る。校内トイレは教室から離れた場所に、しかも一箇所しかないという、古い校舎にはまれに見られる不便な構造上、少し歩かなければならないが、まあ仕方が無い。
静寂しきった廊下が田中の声と靴音のみに支配される。それはまるで、この世の中に生きる全ての人間が、彼の周りから消失してしまったかのよう。
人通りの無い廊下は、もちろん行きと帰りで様子が違っていることなどまずあり得ない。しかし本部のすぐ手前にまで来たとき、田中はふと気がついた。先ほど前を通りかかった時、物置場の蛍光灯は灯されていたように思うが、今はもう消えており、そして出入り口の戸がほんの僅かであるが隙間を作っている。
誰かいたのだろうか?
田中は戸を開いて中を覗き込むが、そこに人の気配など微塵も感じられなかったので、それ以上は気に留めることも無く歩を進めた。
「では、後々連絡させていただきますねぇ」
通話を切ると同時に、締め切られていた本部の扉を開け放つ。コンピューターのディスプレイの輝きのみに照らされた薄暗く青白い空間が、相も変わらずそこに広がっている。
田中は中へと踏み込むと、まずは部屋全体を見渡して様子を窺う。忙しそうにしていた兵達もまた、今も変わることなく動き回っている。いや、心なしか先ほどよりも慌てているようにも見える。
「どうしましたぁ? また生徒達に何か動きでもありましたかぁ?」
特に質問の相手を限定することなく、田中は兵士達全員に聞こえるような声で聞いた。すると腕組みしながらソファーの上に腰を下ろしていた御堂一尉が立ち上がった。
「今のところ見られる目立った動きといえば、四人組の集まりに向かうかのように、複数の生徒が会場内を移動していることぐらいですかね」
「ほぉ、四人組の集まりというと、女子十二番たちのグループのことですかなぁ」
田中が中沢彩音(女子十二番)を中心としたグループを挙げると、御堂は小さく首を振って、
「いいえ、男子二番、磐田猛たちのグループです」
と言い、モニターへと目線を向けた。確かにE−六地点に集まる四つの数字に向かって、二つの反応が別方向から近づいていく様子が、大型のモニター上にはっきりと映されている。
E−6の磐田猛たちのグループといえば、数時間前に起こった騒動により三人もの生徒が亡くなった、いわばいわく付きの集まり。
「なかなか面白そうじゃないですかぁ。早速スピーカーの設定を男子二番に切り替えてくださぁい」
再び相手を限定することなく、兵士達全員を対象に言う田中。しかしその言葉を聞くや否や、その場にいる者たちが一斉に身を凍らせてしまい、誰一人としてそれに答えようとしない。どうしたことか、御堂までもが目を泳がせてしまっている。
「どうしましたぁ?」
状況を理解できず不思議そうにしていても、兵士達は沈黙を守ったまま。これにはさすがの田中も痺れを切らせたらしく、眉間に深いしわを寄せた。
「おい、いつまでも黙ったままじゃ分からないだろ!」
これまでの穏やかな態度の中には見られなかった凄まじい剣幕に、兵士達全員が思わず一歩後ろへとたじろぐ。そんな中、御堂一尉のみが腹をくくったように前に出る。
「誠に申し上げにくいのですが、何故か急に首輪からの音声が一切途絶えてしまいまして……」
「なんだと!」
機嫌を損ねた田中の表情がまた一段と険しくなる。
「なんて無様な……。原因はなんだ! どこかでコードが切れたのか! スピーカーが故障したのか! 受信アンテナの破損か! どうなんだ?」
「分かりません! 現在兵士総動員して原因究明に努めております!」
「さっさと終わらせろ!」
それだけ言い田中が身を翻してソファーへと向かうと、御堂をはじめ、田中の剣幕に身体を固めてしまっていた兵達も、全身を拘束していた氷が解けたかのように再び動き始める。
少し固めのソファーの上に腰を下ろした田中は深く溜息をついた。
たとえ音声が途切れてしまったとしても、首輪の他の機能が正常動作している限りはプログラム運営に支障をきたすことはない。問題なのは、参加者達の苦しみもがき嘆き悲しむ声も聞けないということ。
喉の渇きに似た感覚に耐えられず、握り締めた拳を力の限りテーブルの上に叩きつけた。兵達のざわめきやコンピューターの音を押し退け、その音は部屋中によく響き渡った。
「興醒めだ」
小さく呟く田中の目つきは、未だ怒りに満ちたままだった。
【残り 二十人】 |