067
−託す希望灯火(2)−

 木田は再び一呼吸してからコンピューターと向き合う。ほんの束の間の静寂は、十本の指先が激しくキーを叩く音によってすぐにかき消された。真っ暗な液晶上を白い文字列が飛ぶように走り、たちまち画面内を明るく染め上げていく。その様子を見つめる真剣な眼差しがまた頼もしく思えた。
 木田の手際の良さは見事なものだった。自由自在にキーボード上を走り回る指先の一本一本が、まるで独立した生き物のよう。さすが長きに渡ってプログラミング技術を培ってきただけのことはある。
「まったく、お前の技量には本当に参るよ。俺なんかじゃ足元にも及ばない」
「なぁに、この辺りはまだまだ序の口だ。見てろ」
 キータッチのスピードをさらに早める木田の得意げな顔からは、場違いなほどの余裕が感じられる。
 一度画面をスクロールさせて、詰まりに詰まった白い文字列を画面外へと追いやり、そこからさらに三行ほど打ち込んでからエンターキーを押す。
「よし、とりあえずは潜入成功だ」
 コンピューターゲームを楽しんでいる子供ように、喜色満面でガッツポーズを取る。
「それで、今のところ問題は無いのか?」
「張り合いが無くて退屈してしまいそうなほどに順調だ。まあ浅瀬には障害もほとんど無いし、楽々通過できて当然なんだが。問題なのはここから先だな。深く潜れば潜るほどに危険度が増していく」
「自信の程は?」
桂木が聞くと、
「問題無しだ。こうなることを見越して、交代時間になる前に進入経路を拡張しておいたからな。それほど難度は高くないはず」
と、木田はすんなりと言い切る。
「お前、今回の策を俺に持ちかけるよりも前に、本部のコンピューターに細工していたのか?」
 少しうわずった様子の桂木の声に、木田は意味深な笑みを浮かべて返す。
「まあな。そうでもしなければ次の交代までの十二時間は手も足も出せないからな。お前が俺の案を拒むのなら、後でまた細工した箇所を元に戻しておけば済むことだし」
「呆れたやつだ」
 しかし言葉とは対照的に、常に先を見越した木田の行動力には感動させられっぱなしだった。そりゃあ、今回のプログラムのことをつい先ほどまで他人事と思っていた木田の方が、冷静に物事を考えられて当たり前なのかも知れないけど、二人の立ち位置が全く逆だったとしても、自分は彼ほどの働きを見せることができるとは、とても思えない。
「本当にすまないな。何から何まで世話になってしまって」
「何度同じことを言うつもりだ。さっきから気にするなと言っているだろ」
「しかし、ここまでしてもらっちゃあ、もう一度や二度礼を言ったくらいでは……」
「お前もしつこい奴だな。俺はそんなふうに人から感謝されるのは苦手なんだが……。それじゃあこうしよう。もしも全てが上手くいったなら、その礼としてお前がメシを奢る。それで貸し借りはなし。どうだ?」
 本当はそんなことで気が治まるはずは無いのだけれど、桂木はとりあえず頷いて返すことにした。これ以上しつこく礼を重ねたところで、それは木田にとって迷惑でしかないと気がついたから。
 桂木の素直な返答に、木田は思わずにこやかな顔をした。しかしそれはほんの一時的なこと。なにやら深刻な話があるのか、すぐに真剣な表情に戻る。
「ところで桂木。先にも言ったとおり、俺達の作戦が上手くいったとしても、まだ手放しで喜べるような状況ではないからな。それだけはきちんと理解しておけよ」
「分かっているよ。生徒達が立てた脱出計画が成功するかどうかが分からないんだろ」
「そういうことだ。奇抜な策略を考え付いた“発案者”はどうやら只者ではなさそうだが、それにしても簡単にプログラムから抜け出すことができるなどとは、あまり考えにくい。それに――」
「それに?」
 話の続きを求めると、木田は少し言い難そうに顔をしかめた。
「もしも脱出が成功したとしても、生徒達は元の日常に戻ることはできないだろう。国のしきたりに背いた犯罪者として、一生の逃亡生活を余儀なくされる。捕まれば即処刑されるという恐怖に怯えながら……」
 桂木の表情に陰りが生じる。
 それは今回の計画を遂行しようと決まった時点で疾うに分かりきっていたこと。とはいえ、千秋の向かう先に明るい未来は残されていない、二度とあの店先に立つことも出来ない、などと考えると、やはり悲しい思いをせずにはいられなかった。
「さて、そろそろお喋りしている場合ではないようだ。安全地帯はとうに過ぎ、ここから先はレッドゾーン。行く手に張り巡らされている罠のどれか一つにでも足を引っ掛けてしまえば、その瞬間にゲームオーバーだ」
 メインコンピューター内への進入ミッションも佳境へと突入したとのことで、桂木は木田の集中力を削がぬよう、しばらくの間は口を閉ざすことにする。
 ターゲットはもう目の前。細心の注意を払いながらも、木田の素晴らしき作業スピードは衰えることを知らなかった。心臓部までの道筋を熟知しているからこそ成せる業といえよう。
 罠と仕掛けの張り巡らされた電脳ラビリンスの内部を、とにかく真っ直ぐに突き進む。桂木はしばらく黙ってその様子を見つめ続けていた。すると、
「よしきたぞ! ようやく最深部に到着だ」
 ファイアーウォール突破も無事に終え、終着点にたどり着くことができたと木田が歓喜の声を漏らしたので、桂木も脇から覗き込んだ。そこにあったのは画面をびっしりと埋め尽くすほどの膨大なデータ。見た目は単なるドットの輝きの集合体でしかないけれど、これら全てが生徒達の命を左右する力を持っているのだと意識してしまうと、頭が痛くなるほどの迫力が感じられた。
「データの書き換えにはどれくらいかかる?」
「侵入にかかった時間と比べれば、全く大したことは無い」
 集中力を極限にまで高めた木田は画面から一秒たりとも目を離すことなく、早くも次の作業に取り掛かる。キー操作で要改変箇所を選択し、相変わらずの素早い動作で画面内に文字を躍らせる。その間ほんの十数秒。一連の作業を終えると、また別の場所へと狙いを定めて同じ事を繰り返す。そうしているうちに少しずつではあるが、データ内の重要部分が次々と書き換えられていく。
 順調に作業が進んでいくのを見て半ば安心しかけていたそのとき、部屋の外から物音が聞こえ、桂木の胸が大きく波打った。間違いなくどこかの部屋の引き戸が開け放たれた音だった。続いて聞こえたのはこちらへと迫ってくる足音。
「くそっ、あとちょっとだってのに、なんてタイミングの悪さだ!」
 何者かの接近に気がついた木田は、電源をつけたままのノートパソコンを畳み、慌てて側のダンボールの中へと押し込んだ。
「おい、コードがはみ出てるぞ!」
「分かってる! だけど作業の途中に引き抜くわけにもいかないだろ!」
 足音はだんだんと迫ってくる。今この部屋の中に踏み込まれて、下手に勘ぐられてしまっては、計画の全てが無駄に終わってしまう。そのため桂木と木田は声を押し殺し、足音が通り過ぎてくれるようにと祈り始めた。
 足音が近づくと共に、誰かの話し声が聞こえてくる。田中の声だ。どうやら携帯電話での会話の途中でありながら、部屋から出てきてしまったらしい。
 緊張に身体が固まってしまった二人は出入り口の方を向き、額に嫌な汗を滲ませながら、今にも音をたてて開きそうな扉の様子をじっと見つめていた。それはほんの数十秒ほどの出来事であったが、桂木にはとてつもなく長い時間であるように思えた。
 祈りが通じたのか、幸運にも田中は部屋へと踏み入ってくること無く、足音はすぐに遠ざかっていった。おそらくトイレにでも向かったのであろう。
 最大の窮地をなんとか逃れることができ、力の抜けた桂木の身体が、風船のように萎んでいく。
「あ、危なかった……」
 木田が胸元を押さえながら座り込む。彼に襲い掛かった緊張感もまた相当なものだったようだ。
「まさかこんな最悪なタイミングで、担当教官の田中本人が来るとは……」
 桂木が言った。すると木田はなにやら少し考えにふけるような動作を見せて、小さく「田中か……」と、意味ありげに呟いた。
 気になった桂木は、彼に何を考えているのか聞こうとしたが、そんな暇も無く話は先に進んでしまう。
「とにかく、いつまでもダラダラとこんなことをしていたら、命がいくつあっても足りやしない。残された作業はもう僅かしかないんだ。さっさと終わらせてずらかろう」
 と言ってダンボールの中からノートパソコンを取り出して、先ほどの作業の続きを始める。
 桂木は木田の呟きが気になって仕方がなかったが、邪魔をしてはいけないと自分に言い聞かせて、今はまだ黙っておくことにした。
 桂木が見ている前で、木田は僅かに残されていた作業を実に鮮やかに進め、最後に力強くエンターキーを押した。
「よし、どうやらうまくいったようだぞ!」

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