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−杖突きの決断(4)−

 時間的には、二人の女子生徒を手にかけたばかりの黒河龍輔が、ボウガンの毒に苦しむ三上圭子のもとから立ち去ろうとしていたちょうどその頃、土屋怜二と武田渉は森林の中をゆっくりと前進しながら、潜めた声で話を続けていた。
「謝るって、誰に何をだ?」
 怜二は聞いた。先ほどの「会って謝らなくてはならない人がいる」という渉の発言に対しての疑問。
 渉はゆっくりと口を動かす。
「横田真知子。俺はある発言によって彼女を傷つけてしまった。だから、死ぬ前にそのことについて詫びなければならないんだ」
「これまた少し意外な名前が飛び出してきたな。で、何と言って横田を傷つけちまったのか、よかったらもっと詳しく教えてくれないか。むろん強要はしないが」
 怜二はそんなことを言いながら、横田真知子という人物について思い出す。
 クラスの女子の中で最も大きな体格を誇り、笑ったときに顔に浮かび上がる笑窪がとても印象的な少女。女性に対してこういうイメージを抱くのも失礼な話だが、それらの特徴があまりに目立ちすぎていて、少々老けていたように思える。しかし自分を着飾ろうとしない様子が親しまれやすかったのか、クラスメートのほとんどから慕われていて、また、誰のどんな悩み相談にも嫌がる様子を微塵も見せず、黙って話を聞いた後に自分なりの意見とアドバイスをなだらかな口調で述べる、ということもしばしばあったようだ。大きな身体で何もかもを優しく包み込んでくれる、まさにクラスの母親的存在であったと、少なくとも怜二は思っている。
 そんな彼女に対して、はたして渉はどんな酷い言葉を浴びせたというのだろうか。全く想像すらできない。
「横田さん、助けてくれたんだ。二年前の松乃中の火災のときに、瓦礫の下敷きになって身動きが取れなかった俺を」
 話す渉に躊躇する様子はもう見られなかった。隠蔽されていた過去の真実について、洗いざらい全て話すという決心は、すでに十分固まっていたようだ。
「瓦礫に身体を挟まれて身動き一つ取れなかったとき、凄く怖かった。迫る炎の勢いは凄まじくて、いつ自分が飲み込まれてしまってもおかしくなかったから。だから俺は必死に叫んだ。目の前を走り去っていく――逃げ惑う生徒達に向かって、助けてくれ、と。だけど逃げるのに必死だった人たちは、誰一人としてこちらを振り向いてはくれなかった。いや、時々こちらを見てくれる人もいたけれど、すぐに前を向き直って走り去ってばかりだった。絶望的だった。生き延びたいとは思っているのに誰も助けてはくれないあのときの状況は」
 渉の話を聞いていると、頭の中に当時の光景がリアルに蘇ってくる。同じく被災者である怜二は無意識のうちに息を呑んでいた。
「だけどついに、俺にも救いの手が差し伸べられる時が来た。目の前を偶然通りかかったに過ぎない一人の少女が、助けを求める俺の声に気がついたらしく、近寄ってきてくれたかと思いきや、身体の上にのしかかっていた瓦礫の山を、全て払い除けてくれた。炎はすぐ側にまで迫っているというのに、自分の身が危険にさらされるのにも構わず、俺を背負い上げて外へと連れ出してくれた恩人。それが横田さんだったんだ」
 そういえば、学園祭の準備のときに、横田さんが出店の重い看板を一人で持ち運んでいるのを見て、驚いてしまったこともあったっけ。
 先の真知子についての考察に含まれていなかった、「力自慢である」という長所を、今さらになって思い出した。どうやら彼女の丸い性格に似つかわしくないためか、完全に忘れてしまっていたらしい。
 それはともかく、当時の事件を振り返りたくなかったために一度も追求しようとしなかった“渉が助かった経緯”が思いがけぬ形で明らかとなったことは、怜二にとっては少し衝撃的だった。
「俺が渉の無事を知ったのは、既に病院に運び込まれた後だったし、そんな話は知らなかったよ」
 そして怜二は気がついた。渉が話していた状況と、過去に自分が見た光景が、あまりにも似通っているということに。しかし今の話には全く関係のないことなので、自分の過去の記憶はあえて頭の中から除外することにした。
 余計なことも一緒に考えてたら、無駄に気疲れしてしまいそうだしな……。
「俺さ、入院直後の意識がもうろうとしてた頃はよく分かってなかったんだよ。毒性のある黒い煙に視界を封じられた中で、助けの手を差し伸べてくれた人物の顔を。だけど日に日に意識が回復していくうちに、頭の中にうっすらとしか写っていなかった恩人の顔が、だんだんとはっきり浮かび上がるようになって、ようやくそれが横田さんだったと気づいたんだ」
 茂みに覆い隠されて分かりづらいが、深夜の雨によってできたぬかるみが足元にあるのにふと気づく。渉が足を踏み入れぬよう、杖代わりの木の枝を持つ方とは逆の手を引いてまたがせる。その間も話は続く。
「それからの俺は何かがおかしかった。頭の中であの優しい笑顔を思い浮かべただけで、顔全体が朱に染まり、心臓が激しく波打つようになってしまった。どうしてこんな感情を抱いてしまったのかは分からないけど、これだけは言える」
 渉が息を呑む音が聞こえる。そして、
「好きになってしまったみたいなんだよ。死と隣り合わせだったあの危険な状況下で、俺なんかを助けてくれた横田さんのことが」
 ある程度予想していたこととはいえ、やはり直接その話を聞いてしまうと驚かずにはいられない。てっきりクラス一の美人だと謳われている蓮木風花(女子十三番)だとか、渉もその辺の女が好みなのだろうと、つい昨日までは思っていただけに。
「で、横田さんを傷つけてしまったっていう話はなんだったんだ?」
「焦らないで。これから話すから」
 足元を這い回っている木の根をまたぎながら、渉は再び話し始める。
「あれは事件からしばらく後――梅林中に通うようになってからのことだった。いつものように松葉杖を突きながら廊下を歩いていた俺に、正義が話しかけてきたんだ」
「正義が?」
 宮本正義の最期を看取った川辺での出来事を思い出してしまい、少し嫌な気分になった。
「説明不要だろうけど、俺と正義は同じサッカー部に所属していたから、普段から接する機会も多かったし、だから話しかけるときはいつも気軽だった」
「それは俺も同じサッカー部員だったし、察しの通りよく知ってるぜ」
「うん、だからあの時も正義は、ほんの軽い気持ちで言ってたんだと思う。『渉、横田のこと好きなんだろ』って」
「あいつ、そのときから渉の気持ちに気づいてたのか!」
 声のボリュームが上がっていることに気づき、怜二は慌てて口を押さえる。
 そういえば、正義は昔から意外なところで鋭い勘を発揮することがあったっけ。
「気づいてたのか適当に言ったことが当たってただけなのか分からないけど、とにかくからかい半分で面白がってそんなことを言ってきたんだ」
 思春期の男同士の会話としては別段おかしなことではない。怜二も同じようなことを磐田猛にからかい半分で言ったことがある。(このとき猛は黙秘を守り続けていた)
 渉が力の限り手を握り締めているのにふと気付く。どうやらここから先が一番重大な部分らしいと、なんとなく感じ取れる。
「で、それから?」
 好奇心半分、恐ろしさ半分、そんな気持ちで怜二は尋ねた。
「今思うと本当に馬鹿なことをしてしまったと思うよ。からかうように話しかけてきた正義に、俺は恥ずかしさからこんなことを言ってしまったんだ。『誰が好きになるかよ、あんなボンレスハムのことを』って。恥ずかしさから飛び出したただの冗談のつもりだった。だけど、その直後俺は全身が凍りつく思いをすることとなった。俺の立ち位置からほんの数メートル先にいたんだよ……横田さんが。もっとも、正義は背後に立つ横田さんの存在に全く気がついてなかったみたいだけど」
「冗談のつもりで言ったその言葉を、偶然にも聞かれてしまったわけだな」
 渉が小さく頷く。
 なるほど、と思った。真知子は特別自分の体型を気にしているような人物ではなかったが、やはり彼女も年頃の女、さすがにそんなことを言われれば、いくらなんでも平気でいられはしないだろう。そしてもしも、自分を罵った人物に対し、ある一定以上の好意を抱いていたとしたら、なおさらダメージは大きくなるはず。もちろん真知子が渉のことをどう思っていたかは分からないが。
「それが二年の終わりごろのこと。怜二は気づいてなかったかもしれないけどさ、俺もう半年ほど横田さんとはまともに言葉を交わしてないんだ。あの一件以来お互いぎすぎすしてしまって。もちろん何度か謝ろうとも思ったけど、もはや彼女に近づくことすら困難だった状況下では、上手くタイミングを掴むこともできず、結局は今日にまで至ってしまった」
「だから、生きていられる残り少ない時間内で横田を見つけ出して、その件について今度こそ謝罪したいというわけか」
「そうだ」
 背後に渉の存在を感じながら、怜二は乱れた長髪を手ぐしで伸ばし始めた。
「正直言って、俺はお前のことを尊敬したよ。プログラムに巻き込まれた人間なんて、もう生きるか死ぬかしか考えられないものかと思っていたけど、まさかそんなくだらない私情に突っ走る馬鹿もいるとは思ってなかったからさ」
「怜二?」
 渉の目が少し見開かれる。
「そんな馬鹿なら大歓迎だ。一緒に探そう、横田真知子のやつを」
 前を歩いていた怜二は突如立ち止まり、上半身を捻って後ろを振り向きながら、そっと右手を差し出した。すると渉は感極まったか、じんわりと目を潤ませて、
「本当に、こんな馬鹿げた私情に囚われた俺のために、力になってくれるのか?」
「当たり前だろ。俺とお前は一年の頃からのクラスメート及びチームメイト――これ以上無い大切な仲間の思いを、無視することが出来るわけないじゃないか」
 お互いの手が固く握り締められた。求め合っていた者同士が出会い、もう二度と離れないとでも言わんばかりに。
 潤んだ目を細めながらこちらを見上げてくる渉の顔を、優しい目で見つめ返しながら怜二は思った。純粋なる心を持つ友の願いを、なんとかして叶えてやりたいと。
 だがそんな穏やかな雰囲気も長くは保たれず、すぐ近くで人の気配がした途端、怜二の表情は緊張に引きつった。

【残り 二十三人】
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