061
−杖突きの決断(5)−

 すぐ近くに誰かがいる、そんな気配を感じたとたん、怜二は自己防衛本能に促されるままに辺りを見渡し始める。
 突然周囲を警戒しだした怜二の姿を、きょとんとした様子で見る渉。どうやら彼は、付近から感じられる何者かの気配に、まだ気がついていないようだ。
 構わず耳を澄ましていると、浮き輪の穴から空気が漏れるのによく似た音が、森林の奥地から微かにだがはっきりと聞こえた。それは間違いなく人間の呼吸音――それも苦しみから逃れたい一心で、大気中の酸素を出来るだけ多く取り入れようとしているかのような、かなり荒い息遣いだとすぐに分かった。
「どうしたのさ? 急に周りを気にしだして」
 豹変した怜二の態度にただならぬ事態の訪れを感じたか、渉の唇が小さく震えた。
「気をつけろ。どうやらこの辺りに誰かいるようだぞ」
 そう言う怜二も緊張していたか、渉と繋いでいた手を震わせていた。無理もない。あからさまに殺意を見せながら襲い掛かってくる狂乱者よりも、正体不明の目に見えぬ存在のほうがかえって恐ろしいものだ。
「いいか渉はここにいろ。俺が奥に行って様子を見てくるから」
 怜二はそう言って渉から手を離し、息遣いの聞こえる方へと一人でゆっくり歩みだす。
 足を引きずって歩いている渉とではこの場から走り去ることも出来ないし、じっとしていてもらちが明かない。そういった現状をよく考慮しての判断だった。それに、一秒でも早く横田真知子を探し出すという目的がある以上、相手の正体を明らかにせぬままこの場から去るわけにもいかない。この先に待ち受けている正体不明の人物が敵であると決まったわけでもないし、それが真知子である可能性もあるからだ。ただし、万が一という事態に備えて、いつでも炸裂閃光弾を投げられるよう構えはした。
 怜二が一歩踏み出すごとに、腰の高さほどある野草たちががさがさと派手に音を立てる。その音はこの先にいる人物にも聞こえているはず。誰かが近づいてきていることくらい気が付いているだろう。しかし、いくら前へと進んでいっても、茂みの陰に隠れているらしき謎の人物は、一向に動く気配すら見せない。
 射程距離にまで獲物が近づくのを待ち、それから襲い掛かってくるつもりなのだろうか。それとも、向こうもただ相手の正体を見極めようと、こちらの様子を伺っているだけなのだろうか。
 行く手に立ち塞がる茂みを手で払い除けた途端、目の前に信じがたき光景が広がった。怜二がよく見慣れた兵庫県立梅林中等学校の制服を着た女が二人、ぐったりとした様子で地面の上に倒れていた。一人は少し細長い体格をしたミディアムショートの少女。そしてもう一人は、後ろに返した髪を首の辺りで結わえている丸々とした体格の少女――渉が会いたいと話していた横田真知子に他ならなかった。
 怜二の顔から血の気が引いていく。それもそのはず、倒れた真知子の頭には、左側から突き刺さった矢のようなものが貫通しており、死んでいることは明らかだったから。
「怜二、誰かいたの?」
 背後に向かって「来るな」と言ったがもう遅く、様子のおかしい怜二が気になったのか、渉は既にすぐ側にまで近づいてきていた。そしてその先の見てはならぬ光景を、怜二の脇から覗き込み、愕然とした。
「ま、まさか、そんな……」
 頭に矢が刺さった真知子の死体を見て、渉はわなわなと身体を震わせる。真知子を探し出すために協力すると怜二が言ってくれたおかげで僅かながらも希望を持ち始めていただけに、それを打ち砕かれたショックは相当大きかったはずだ。
「横田さん!」
 渉は身体を支えていた木の枝を放り出して、地面に這い蹲りながら真知子の方へと近寄っていく。怜二にはもうそれを止めることもできない。無様な格好で愛した人の亡骸へと向かう渉の後を、ただ黙ってついて行くしかなかった。


 真知子の側にまでたどり着いた渉は地面に両手をついたまま、上から覗き込むような格好で、目を半分開いたまま時が止まってしまっている少女の顔を見つめる。あの優しい笑顔はもう二度と見られない。そして、過去に犯した罪について永久に謝ることができない。そんなことを思ったか、瞼の裏に限界にまで溜めていた涙がついに頬を伝って流れ始める。
 渉の肩越しに真知子の姿を見ていた怜二は、手を伸ばして遺体の目を閉じさせる。そのとき微かにだが指先に体温の名残を感じた。それはつまり、真知子が死んでから時間はそれほど経過していないということを意味している。
 もう少し早くたどり着いていれば、渉の願いを叶えることができたかもしれないと思うと、なんだか無性に悔しくなった。
 しかしそのことはあえて口に出しはしなかった。ここにたどり着くのが遅れてしまったのは、足を怪我していた自分のせいだと、渉がさらに落ち込んでしまうだろうと分かっていたから。
「そこにいるのは……誰?」
 唐突に背後から声がかかり、怜二と渉は二人同時に後ろを振り向く。そこには倒れていたもう一人の女、学級委員長の三上圭子がいた。
 体中に何本も矢が突き刺さっていて、真知子の死体の側でぐったりとしている様子を見たときは、もう死んでいるものだと思い込んでいたが、驚いたことに、圭子にはまだ意識が残されていたのだ。
 なるほど、先ほど聞こえた粗い息遣いは彼女のものだったらしい。
「大丈夫か? 委員長」
 怜二はすぐさま圭子へと駆け寄る。その後ろに渉が続く。
「その声は……土屋くん? 土屋くんなの?」
 圭子はなぜか目を閉じたまま、暗闇の中で何かを探すかのように手を伸ばしてくる。
 怜二はまさかと思った。
「委員長、もしかして目が――」
 圭子のすぐ側にまで近づいた途端に言葉を失ってしまう。
 圭子は何者かに刺されたらしく、腹部からかなり酷く出血している。また、体中に四本もの矢が突き刺さっており、うち数本は貫通して身体の反対側から頭を出している。その様はかなり痛々しく、未だ生き永らえていることが不思議にさえ思えるほどだった。
 最も酷く思えたのが、一本の矢によって貫かれた右足付け根を中心に全身へと広がっている紫色のまだら模様。キュロットスカートの裾から伸びた圭子の足も、今や禍々しき姿へと変貌しており、以前の白く艶かしい様子はもう微塵も感じられない。そしてそのまだら模様は四肢のみならず、首を通り越して既に顔にまでうっすらと侵食し始めている。
 いったい何が起こればこうも酷い状態になるのか、怜二には想像すらできない。
「委員長、いったいここで何が……何が起こったんだ?」
 怜二に遅れてたどり着いた渉が尋ねる。すると、その声を聞いた途端、圭子の様子が明らかに変わった。
「もしかして、武田くん?」
 相変わらず目は閉じたままだが、圭子は再び何かを探すように手を伸ばした。渉はそれを自分の手で優しく包み込み、「そうだよ、武田渉だよ」と言う。
「ああ、これは本当に偶然なのだろうか。まさか意識が途切れる前に……、本物の武田くんに会うことができるなんて……」
 自分の手を優しく包み込む渉の手をしっかりと握り返しながら、閉じられていた瞼の隙間から涙をこぼし始める圭子。
「ちょっと待ってて。すぐに身体から矢を抜いてあげるから」
「待て」
 左腕に突き刺さっている矢へと伸びる渉の腕を、怜二が慌てて掴んで止める。
「これだけ深く突き刺さっている矢を何本も引き抜くのはまずい。傷口が広がって、さらに血が流れ出してしまう」
 たしかに、圭子の腹部からの出血は酷く、これ以上血を流すことは命に関わる問題だと一目瞭然。渉もそれを理解したらしく、すぐに手を引っ込めた。
「いったい誰にやられたんだ?」
 怜二が問うと、圭子は色の悪い唇をぎこちなく動かし、間違いなく「黒河龍輔」と言った。
「横田さんも黒河にやられたのか?」
「ええ……そうよ。茂みの影で寄り添っていた私達は、いきなり黒河に襲われて、真知子はボウガンの矢を頭に……。彼に立ち向かおうとした私も、結局は……歯が立たずこの通り……」
 圭子は苦しそうに何度も息を切らしながらも、懸命に話をしてくれる。
 しかしそれでもまだ解せない部分があったため、怜二はもう一つ聞いてみることにする。
「しかし、全く目が見えない等の容態を見たところ、委員長はただ矢で射抜かれただけとは思えないんだが」
「きっとそれは……矢に塗られていた毒による症状だと思う……」
「毒だと?」
 怜二が体を前に乗り出す。
「たしか……黒河はそう言っていたわ……。この毒に一度侵されてしまえば……もう助かる方法はないとも……」
 それはそうだろう。プログラムの武器として支給された毒物ならば、大なり小なりの殺傷能力はあるはず。解毒剤でも無い限りは助かることは不可能だと、誰が考えてもすぐに分かる。
「きっと私はもう長くは持たないわ……。だけど、死ぬ前に話しておきたいことがある……武田くんに……」
「俺に?」
 突然の指名に渉は目を丸くさせる。
「私、黒河に襲われる直前まで真知子と二人で話をしていたの。そのとき……真知子は言ったの。武田くんに酷いことを言われて、物凄くショックだったって……」
 渉の肩がびくりと揺れた。
「ねぇ……教えてちょうだい。他人を傷つけるような人間ではなかったはずの武田くんが、どうして真知子を傷つけるようなことを言ってしまったのか」
 このとき渉はきっと驚いていたはずだ。十五年分の思い出が詰まった棚の中から、渉だけでなく、真知子までもが、全く同じ日の記憶を引き出していたということに。そして、お互いが同じ瞬間の出来事について、深く思い悩んでいたということに。
 怜二が見守る中で、これまで隠し続けてきた想いを全て打ち明ける決心をしたのだろうか、力の入った渉の手が、地面をぐっと強く握り締めた。
「それは、横田さんのことが好きだったからさ」
「えっ?」
 圭子が場に似合わないすっとんきょうな声を出す。
「横田さんのことが好きだったんだよ。だけど、その気持ちを誰かに知られたときの恥ずかしさを思うと、俺はもう素直になれなかった。好きだという気持ちを誰にも悟られぬよう、全く逆の態度を取るようになってしまったんだ。もちろんこんなのが言い訳になるなんて思ってないさ。横田さんを傷つけてしまったのは、曲げようも無い事実なのだから。だからこそ、俺は少しでも長く生き延びて、謝りたい一心で横田さんを探し続けた。だけど……結局は間に合わなかった」
 そこまで言って渉は押し黙ってしまったが、それを聞いていた圭子は目を閉じたまま口元にうっすらと笑みを浮かべた。
「その言葉……真知子が生きているうちに聞かせてやりたかったな……」
 空気中に溶け込んでしまいそうな、とても細く小さな声。
「あのね武田くん……、きっと真知子も、武田くんのことが好きだったと思うよ」
「気休めはいいよ」
「本当だよ。だって、武田くんのことを話してたとき……真知子ははっきりと言ってたよ。会いたい、って……」
 平和な生活を送っていた頃なら、圭子が話した事実は、渉をこれ以上ない至福へといざなったであろうが、プログラムの最中であり、しかも真知子が死んでしまっている今となっては、決して喜ぶ気持ちになどなれはしない。だけど、渉の心を落ち着かせてくれる、ほんの僅かな救いくらいにはなったのではないだろうか。
 地の土を握り締めていた渉の手から力が抜けるのを見ながら、怜二は僅かに潤んでいた目を手で擦った。
「武田くん、それに土屋くん。一つ頼みを聞いてもらえるかな?」
 圭子の口調が急に変わった。真知子のことを話していたときの穏やかな口調とは違う、委員長として皆の前に立つときでおなじみの真剣な口調。
 渉と繋いでいた手をゆっくりと自分の体へと引き戻し、そして、至極小さな声で言った。
「お願いします……。もう私を殺してください」

【残り 二十三人】
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