191
−焔に刻まれし紋(7)−

 世界が染まっていく。
 崩れ落ちた少女の身体を中心に、波紋の如く広がりを見せる赤。真紅の血。
 ゆっくりと、しかし止まることなく流れ続けていたそれは、いつしか大きな水溜まりとなっていたのだった。
 人間は体内の血液の三分の一を失うと命を落とすという。具体的にいえば1.5リットルほど。実際に計量してみないと正確には分からないが、流れた血は既にそれに近い量に達しているように思われた。
 逃れられぬ絶対的な死。一つの生命が灯を失う様が勝手に思い浮かぶ。
 こんな状態で今まで堪えられていたことが異常だったのだ。
 浮輪から空気を抜けば縮んで沈む。飛行機から燃料を抜けば動力を失って墜ちる。あんパンからあんを抜けばあんパンじゃなくなる。全て変えようの無い常識。
 では、いったい何故、少女は大量の血液を失いながらも立ち続けることが出来たのだろうか。何が彼女に力を与えていたのだろうか。
 やはり復讐心だろう。海のように深いそれが、倒れそうになる身体をずっと支えていたに違いない。しかし怜二が提示した証言と証拠によって、復讐心は砕かれ消えた。そして支えが無くなった。
 よく冷やされた氷は、急激に温められると亀裂を走らせる。少女が秘めていた復讐心にも同様なことが起こったのかもしれない。長きにわたって人の温もりに触れられなかったが故に。
「御影、大丈夫か!」
 呆然としていた意識を、はっと取り戻したとき、怜二は既に霞の元へと駆け寄っていた。
 千秋も慌ててそれに続く。
 水溜まりに足を踏み入れると水滴が派手に跳ねる。そこにも血が混ざりうっすらと赤くなっていた。
 霞の横について覗き込む。荒い息遣いをしながら、苦しそうな表情を浮かべている。
「まさか……こんな馬鹿げた結末が待っていようとはね……」
 突如口を開く霞。
「御影さん?」
 殺意のあまり血走っていた目から力が抜けているのに千秋は気がついた。


「分かっていたはずなのにな……。ただでさえ命に関わるほどの怪我をしていたし……、これ以上投薬を続けていたら、ただでは済まないだろう、って……」
 霞が体内に取り入れた白い悪魔は、強大な力を与えてくれるものの、負担も相当大きいとのこと。直接的に霞を今の状態に追いやったのは全身の負傷であろうが、それに薬の副作用が追い打ちをかけたというのは間違いない。
「幻影に惑わされるがままに殺意をたぎらせてばかりいたからだ。もう少し冷静になれていれば、こんな結末なんて迎えずに済んだかもしれないというのに」
「黙りなさい……。いくら冷静になっていたって、あなたがその掌を見せるまでは……真実なんて見極められるはずがなかった……」
 霞は一瞬悔しそうな、それでいて険しい顔をしたが、すぐに表情を緩め、
「とはいっても、もはや私が級友を殺したことに正当性があったとは思えないけどね」
 と自ら言った。
 意外だった。千秋が思っていたよりもあっさりと、彼女は自らの行いを罪と認めたのだ。やはり怜二が提示した“鍵”の力が大きかったか。
 酷く残念そうにお互いを見つめる怜二と霞。もう少し早くに会うことができていれば違う結果を迎えることができたかもしれない、などといった思いが互いにあるのだ。横に立っているだけで、二人の気持ちが痛いほどに伝わってきた。
 すると霞は地面につけていた手をゆっくりと持ち上げて、自らの胸元へと持っていって呟いた。
「因果応報……」
「……?」
「誰かに向かってしたことは、いずれ自分にも返ってくる……。良いことであろうと、悪いことであろうと……。そんな言葉よ……」
「いや……、それは知っているけど……」
「今まさにそれが起ころうとしているのよ。クラスメートを沢山殺した罪が積もり積もって、私に返ってこようとしている……。報いと言った方が適切かしら……。自分でも分かるの。私の死はもう間近だろうって。薬の影響でありえないほどに心拍が激しくなっていたはずなのに、今ではいつもの半分以下……」
 おそらくそれも出血の影響だろう。人の臓器が活動するにはある一定の量の酸素が必要となるが、それを運ぶ血液が不足したことによって、酸素までもが行き届かなくなってきたのである。つまり心臓に限らず、霞の中ではあらゆる臓器が死に向かっていっていると言える。
「報いとか、そんな透明なものじゃないさ。お前が倒れた理由なんて、全て医学的に説明できる」
「ふんっ……。現実的というか……」
 強気な口調に反して霞はうっすらと笑みを浮かべた。かつての不気味な印象を与えるそれとは違う。
「俺はいつも真実しか見ていないからな」
「あなたって夢の無い男なんでしょうね……。別の意味で殺してやりたくなってきたかも……」
 彼女はそうは言うが、目を見れば実際には殺意など持っていないのは明らかだった。が、それにしたって性の悪い冗談だ。これまでのことがあるだけに、とても笑えない。それどころか、むしろ怜二なんかは、よりいっそう表情を真剣にしていた。
「残念ながら、これから死ぬのはお前のほうだ、御影。お前自身が言っていた通り、もう長くはないであろうと、俺の目から見ても分かる。だが案ずることはない。ゆっくり眠るがいいさ。お前が少しでも自らの行いについて悔いてくれたなら、俺はとくにお前のことを恨んだり、責めたりはしない。プログラムに巻き込まれてしまった以上、お前が何もしなくたって、殺された者たちはどうせ別のところで死んでいた」
 その言葉が彼の本心であったかどうかは定かではない。ただ、死の際に立たされている霞に対する優しさが含まれていたのは確かだった。
「まあ俺はともかく、春日はどう思っているか分からないが」
 突然振られて焦ってしまう。磐田猛を殺した張本人である霞に対しては、恨みを抱かずにはいられないのが現状。この場限りと言われても、その気持ちを偽ることはできそうにない。
「あたしは……土屋くんのように割り切った考え方は出来ない……、憎い。御影さんのことが……」
 千秋の言葉に、怜二の眉の辺りがピクンと反応する。
「春日、お前……」
「黙って! 最後まで聞いて!」
 口を挟んできた怜二をすぐさま止める。
「大切な仲間が殺されたのよ。全く憎しみを抱かないなんてことがあるはずがない」
「ごもっともね。私が逆の立場だったら、迷わず相手を殺してしまうわ……」
 今度口を挟んできたのは霞だった。言葉から徐々に力が抜けつつあるのが分かる。かつて多くの生徒を恐怖に陥れた鬼らしからぬ姿を前に、また複雑な気分になってしまった。
 千秋は握り締めた拳を胸の辺りに持っていく。
「そう。この深い恨みは一生消えることはない。でも、なんだか話を聞いているうちに、御影さんの気持ちも分からなくはなくなってきた……」
 意外そうな表情を見せたのは霞だった。まさか千秋の口から自分のことを少しでも理解したというような言葉が出てくるとは思いもしなかったのだろう。
「あなた、いったい何のつもりでそんなことを言っているの……」
「別に。ただ、あたしだって友達に見捨てられたと思ったら、大なり小なりの憎悪を抱いたかもしれないし、そのうえ誰にも会えないといった状況が続いたら、普段なら考えもしないようなことに走ってしまう可能性だってある」
 それに、霞が送った辛い日々のことを考えれば、可哀相とも思えてくるのだ。
「そんなふうに思っただけのことよ。あなたを救いたいと思ったわけでも、ましてや土屋くんに話を合わせようとしたわけでもないわ」
 もう身体がふらふらで立っていることすらもままならないというのに、自分でも驚くほどしっかりとした声で言い切ることができた。こういうとき、気持ちの強弱が言葉に影響をもたらしてくるのだろうか。きっとそうに違いない。
「なるほどね……」
 霞は軽く目を閉じて、何か思考をめぐらせているようだった。千秋の言葉を頭に残したまま、自分の過去を振り返っているのだろうか。
 周囲の草木が風を受けて揺れる。カサカサと小さく音を発する様が、何か霞に向かって歌を唄っているようにも思えた。葬送曲。死者を天に送り出すための歌――。一定間隔で滴り落ちる水滴がリズムを刻み、不思議な心地よさを表現している。
 静かさの中で優しく奏でられる調べを耳に、千秋は霞が安らかに眠ってくれることを不思議と願っていた。
「でも、私はまだ死ぬわけにはいかない」
 突如、霞が目を開けた。力の入らない身体に鞭を打って無理矢理に生を引き延ばそうとしているような、そんな必死さが見て取れた。
「まだ死ねないってどういうことだ? 過ちに気付いたことで、お前の復讐はもう終わったはずだろう」
「ひとまずはね……。でも、これで何もかもが解決したわけではない」
「なんだと!」
 驚愕の声を上げる怜二。彼は自らが握っていた“鍵”を霞の前に突き付けることによって、事の幕は閉ざされると本気で思っていた。それだけに、まだ先があるようなことを仄めかす言葉を耳にして、驚かずにはいられなかったのだった。
「復讐の対象は、何も私のことを見捨てた人達だけではない……。他にもまだ、殺してやりたい人間はいる……」
 もはや喋ることだってままならないであろうに、霞は気力を振り絞って口を動かしていた。
「御影さんが殺してやりたい他の人間って、それっていったい誰のことなの!」
 千秋は屈んで霞の顔を覗き込んだ。この恐ろしき殺人劇にまだ終わりが訪れていないと聞き、大きな不安が舞い戻ってきたのだった。
「教えてあげるまでもないわ。黙っていても、もうじき分かる……」
 クスクスという笑い声。そこにはかつて感じられた不気味さがまだ残っていた。
 霞はまだ、何か良からぬことを企んでいる。千秋は直感的にそう思った。しかし、怜二に“鍵”を見せ付けられて過ちに気付いたはずなのに、そのうえでまだ復讐しなければならない相手とはいったい誰なのか、全然分からない。
「さあ、そろそろ時間よ……」
 地面に寝そべったまま、霞が消え入りそうなほど弱々しい声で言った。

【残り 四人】
←戻る メニュー 進む→
トップに戻る



SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送