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−ひびわれた深層(7)−

 その説は、ふいに頭に浮かんできただけの、何一つとして根拠の無いものだった。しかし、あからさまな変化を表していく桜の様子が、徐々に千秋に確信を持たせていくこととなる。
 幼げだが端正な顔の表面で、これまで一定の明度を保っていた白い肌が、さらに蒼白となっていく。虚ろだった視線は不安定に揺らぎだし、怯えと戸惑いに侵食されていく。流動する桜の精神状態が顕著に現れていた。
 これはもう間違いない。野山に生きる猛獣の如く、彼女はライターが灯す小さな炎に対して怯えている。
 後退りながら身体を震わせるその姿は、ほんの数秒前までクラスメートに銃口を向けていたとは思えないほど、あまりに弱々しく感じられた。
 千秋の頭に、ある言葉が浮かんでくる。
 精神的外傷。
 いわゆるトラウマというやつだ。
 思い当たる節はある。二年前の松乃中等学校大火災。桜もまた、あの悲劇の被害者である。
 クラスで大事に育てていたツバメの雛が炎に命を奪われるのを間近で見て、以来炎に対する恐怖が頭に焼き付いてしまったのだ。しかも彼女の場合、自我や感情を失わされてしまうほどに火災は大きな衝撃となったわけであるし、精神に負った傷は他の者よりもいっそう深かったと思われる。
 となると、重度の高所恐怖症の人間が、さほど高くもない建物からでも外を覗くのを怖がるのと同じで、桜が小さな炎に過剰なほどの反応を示してしまうのも不思議ではない。
「白石さん……」
 怯えた様子の少女に向かって、千秋は一歩近づく。
 なぜ桜に歩み寄っていこうという気になったのかは、自分でも分からない。ただ、彼女に対してある種の同情に似た感覚を抱いた。するとどういうわけか足がひとりでに動き出していたのだった。
 身を震わせて後退を続ける桜からはもう、危険な香りは感じられない。完全に戦意を喪失している。ライターの灯しが消えない限りは、先ほどのように襲われることは無いはずだ。
 近寄る者と後ずさる者という、両者の構図が今や逆転。それがとてつもなく奇妙に思える。
 骨が突き出した肩がずきりと痛む。あまりの痛さに千秋はつい足を止めてしまいそうになるが、思い切り歯を食いしばってなんとか耐えようとする。
 千秋がさらに前に進むと、これまでゆっくりと後ずさりしていた桜が、膨張する恐怖に完全に支配されてしまったか、突然足のスピードを速めた。途中バランスを崩し、背泳ぎでもするかのように両腕を大きく振り回す。その慌てぶりは山の中で熊にでも出会ってしまったかのよう。
 桜が足を速めたことによって、一度は縮まりつつあった二人の間が再び広がり始めた。
 すぐ横を激しく流れる水の音が響く中、千秋も懸命に追い掛けようとするが、全身の動力低下が著しく、桜の半分ほどの歩行スピードしか出せない。
 肩から止めどなく溢れる血が、腕を伝って垂れる。歩いた後の湿った地面の上で、不規則な間隔で残された血痕が穏やかに滲んでいった。
「ま、待って」
 息を切らせながらフラフラと身体を揺らす千秋。目に映る桜の像に向かって手を延ばすが、指先すら触れることなく、ただ宙をかくだけで終わった。景色のぼやけかたが酷くなり、遠近感も分からなくなってきていた。
 距離は広がる一方だ。磁石のN極を動かすとS極が逃げるように、このままでは永久に桜に触れることなど叶わない。
 千秋がいくら頑張ろうとも、所詮無駄な足掻きにしかならないだろうと思われた。だがそのほんの少し後、何の前触れも無く桜は急に足を止めた。
 いったいどういう風の吹き回しで彼女は逃避を中断したのだろうかと、千秋は相手の足元に視線を落としながら疑問に思った。しかし目線を上げていくと、それが彼女自身の意思による行動ではないと分かった。
 正面に一本の太い樹の幹が立っている。桜はそこで背中を受け止められてしまい、それ以上後ろに下がることができなくなってしまっていたのだった。もちろん、ほんの少し方向転換をすれば、こんな生易しい拘束などすぐに脱することが出来るだろう。しかし、脅えた彼女にそんな機転を利かせられるほどの余裕は無いらしく、樹に背中を預けたままいつまでも同じ方向に足を蹴り続けていた。これでは迫り来る恐怖から逃れることなどできるはずもない。
 樹に行動を阻まれてしまった桜は、顔の表面上で脅えの色を濃くしていく。
 この隙に千秋は一気に距離を詰めた。足元に転がる大きめの岩をまたぎながら、足を滑らせてライターの灯しを消したりしないよう気を付ける。
 手を伸ばせば相手に届くというほどの距離に千秋が迫るまで、時間はさほどかからなかった。
 対峙する両者の間には、もはや中学生一人分の身長ほどの距離しか開いていない。
 適当なところで足を止めた千秋は相手の顔を見る。
 桜の潤った瞳の中で揺れる炎。その向こうに映し出されているポニーテールの少女の像が、ゆらゆらと揺らめいていた。
「いったい何故、あなたはあたしたちに危害を加えようとするの?」
 恐れに支配された幼い顔を照らすように、ライターの炎を掲げる千秋。だが桜が問いかけに反応する様子はなく、ただただ震えが酷くなるばかり。
「白石さんは、こんなことをする人じゃなかった。いつも周りのことを最優先に考えていて、自分の欲を表に出したりなんて決してしなかった。優しかった。立派だった」
 千秋の言葉が淡々と辺りを漂って消える。悲痛な訴えは桜の耳には届かず、会話は成立せず、まるで独り言のような嘆きが続いているだけだった。それでも千秋は語りを止めない。
「あなたは二年前の火事で変わった。笑顔を絶やして他人とのコミュニケーションも捨てた。でもあたしは、いや、クラスの誰もが思っていたわ。たしかに白石さんは笑うことすら無くなったけど、それは何時また訪れるとも限らない外の危険から身を守るために違いない。無防備に表に晒していた自我や感情といった大切なものを、もう二度と傷つかぬよう内側に封印してしまったためだ、って」
 必死に語り掛ける。この声が相手の心に届くことを強く願いつつ。
「そう、あなたは元の清い心を失ってはいないはず。保身のために仕舞い込んでしまった全てが再び解き放たれれば、かつての姿に戻れるはずなのよ」
 なぜ自分は、危険を冒しながらも桜に歩み寄ろうとしたのか、今になって少しだけ分かった気になった。もしかしたら、過去の悲劇に未だ苦しめられ続けている一人の少女を、どうにかして助けてやりたかったのかもしれない。
 もちろん、クラスメートに銃を向けた桜の罪は、安易に許せるものではない。もしかすると、既に彼女の手にかかって命を落としてしまった者もいるかもしれない。
 でも、つい先ほどまで自分を殺そうとしていた相手であっても、千秋はなんだか桜のことが可哀想に思えてならなかった。彼女もまた火災の被害者。いろんな思いに満たされて日々を送っていた元の鮮やかな生活から、自ら望んで色を失わせてしまったわけではないと、痛いほどに分かるのだった。
 そう、白石さんも過去の悲劇に未だ苦しめられている一人。背負っているものは違うものの、境遇はこちらとほとんど同じだ。
 どうすれば桜を苦しみから開放してやれるかなんて分からないけど、生まれ持った正義感が、迷いし者を放っておくことを許さなかった。
「お願い。分かって」
 千秋はライターを落として桜の手を握った。
 彼女はそれを嫌がって身をよじるが、マシンガンを持つ手を封じられているため、離れることも、相手を攻撃することも容易にはいかない。
 自由なままの左腕で突っ張ってくる桜の足掻きに千秋は耐え、相手の目をじっと見た。
「白石さんっ!」
 一向に大人しくしようとしない少女に向かって一括。思っていた以上の大きな声が、周囲の空気をビリビリと震わせた。同時に、桜も大声に驚いたのか、身体をビクリと一度飛び上がらせる。その瞬間、彼女はまた怯えた表情を見せた。目の前に炎はもう無いというのに。
 そんな様子を目にして千秋は思った。まるで母親に叱られた子供みたいだな、と。でもこれこそが彼女の本来の姿に違いなかった。表面は無機質で冷たくとも、内部には未だ人間らしい温かみが残されている。たった今それが垣間見えた。
 思わず、千秋は桜を抱き寄せた。
 哀しさや愛しさからの行動ではない。桜の中にまだ人間らしい部分が存在していたということが、なんだか嬉しくてたまらなかった。
 桜の腰は細く、少し腕に力を入れるだけで簡単に折れてしまいそうだ。こんなにもか弱い少女が、プログラムという過酷な状況下でよく生きてこられたものだと思ってしまった。
「白石さん?」
 ふいに、桜の身体の僅かな震えを感じて、千秋は相手の顔を見た。少女の表情に相変わらず色は無いが、光り輝く何かが頬を伝って流れている。それは紛れも無く涙に他ならなかった。
 これにはさすがに驚かずにはいられなかった。桜はこれまでに感情の鱗片を何度か垣間見せてはきたが、それを完全に表にまで引きずり出してきたことは一度もなかったのだから。
 もちろん、彼女がどういった理由で涙を流しているのかは分からない。人の温かさを久しぶりに感じて嬉しいのか、まだ先ほど見た炎に対して怯えているのか、それとも単に身体のどこかが痛むからなのか。もしかすると、涙の訳は彼女自身分かっていないのかもしれない。
 でもそれでも構わないと千秋は思った。
 流れる涙に指で触れると、少女の優しい温かみが確かに感じられる。彼女は心無い殺人機械などではない。千秋にとってかけがえの無いクラスメートの一人であり、それ以前に、人を敬い愛し愛されることのできる心を持つ暖かい人間なのである。その小さな手は銃を握るためにあるのではなく、人と繋がりを持つためにあるのだ。
 胸が熱い。今まで、心変わりしてしまった級友の姿をいくつも見てきた。そして、千秋は向けられた刃に恐れるがあまり、その誰もを救ってあげることはできなかった。殺人ゲームの下では、変貌してしまった者は誰一人として元に戻ることは出来ない、そう思わされてきた。だけど今、初めて希望への可能性を秘めた光を目にすることが出来た。
 沢山の親友を失ってしまった千秋には、頑張ったところで取り戻せるものなどほとんど無い。だけど桜は本当に、失われてしまった数多くのものを再び得ることが出来るかもしれない。
 千秋は桜を抱き締める腕の力をいっそう強めた。怪我した肩の傷が痛まないわけはなかったが、もはやそれどころではなかった。腕がもげようとも、今は祝杯を挙げてやりたいくらいの気分だった。
「絶対に帰ろう……。まだ何も失っていなくて、満たされていたあの頃に……」
 腰に腕を回したまま呟く。
 当然、千秋にも桜にも失われてもう二度と返ってこないものは沢山あり、昔のままに戻るというのは現実不可能だ。千秋もそれくらいは分かっている。ただ満たされていた頃に少しでも近づきたいという希望を込めた言葉だった。
 はたしてこの思いも桜には伝わっていないのだろうか。涙を流しだして以降、とくに変わった反応を見せていない彼女の様子からすると、やはりなにも分かっていないのかもしれない。だけど構わない。
「今はまだ分からなくてもいい。あなたが求めているだろう所にはあたしが連れて行ってあげるから。その時に目を覚ましてくれさえすれば、あたしの心もきっと爽やかに晴れ渡る……」
 そう言って真っ白い髪を優しく撫でた時、またしても桜の身体が一度揺れた。といっても、先ほどの驚いた時とは少し違う感じの揺れ。
 千秋はおかしく思って視線を桜の背後に動かした。
 彼女の背中を受け止めている樹が立っている。その幹が赤く血塗れている。
 いつの間に現れたのだろうか、背後の樹の横にはまた別の誰かが立っている。そしてその人物は巨大な刃をまるで小型のナイフを扱うかのように軽々と振り下ろし、千秋が抱き締めていた小さな背中を、たったの一撃で粉砕していた。
 なんとも形容し難いような快音が森の中で反響する。
 桜の身体越しに受けた衝撃に千秋はたまらず吹っ飛ばされ、後方の地面で一回転した。
 突然の出来事に、すぐに体勢を戻すことが出来ない。
 なんとか身体の動きを止めて視線を上げるまでには数秒がかかった。そのとき千秋の視界の中で、刃を打ち込まれた部分を中心に桜の身体が折れ曲がった。

【残り 五人】
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