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−暁の水上決戦(12)−

 勢いよく飛び出した桂木は、目の前に立つ醍醐の胸倉に全力で掴みかかった。
 唐突に受けた前方からの圧力に耐えることも出来ず、醍醐はバランスを崩してそのまま後方へと倒れこむ。上に桂木が圧し掛かったままの状態で腰を打ち、頭も地面にぶつけてしまう。
「……っつ!」
 後頭部を抑えながら彼は立ち上がろうと腹筋と足に力を入れるが、男一人の体重が身体を強く地面に押さえつけており、どうにもならない。胸倉を掴んでいる桂木の手は堅く、一向に身体の上から退いてくれる様子は無かった。
「おい、御堂! こいつをなんとかしろ!」
 たまらず、醍醐はすぐさま側にいる部下に助けを求めた。デスクワークばかりをこなしてきた自分よりも、軍に入ってそれなりに身体を鍛えてきた桂木の方が、取っ組み合いになったら確実に有利。醍醐はとっさに、ここはムリに一人で対処しようとするよりも仲間の力を借りた方が得策だと判断したのだった。
 だが、醍醐が命令を出すまでも無かった。御堂は事の流れから一瞬のうちに自分のすべき仕事を見出し、上官から助けを求められるよりも早くに、桂木の襟首を後ろから掴んで醍醐から引き剥がそうとしていたのだった。
 強靭な腕力によって持ち上げられた桂木の身体は宙に浮き上がり、簡単に醍醐から離される。そして思いっきり放り投げられて、板張りの地面の上で数回転がされる羽目となった。
「ケホッケホッ」
 自らの喉元を押さえながらゆっくりと立ち上がる担当教官。呼吸を整えるや否や、怒りで血走った眼と手に握る銃口を、許し難き反逆者へと再び向ける。
「キィサァマァ!」
 立ち上がろうと桂木が体勢を整える暇も無く、部屋中に男の怒声が響き渡った。
 すぐさま醍醐の顔へと目を向ける。血管を浮き上がらせる額の筋肉がぴくぴくと痙攣している様から、彼の怒りがいったいどれほど深いものなのか察することが出来る。
 ほとんど噴火直前の火山だった。
「どうやら今すぐ死にたいらしいな!」
 醍醐の指が銃の引き金を絞った瞬間、桂木の視界の中で眩い閃光が走った。マズルフラッシュ。銃弾は桂木の足元へと飛び、木目に沿って床板に長いひびを走らせながら奥へとめり込んでいった。十分すぎるほどの殺傷能力が見て取れる。
 熱くなっていた体が一瞬にして凍ってしまったかのように、背筋に寒気が走った。
「教官! 先ほど言ったように、まだ殺してしまってはなりません」
「うるさい! もうそんな堅苦しいことはどうでもいいんだ! 我慢が出来ない!」
 場の乱れた空気を沈めようと再び前に出てきた御堂だったが、醍醐は全く聞く耳を持たない。
「どうしてもワシの邪魔をするというなら、御堂、まずはお前から死んでもらうことになるぞ」
 果ては、醍醐を制止させようとした御堂にまで銃口が向けられてしまう始末。これにはさすがに屈強な軍の一尉であろうとも、迂闊に騒ぎの間に割って入ることは出来なかった。
 混乱。もはやこの場に冷静さを保った人間なんて一人として存在していなかった。
「さあ、これで心置きなくお前を殺せるぞ。安心しろ。もしも今回の裏切りに共犯者がいたとしても、プログラムが終了した後で綿密に調査して、反逆者は必ず全員搾り出してやるからさ。そしてお前と同じように、地獄へと送ってやる」
 ようやく邪魔をする者がいなくなったというところで、醍醐は改めて銃口を桂木へと向ける。口元が不気味に歪んでおり、怒りの裏に僅かに存在する喜びの感情が垣間見えたような気がした。今回のイライラの原因となっていた男を始末できるというのは、彼にとってとても爽快なことであるに違いなかった。
 桂木は目前に迫った死の恐怖に怯えて身を縮ませる。いくら覚悟していたこととはいえ、鉛の弾で身体を貫かれて朽ちるというのは、やはり想像するだけでも恐ろしかった。
 今度こそ、俺はここで本当に死ぬのか……。
 頭の中に春日千秋の姿が浮き上がってくる。残念ながら、彼女達の計画はこの瞬間には間に合わなかったようだ。出来ることならもっと早くに結末を知っておきたかった。この鉄檻の如し鬼鳴島から無事に脱出できるのか分からなければ安心できず、死んでも心安らかに眠ることなんてできない。
 非常に残念だ。
 桂木は目を伏せる。その時、けたたましく部屋の引き戸が突然開かれた。
「ここにいましたか、教官! それに一尉!」
 声の通る威勢の良い兵士が慌てて部屋に入ってきた。粗い息遣いから、彼が醍醐たちを探してどれだけ必死に駆けずり回っていたかが分かる。
 緊迫した空気を感じ取って、醍醐もさすがに桂木を撃つのを止めざるを得なかった。
「なんなんだ、この大事な時にどいつもこいつも」
 かなりご立腹の様子の醍醐教官。しかし兵士はそれにも気付かないほど慌てている。
「たたた、大変なんです」
「どうした。一体何があった」
 兵士の声は、先ほども言ったとおりよく通っている。しかし焦りのせいか滑舌が悪く聞き取りづらい。それがまた醍醐のイライラを助長させることとなっていた。
 兵士は一度唾を飲み込んで、今度は慌てながらもしっかりと喋った。
「生き残りの中に、脱出を企んでいる生徒がいます。そしてそいつは、今まさに計画を実行させようとしているところなのです」
 すると醍醐は、なんだそんなことか、と肩を下ろす。
「脱出を企む奴くらい、プログラムでは毎度のように一人か二人は出てくるんだろう? そしてそれらは決まって自滅の道を歩む。今回だってその確率が高い。違うか?」
「確かにそうです。しかし今回は、その生徒達が立てたという計画があまりにマズすぎるんです」
 あたふたと身振り手振りを加えながら説明する兵士。
「奴ら、よりにもよってダムを破壊し、このプログラム本部を水攻めにしてコンピューターを不能にさせるなんて計画を立てていたんです。もちろん成功確率が高いとは思いませんが。しかし、もしもダム破壊が現実のものとなってしまったら、貯水池の規模や本部との位置関係からして、我々の命すらもが危険に晒されてしまいます」
「なんだとぉ」
 一瞬緩んでいた醍醐の表情が再び険しくなった。
「どうしてこんな時になるまで気がつかなかった!」
「すみません。まさか今回のプログラム会場の地形に、こんな問題点が隠されているなんて誰も想像すらしていなかったのです。それに盗聴が遮断されていたせいで、彼女達の計画は今になるまで明るみになるはずがありませんでした」
「そうか、キサマは生徒の計画を知っていたからこそ、それを助けるために盗聴を不能にする妨害工作を施したんだな!」
 ようやく全てを理解した。そんな様子で桂木へと視線を向ける醍醐。力の入った目が血走り、噛み締められた歯がぎりぎりと音を立てる。
「教官、時間がありません! 早く、反乱分子を排除するべきかどうか、最高責任者として判断をお願いします」
 事の重大さに比例したオーバーなアクションで、兵士が醍醐を急かそうとする。
 すると突然、どこかからとてつもなく大きな爆発音が聞こえ、地面が上下に激しく揺れた。壁際に立てかけてあった柄だけのモップが、壁面を擦りながらゆっくりと倒れる。タイミング的に、まさに醍醐の怒りの火山が爆発したことによって地響きが起こったかのようだった。しかしもちろんそんなわけではない。
 桂木はすぐに理解した。ついに千秋たちが計画の最終段階へと突入したのだと。先ほどの音と揺れは、ダムに仕掛けられた手製爆弾が破裂した際のものに間違いなかった。
 自分の命に危機が迫っているという中でありながら、桂木は小さくガッツボーズをとる。そう、桂木が恐れていたことの一つは、ダムを破壊するまでに脱出計画のことが政府側にばれ、危険分子として千秋たちが始末されてしまわないか、ということだった。だがそんな心配をよそに、彼女達は難関だらけな作戦を全てやり遂げて見せてくれた。実に見事であった。
「まさか、今の音は……」
 額に汗を浮かべながら珍しく動揺している御堂一尉。兵士の話を聞いた直後である今、桂木だけでなく、この場にいる全員が耳に入ってきた爆発音がいかに重大な意味を持っているのか理解できたようだった。
「醍醐教官! たった今、女子三番の春日千秋が黒部ダムの水門を爆破したようです!」
 さらに一人の兵士が駆け込んできた。彼は本部で生徒達の動向を探り続けていたらしく、妙に現状を把握できている。
「もしも本当にダムが破られたとしたら、地形的にこの建物は大変危険です。急いでどこかに避難しましょう」
 プログラム会場に関する地理情報を全て頭に叩き込んでいる御堂一尉が、慌てて醍醐を部屋から引っ張り出そうとする。反逆者である桂木のことをそっちのけで。
「なにをしているんですか、教官! 早く逃げましょう」
 御堂も二人の兵士も、いち早く高台にでも移動したかっただろう。しかし、醍醐はその場から動こうとしなかった。
「……貴様ら、まさか己の命ほしさにこの本部を見捨てて、プログラムを台無しにするつもりじゃないだろうな?」
「えっ」
 醍醐の口から発された意味深な言葉を前に、この場に居合わせた全員が、なにやら妙な威圧感を覚えてたじろぐ。
「今回のプログラムだけは絶対に失敗させてはならない! ダムの決壊がなんだ! そんなに水が怖けりゃ逃げればいい! だがな……」
 醍醐は唐突に銃を上へと向けて発砲した。近距離だったために耳が痛い。
「もしもプログラムが失敗に終わってしまったら、その暁には、貴様らもっと恐ろしい目に遭う羽目になるぞ」
 全員が言葉を失った。誰かが息をのむ、ごくっ、という音が聞こえた。
「貴様ら全員かき集めて、直ちにメインコンピューターを死守するんだ! 土嚢を積み上げろ! コンクリートで固めろ! 空いた隙間は貴様らの死体を詰めてでも埋めろ! 分かったな!」
 醍醐の命令に対して返すことの出来る言葉は一つしかない。イエス。冗談さが微塵も感じられない本気の目つきと銃口を向けられて、彼に逆らえる者などいるはずがなかった。無言のままだったが、全員が指示通り本部の部屋の方へと駆け出す。
 部屋から遠ざかる足音に混じって、あまりに慌てていたためか誰かが派手に転ぶ音が聞こえた。だがすぐに立ち上がって再び駆け出したようだった。
 ゴンッ、と何か硬い物どうしがぶつかる音が聞こえた。
 桂木が恐る恐る音の方を見ると、醍醐が苦虫を噛み潰したかのような顔をしながら、堅く握り締めた拳を床へと叩きつけていた。一度だけではない。命の危機が迫る中でも全く動こうとせず、ただひたすらに何度も地面を殴り続ける。
 怒りと悔しさのあまりに、男は咆哮しはじめた。
「畜生……、ちっくしょぉぉぉぉぉぉぉぉ!」

【残り 五人】
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