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−暁の水上決戦(11)−

「蓮木さん!」
 背中からボートの底へと崩れ落ちた風花を見て、千秋は急いで船尾へと移動する。桜がマシンガンを乱射しているため危険だと分かっていながらも、混乱のために思考が働かず、身を低くすることすらも失念してしまっていた。何発かの弾がすぐ脇を掠めていく。今回は幸運にも被弾することはなかったが、運が味方してくれていなかったら自分もただでは済まなかったかもしれない。
 船底に両手をついて風花のほうを覗き込む。赤く染まった肩を見ると背筋がぞっとした。
「だ、大丈夫?」
 心配して声をかけると、風花は苦しそうに身悶えして、うっ、と小さくうめき声を上げた。
「大丈夫なわけ無いでしょ……。くっ」
 肩の傷が相当に痛むようだ。傷口を押さえる掌の下で赤い染みはさらにどんどんと拡大していく。
「迂闊だった。まさかグレネードランチャーとマシンガンを併用してくるだなんて、考えてもいなかった」
 縁についた片手を支えに上半身を持ち上げようとする彼女。しかし船の揺れも邪魔してか思うように動けず、僅かに背中を浮かせることで精一杯。手を差し伸べる千秋の助けを借りてなんとか身を起こし、敵に頭を見せないよう注意しながら船尾にもたれかかった。
「危険意識が足りなかったみたいね。我ながら情けない」
 風花は悔しそうに眉の間にしわを寄せる。撃たれてしまったことそのものよりも、危険を承知した上で不用意に身を晒してしまった自らの軽率な行動に苛立っている様子だ。
 千秋は少しだけ頭を上げて敵の様子を確認する。再び弾を撃ち尽くしてしまったのか、桜はマシンガンを握る利き手をもう下ろしてしまっていた。
「また敵の攻撃が止まった」
 身動きすることが困難な状態の風花に向かって、千秋が現状報告する。
「どうせ休む暇も無く、次の砲撃がすぐに始まるわ」
 このままでは長く持ちこたえることはできないでしょう、と風花はかなり悲観的。しかし千秋もそれに同感だった。桜のグレネードランチャーの狙いは徐々に正確になってきており、もはや標的の真芯を捉えることも難しくはないように思われる。千秋達の船が沈められてしまうのは時間の問題であった。
「あーもうっ、あたし達はどうしたらいいの!」
 水面のうねりを受けて左右に大きく揺さぶられているボートの上で、千秋は頭を掻き毟る。絶対絶命な今の状況から抜け出す手段なんて、いくら考えても浮かばないのであった。そんな中、粗い呼吸を繰り返している風花が、後ろへと視線を動かしながら言った。
「一つだけ、この最悪な流れから逃れことができる方法があるわ」
 千秋は驚いて風花のほうに目を向けた。血色の無い真っ青な顔つきが引き締まり、真剣な表情が形成されている。彼女が嘘や冗談を言っている様子は無かった。
「本当? それはいったいどういう方法なの?」
「慌てないで。いい? この方法を話す前に、一つあなたに約束して欲しいことがある」
 負傷箇所を押さえている方と逆の手の人差し指を顔の前で立ててみせる風花。
「これから言う方法がどんなものであろうと、あなたはただそれを受け入れて、ひたすら水門への前進だけを続けること」
「分かった。言うとおりにするから、早くその方法を教えて!」
 桜がグレネードランチャーをこちらに向けるのが見えて、より必死になる千秋。
「約束は絶対に守りなさいよ」
 風花は背中を船の内側に引きずりながら、突然縁から外へと身を乗り出した。
「私が白石さんの動きを止める。その隙にあなたは先へと進む。これがこの場を乗り切るための唯一の方法よ」
 そう言うと、風花は崩れるように自ら水の中へと飛び込み、千秋の目の前から姿を消す。こんなこと想像もしていなかった。あまりに信じ難い出来事に驚きながら、千秋は急いで船尾から水面の方を見た。
「蓮木さん!」
 水面に漂う少女の姿が、徐々に遠ざかって小さくなっていく。ろくに身体も動かせない状態でありながら、沈まないよう必死に水面へと浮き上がろうとしている。
 千秋は理解した。風花は、自分はもう何があろうと助からないと考えたうえで、脱出計画の成功をだけ祈って自ら犠牲になることを選んだのだ、と。それは、風花と共に生き延びたいという千秋の思いに反した決断であり、到底正しいものだとは言い難い。だが仕方が無かった。ここで二人が同時に死んでしまうよりも、一人でも命を失わずに済むのなら、そちらの方が断然マシであったから。
 桜のボートが風花のほうへと真っ直ぐ向かっていく。突然のことで桜もすぐには対応できなかったらしく、武器を水面に向けたときにはもう誰の姿も見られなくなっていた。ボートが間近に迫った瞬間、風花は迷わずその下へと潜り込んでいったのだ。そして、桜のボートが急に大きく揺れ始めた。バランスを崩させるべく風花が船の裏にしがみついたのである。
 たまらず桜は一度転んで武器を取り落としてしまう。しかしすぐに立ち上がって、ボートに取り付いた虫を払うために身を乗り出して、水面へとマシンガンを向けた。だがなかなか撃とうとはしない。水が濁っているせいで風花の姿を確認できないのだ。船の下にいるとはいっても、舳先か、それとも船尾の付近なのか、右側か、左側か、とにかく風花がどの辺りにいるのか具体的には分からない。適当に発砲したところで無駄撃ちになってしまう可能性があまりに大きかった。
 千秋は風花を救い上げるためボートをUターンさせようと舵に手を伸ばした。桜が今すぐに風花を撃とうとはしないといっても、このまま放っておくのはあまりに危険だったからだ。居場所を割り出されてしまったら、マシンガンの餌食になってしまうことは明白だった。見殺しにはしたくない。だが、千秋はすぐに思い直して船の進む方向へと向き直っり、舵に伸ばした手を引っ込めた。桜の船に近づいたところでろくな武器も持たない自分が風花を助けられるはずが無かったし、何より、風花の勇気ある決断を無駄にしたくはなかった。
 背後で一発、砲撃音が聞こえた。姿の見えない風花の処理は後回しにし、桜がこちらにグレネードランチャーを向けて撃ってきたのだ。だがそれは無駄な行動だった。風花に揺さぶられている船の上では狙いの精度が格段に落ち、榴弾は明後日の方向へと飛んでいくのみ。千秋の右手遥か遠くで水飛沫が上がったが、距離があるためか波は船にほとんど影響を与えなかった。
 思いがけない事態に桜は苦戦している様子だ。不安定な足場では舵の操作もままならず、千秋との距離はだんだんと開いていってしまっている。
 千秋にとって、今はまさに桜から逃げ切る最大の好機であった。風花に与えられたこのチャンスは絶対に無駄にしてはならないと、前だけを見据えて船を前進させていく。すると、霧で閉ざされていた視界の中に、うっすらと何か大きなものの姿が見え始めた。千秋はよく目を凝らしてその正体を確認しようとした。
 コンクリートの堤の間でどっしりと構えた、見るからに堅強そうな金属の壁。目指していた水門だ。数々の苦境を潜り抜けて、千秋はついにここまで到達したのだ。
「やった。やっと着いた」
 自然と歓喜の言葉が漏れる。とはいってもこれで全てが終わったわけではない。これから計画の最終段階、この目の前に見える大きな水門の破壊という、最重要の仕事に取り掛からなくてはならない。運んできた手製爆弾二つで、はたして本当に水門を破ることが出来るのかどうか分からないが、これら全てが無事に終わって初めて素直に喜ぶことが出来るのだ。
「ええと、まず船を適当な場所に停めて、それから爆弾を運び出して、水門の中でもなるべく強度の無さそうなところに仕掛けて……」
 船を停める場所を探すべく辺りを見回しながら、これからの作業手順を頭の中で確認した。そんなとき、また背後からグレネードランチャーの砲撃音が聞こえてきた。距離を広げられながらも桜は諦めることなく攻撃を続けるつもりなのだ。
 斜め後ろで着水した榴弾が、また派手に水柱を上げる。
 桜は攻撃の手を休めることなく、また次の弾を詰め込む作業をしながら迫ってくる。いくら狙いの正確さが欠けているとはいえ、こうも執拗に撃ってこられたらやっぱり危険だ。それにまだ安全圏にまで逃げ切ったわけでもないし、船から下りてわざわざ爆弾を水門に仕掛けるような時間の余裕なんて全く無い。こちらが地上で作業をしていたら、桜も船から下りて追いかけてくるに決まっている。岸についてしまうと未だ船の下で頑張っている風花も今度こそ危ない。
 どうする、どうしたらいい……?
 なにか良い解決策は無いかと辺りを見回しながら、千秋は自問自答を繰り返した。せっかく桜の攻撃をかわしながらここまでやってきたというのに、爆弾を仕掛けている時間なんて無い。となると、爆弾を仕掛ける手間を省いて、時間のロスをゼロにして作戦を実行させなければならない。
 はたしてそんな都合の良い方法はあるのだろうか。
 また近くで水柱が上がって船が揺れる。左後方で大きな波紋が広がっていた。
「あった……。まさに今の状況に都合の良い方法があるじゃない」
 なんでこんな単純なことにすぐ気付かなかったのだろう、と千秋は思った。時間のロスも無く水門を爆破できる方法があったのだ。だけどこれは当初考えていた爆破の方法と比べて確実性を欠くし、それに千秋にとってとても危険な行為とも言えた。だけど、今は手段を選んでいる場合ではなかった。爆弾を仕掛けに行っている暇がないのならば、たった今考え付いた作戦を――それがいくら危険なものであろうとも、何もかもを賭けるつもりでやってみるしかないのであった。
「神様、どうかよろしくお願いします」
 普段やったこともない神頼み。それくらいに千秋は追い詰められていた。
 爆弾に取り付けられていた、暴発防止のための安全レバーを動かして、いつでも爆破できる状態にする。二つ共だ。
 後方何十メートルか先には桜の船が見える。霧に包まれている中、こちらを目指して前進してきている。
 千秋は自らのボートが進む方向を合わせてから、タイミングを見計らって水の中へと飛び込んだ。口から泡を吹きながら、息継ぎのために急いで水面へと浮上しようとする。
 空気中に頭を出すと同時に、まずは先ほどまで自分が乗っていたボートのほうを確認する。エンジンによって力強く回転させられているスクリューの力で、爆弾を積んだ船は真っ直ぐ水門の方へと向かっていっていた。そう、千秋は船を水門に衝突させて、その衝撃で爆弾を破裂させようと考えたのだった。波の影響で進行方向が変化してしまう恐れがあり、狙いが思い通りになるかどうかはまさに運任せとなるが、たしかにこれなら爆弾を仕掛けるタイムロスをなくすことが出来る。
 思い通りに操作できない桜のボートも、千秋の船をそのまま追うような形で水門へと進路を変えずに向かっていっている。千秋は気づいた。今まで船底にしがみついていた風花がボートの縁につかまりながら、半ば溺れているような状態で水面から顔を出して息継ぎしようとしているのだ。すると桜がそれに気付いた。
 ようやく姿を現した敵に向かって、すぐに手に持っていた銃器を構える。
「蓮木さん!」
 息継ぎすることに必死で事態に気付いていない風花に向かって叫んだ。だがその声は誰の耳にも届くことは無かった。千秋が声を出したのと同時に、すぐ近くからそれの何十倍も何百倍も大きな音が起こったからだ。
 千秋の船が水門の端ギリギリに激突し、爆弾のうち一つが轟音を上げながら破裂。辺りに真っ黒い煙と真っ赤な火花を撒き散らした。これまでに無かったとてつもなく巨大なうねりに弄ばれる船の上で、風花に銃口を向けていた桜の身体が人形のように簡単に倒される。すぐに二つ目の爆弾にも誘爆して、水面のうねりはさらに激しいものとなった。
 霧に支配されていた空気中は、一瞬にして煙に包まれて夜のように暗くなる。砕かれたコンクリートの堤の欠片が辺り一帯に降り注ぎ、そこらじゅうで小さな波紋が沢山生まれる。
 前に爆弾一つを使ったことがあったので、その威力は既に分かっていたつもりだったが、やはりこうして実際にその爆発を近くで見ると恐ろしくも思えてしまった。
「水門は……?」
 無事に破ることが出来たのかどうか、すぐにそちらへと目を向ける。だが、徐々に晴れていく煙の隙間から、あの堅強そうな金属の壁の姿は無くなっていなかった。すすで黒ずみ、塗装の一部が剥がれたりはしていたが、絶対的な存在感は今もまだ健在。
 爆弾の威力が足りなかった? 作戦は失敗したのか?
 落胆のあまり身体から力が抜けてしまい、そのまま水中へと沈んでしまいそうになった。だがその瞬間に千秋は見た。金属の門と隣接した堤の小さなひび割れが一瞬にして大きく広がり、欠片を下に落としながらゆっくりと崩壊を始めたのだ。以前風花が言っていた通りだ。一箇所でも隙間が開いてしまったダムは、水の強大な圧力に耐えられなくなって崩壊に陥る。
 堤が砕けたことによって、それと隣接していた金属の門の太いボルトが外れた。そして崩壊はダムの中核までにも広がっていく。ここまできてしまってはもう、この貯水池に水の流出を制御する力なんて残されてはいなかった。水門が完全に外れて下へと落ちていくと同時に、満水になっていたダムの中身が一気に外へと溢れ出していく。
 先ほどまで水門があった出入り口のあたりで、とてつもない勢いの水に飲まれて桜の船が沈んでいくのが見えた。それにつかまっていた風花もまた、千秋の視界から一瞬にして姿を消してしまった。
 そして千秋も、力強い水流に抗う術もなく、光の無い闇の中へとその身を沈めていった。

【残り 五人】
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