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−ひびわれた深層(1)−

 誰かがすすり泣く声が聞こえる。
 シクシクと、消え入りそうなほどに小さくか細く、それは突然に耳に入ってきた。
 あたしは辺りを見回した。いったい誰の声なのだろうか、と。
 放課後の教室。真っ赤な西日が差し込んでくる部屋に、人はもうほとんど残っていない。
 あたしと、もう一人だけいる生徒のみが、この場の空気を共有していた。
 自身の席に座りながら、少女が涙を流している。軽く握った手で目元を拭うが、潤いはさらに酷くなっていくばかり。
 あたしはその少女のことをよく知っていた。生い立ち、家族構成、趣味、好きなこと、嫌いなこと、住所、電話番号、メールアドレス、など、何から何まで。だけど涙を流している理由は全く分からなかった。
「どうしたの?」
 決して興味本位で話しかけたわけではない。あたしは本気で心配して、彼女の方へと近寄っていったのだった。
 背中に手を当てて優しく撫でてあげる。ヒックヒックと少女がすすり泣くごとに小さな揺れが全身へと伝わってきた。以心伝心の間柄にまで至っていたと自惚れるつもりは無い。しかし、あたしはこうしているだけで、相手の心情を全て察した気になっていた。
 一時の沈黙を挟んだ後に、少女は啜り泣きしながらゆっくりと口を開く。とてつもなく小さな声。聞き逃さぬようあたしは耳を傾けて、真剣に一語一句を拾い集めようとした。
 サッカー部はまだ活動中らしい。窓の外からボールを蹴る音と、活発に走り回る男の子達の声が飛び込んでくる。それ以外はいたって静かであったが、それでもポツリポツリと話す少女の弱々しい言葉を聞き取るには邪魔だった。
 黒板の上にある丸い時計の短針が、もうじき数字の6と重なる。
 カチカチカチ……。
 今までほとんど気にならなかった秒針の動く音が、頭の中でどんどんと大きくなっていく。永遠とも思えるほどに時が長く感じられた。
 全て話し終え、少女が小さく開いていた口をゆっくりと閉める。それと同時に、最終下校時間を告げるチャイムがスピーカーから鳴り響いた。その音は町中に木霊してから、次第に薄れていく。教室はすぐに静寂を取り戻した。
 あたしは汗ばんだ手を強く握り締める。
「まさか、そんな……」
 たった今聞いたばかりの話が、とてもじゃないが信じ難い。むしろ信じたくなかった。もし本当だったとしたら、それはとてつもなく悲しいことである。
 彼女は一人ぼっちになってしまったのだ。精神的な支えが何一つ無い状態というのは、どれだけ心細く寂しいものなのだろうか。経験したことが無いからよく分からない。でも、涙が止まらない訳は理解できた。
 私ね、と、少女がさらに話を続ける。もしかしたら、あたしは本物の味方であると彼女に信用してもらえたのかもしれない。だからこそ、こんな大事な話を打ち明けてくれたのだろう。
 動物のお医者さんになるのが夢。そんなガラス細工のように心が美しく、繊細な彼女。人望も厚い。だからこそ、あたしは彼女が最後に出した言葉が信じられず、ただ呆然とすることとなってしまった。
 身体の内側から針で突かれたような感覚に襲われ、一歩たじろいでしまう。少女の口からそんな言葉が出てくるなんて夢にも思ったことは無かった。
 繊細であるほど壊れやすいというガラスの細工。どんなに美しく光り輝いていても、砕けた破片は凶器ともなり、触れた者の手を傷つける。その危険さはナイフの刃にも負けるとも劣らず、その気になれば人の命を奪うことすらもたやすい。
 もはや、心優しくか弱い少女はそこにはいなかった。研がれたばかりで切れ味抜群のナイフが一本、刃先を光らせているような状態。
 とてつもなくショックだった。

 人の心はガラスのように壊れやすい。だからこそ人はお互いの弱い部分を支え合いながら生きていかなければならない。しかし、支えを失ってしまったら、人は一体どうなってしまうのだろうか。考えるまでも無い。柱が無ければ建物が崩れてしまうのと同じで、人も立っていることが出来なくなる。
 たった今、それを実感できた。
 今まさに崩れかかってしまっている少女に残されている道は少ない。このまま崩壊してしまうか、失われたものと同等の力を持つ新たな支えを見つけ出すか、そのどちらかしかなかった。
 あたしは思った。彼女に新たな支えを見つけ出して欲しい。いや、むしろあたし自身が彼女の支えになれないだろうか、と。それができなければ、きっとこれから、もっと悲しい出来事を目にすることとなってしまう。それだけは絶対に避けなければならない。
 目に映る景色が奇妙に歪む。溢れ出す涙の悪戯か、それとも、この瞬間に本当に世界が歪んでしまったのかどうか、あたしには分からない。
 外はすっかり静かになってしまった。転がるボールの音は消え、男の子達の笑い声はだんだんと遠ざかっていっている。太陽は窓の外に見えるマンションの建物の後ろに隠れようとしている。
 悩むこともほとんど無く、あたしは決心した。そして、再び彼女の背中に手を添えて、トーンを落とした声で優しく語りかけた。
 これまで堪えていたものが一気にあふれ出す。少女の啜り泣きが号泣に変わったのだ。
 たった一人でずっと頑張ってきて、さぞかし辛かっただろう。でも大丈夫。これからはあたしがあなたを支え続けてあげるから。もう寂しくないし寒くも無い。泣きたかったら思いっきり泣いたらいい。
 そんな思いが通じたのか、砕けたはずの細工は時間をかけてゆっくりとだが、徐々に元の姿を取り戻していった。
 もはやそこに、刃を鋭く光らせるナイフなんて存在していなかった。

【残り 五人】
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