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−暁の水上決戦(6)−

 千秋の歩く速度はとてつもなくゆっくりだった。仕方が無いだろう。硝酸アンモニウムの袋や爆弾二つなど、立て続けに重いものを長距離運んで疲労しているのだ。そのうえ今は女一人を担いでの移動。風花は自らの体型についてそれなりにスリムな方であると思っていたが、それでも勾配の厳しい山の中で背中におぶったまま容易に歩けるようなものではなかった。しかしそれでも千秋は足を止めることなく、目的地を目指して着実に歩を進めていく。
「どうしてわざわざ戻ってきたのよ」
 千秋の背中に乗ったまま風花が聞いた。同時に、大きく身をよじって、口では言わずに「下ろしなさい」と伝えようとする。だが千秋は風花を下ろそうとする素振りなんて全く見せない。
「助けに来たの。一足先にダムに着いて待っていても、一向に蓮木さんがやってこなかったから、心配して」
「助けなんて要らないわ。言ったでしょ。私は必ずあなたの跡を追って、一人で目的地まで到着してみせる、って」
 千秋が自分のことを心配してくれていたのは理解できたが、プライドの高い風花は素直に礼を言う気持ちになんてなかなかなれなかった。元々自分が率先して皆を引っ張っていかなければならないという思いを持っていただけに、今こうして誰かの背中の上に乗って運ばれてしまっているという状態に、苛立ちを覚えてしまうのであった。それに――。
「それに、一分一秒のタイムロスすらも惜しまれるギリギリ状態な今、私なんかを助けに来てる場合なんかじゃないはずでしょ。いざとなったら作戦成功を第一に考えて、自分一人ででも生き残ろうとするくらいの覚悟が無ければ、この計画は成功なんてしないわ」
 再び身をよじるが、千秋は断固として風花を下ろさない。
「蓮木さんこそ何を言っているの。そもそも今回の作戦は皆で生き残るために立てたんでしょ。あたしだけがもし生き延びることが出来たとしても、そんなのは全く成功なんかじゃないよ」
「それなら仮に、今回あなたが私を助けに来てくれたことは正しいとしましょう。素直に礼を言うわ。ありがとう。でもね、作戦の成功確率が分からない中で、大切な爆弾の一つを余計なところで使ってしまうなんて愚かだわ。これでダムの水門を破れる可能性は一気に下がった」
「作戦実行前に蓮木さんが死んじゃうくらいなら、爆弾一つを失ってしまうだけの方がいいに決まっている。そもそも計画の成功確率は不明なんでしょ。爆弾が三つあっても元々ダムには歯が立たなかったかもしれないし、もしかしたら一つだけでも十分に水門を破壊できる威力があるかもしれない。爆弾一つを使ってしまったがために全てが台無しになってしまうかどうかは、やってみなければ分からない」
 千秋の足でゆっくりと移動しながら続けられていた口論。しかしやがて風花は押し黙ってしまった。これ以上言い争ったところで無意味だと思ったから。それに、過ぎたことについてとやかく言っていても仕方が無いと気付いたのだった。それよりも、今は身を守るべく、桜から少しでも離れるためのことを優先して考えるべきだ。
 先の爆発で相手の視界を奪い、その隙に逃亡をはかったわけであるが、それはあくまでも一時的な時間稼ぎにしかならないのだ。
 斜面を転がった爆弾は桜の元に届くよりも遥か手前で作動してしまった。おそらく彼女にかすり傷すら負わせることはできなかっただろう。視界が晴れて周りが見えるようになれば、すぐに追跡を再開し、こちらを追い詰めてくるに違いなかった。
「なんにしろ、こうなってしまった以上はもうとことん逃げないとね」
 千秋が息を荒げながらそう呟く。幸いなことに、ここからダムまではもうほとんど距離は残されていないはず。桜に追いつかれずにダムまで到達することは、容易ではなくとも不可能でもないはずだ。
「もう、最後まで責任を持って運んでよね」
 意地もプライドももう関係ない。風花はついに観念して、自らの身を千秋に預けることにした。既に千秋の身体にも限界が来ていることは分かっていたが、彼女は外見に似合わず強情なところがあり、一度決めたことは簡単に捻じ曲げてはくれそうに無い。それなら、ここは言い争いで無駄に気力を消耗してしまうよりも、素直に流れに乗ってしまうほうが得策なように思えた。
「はやく、急いで」
「分かっているわよ」
 しかし、千秋が懸命に歩いているのは分かるが、やはりその速度は恐ろしく遅い。いつ桜が迫ってきてもおかしくない中では、背後を気にしないわけにはいかなかった。自然と焦りが募ってくる。
「この坂を上りきりさえすれば、もう到着なのに」
 震えて思うように動かない足に対して嘆くように、千秋が肩を上下させながら苦しそうに言った。目と鼻の先にまで迫っているはずのダムがなかなか見えてこず、苛立っている様子だ。
 背中の上にただ乗ってしまっているだけの風花は、今度は罪悪感を覚え始める。
「ごめんなさいね。足を引っ張ってしまって」
 掌を返したかのように、ツンツンとした態度から一変してかしこまると、千秋の肩が、がくっと下がった。
「何よ、急にしんみりしちゃって。強気なのか弱気なのかはっきりしてよね」
 綱の引っ張り合いの最中に、急に相手に手を離されてしまったかのような手ごたえに、力が抜けてしまったらしい。なんだか立場が普段とは逆のようだ。
「こんなふうに皆の邪魔になってばかりいるくらいなら、私なんてもっと早く死んでおくべきだったかしらね」
 普段なら絶対に口から出てくるはずも無いネガティブな発言。疲れが限界まで達しているせいか、恐ろしいほどにまで感情の起伏が激しくなってしまっているようだ。
 これには千秋も驚いたか目を瞬かせていたが、すぐに表情を元に戻す。
「何を言っているのよ。蓮木さんが今回の計画についてずっと考えてくれていたおかげで、あたしはこれまで希望を捨てることなくやってこれたのよ。ようやく勝機も見えてきた。でも、アクシデントはいつ起こるか分からない。今さらになって、指示を出してくれる人がいなくなっては困る」
 正直なところ、そういう風に言ってもらえると少しありがたかった。他人の役にたてなくなっている状況の中で、自分にもまだ存在価値が残されているのだと実感することができるからだ。不思議なことに、生きたいという思いがまた微かにだが沸いてくる。
「着いた」
 懸命に足を動かし続けて、ついに千秋は最後の坂を上りきった。
 風花は千秋の肩越しに、前に広がる景色へと目を向ける。ダムが見えた。昨日から降り続いていた雨の影響か、水面の高さが堤の限界近くにまで上がってきている。まさにダムを破壊するにはうってつけな条件。計算どおりだ。
「春日さんが先に運んできた爆弾は何処?」
「あそこよ」
 千秋が指差すを方を見る。岸に繋がれている目印のボートの傍らに、ビニールを被せられたドラム缶が二つ放置されている。
「無用心ね」
 風花が言うと、千秋は寂しそうに「どうせもうほとんど誰もいないし」と呟いた。胸が熱くなった。
「オーケイ。ありがとう。もう大丈夫よ。最後くらい自分の力で歩くわ」
 千秋の背中からおりる。自分の身体が信じられないほど重く感じられたが、何とかバランスをとって体勢を保った。
「さあ、ついに計画の最終段階ね。白石さんが来ないうちに残った爆弾をボートに積んで、私達も乗り込むよ」
「ええ」
 二人は並んで、ほとんど足を引きずっているような状態でボートへと歩いた。お互い顔色が悪く今にも倒れてしまいそうだったが、不思議と生気は失われていなかった。目前に迫った希望の光に力を与えられていたのかもしれない。
 手を伸ばせばもう届きそう。それくらいに探し求めたゴールが間近に迫っているように思えた。
 池の方へとほんの僅かに傾いている地面の上をゆっくり進む。勾配が激しかった山の中と比べれば、まだずっと歩きやすい。目線をダムの奥へと向けると、霧の中の遠くの方に水門の黒い影が浮かんでいるのが確認できた。
 ほどなくして二人はボートのすぐ側に到着した。
「時間が無い。急いで荷物を積むわよ」
 風花は最後の力を振り絞って、爆弾の一つを先に持ち上げた。
 ボートのサイズはあまり大きくは無い。見たところ二人か三人乗りといった感じだ。とりあえず、この場にいる人間と荷物の重量くらいなら、一度に乗せてもとくに問題は無さそうである。後部に取り付けられたエンジンは少し古めかしく、きちんと動作してくれるかどうかと一瞬不安に思わされたが、スイッチを入れるや否やけたたましい音を立てながら勢いよくスクリューが回転をはじめたので、とりあえず安心することができた。
「さあ、早く乗り込んで」
 岸とボートを繋いでいたロープを解いて二人は一斉に乗り込む。上から大きな圧力がへりにかかったことによって船体が一瞬大きく傾いたが、重心を移動させてバランスを整えると揺れはすぐに治まった。
「早く岸から離れて」
 千秋が叫んだ。風花たちを追ってきた白石桜が山を抜けて再び姿を現したのだ。
 焦りの表情を浮かべながらボートの縁に身を寄せると、船体は再び大きく傾いた。
 桜は走りながらマシンガンを構えて撃ってきた。だが距離が離れているためか、無数に飛んでくる弾はどれも標的にかすりもしない。池の水面を貫いて、ボートの周囲にいくつか小さな波紋を広げて見せただけだった。風花たちを仕留めるには至らない。
 その間にボートは池の奥へと向かって進んでいく。その移動速度は人間の足と比べれば大したものではなかったが、既に敵との間には十分すぎるほどにリードが開いていたため、銃の間合いから逃れるのは決して難しいことではなかった。
 桜も諦めずにマシンガンを構えつつ走り寄ってこようとするが、爆発に視界を遮られた際に時間を大幅にロスしてしまったのが影響して、あと少しというところで標的を逃してしまう。間一髪で陸から離れた風花達の勝ちだった。
「やった」
 歓喜の声を上げる二人。舟の速度はあまり速くはないものの、岸からは着実に遠ざかっていっている。
 付近にはこの一隻以外にボートの姿は見られなかった。
 桜は水際で立ち尽くしながら銃を下ろし、池の奥へと進んでいくボートの姿を静かに見つめている様子。標的に水の上にまで逃げられてしまっては、さすがにもう手出しは出来ないと観念したのだろう。
 離れていく岸を見つめながら風花はそんなことを思っていた。

【残り 五人】
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