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−暁の水上決戦(5)−

 草むらを掻き分ける音がだんだんと近づいてくる。ゆっくりではあるが、徐々に徐々にと確実に。
 迫り来る恐怖を背中に感じ、さすがの風花も焦りを覚えずにはいられなかった。全身の毛穴が自然に開いて鳥肌が立つ。
 見えない重圧に押さえつけられながら、ほとんど言うことを聞いてくれない身体に鞭を打って、一歩一歩しっかりと地面を踏みしめつつ斜面を進む。身を凍りつかせてくる死の危機から少しでも遠くに逃れるために。しかし相変わらず機能が改善されることのない四肢でいくら死力を尽くしてもがいたところで、爆弾を運びながら勾配のきつい坂をのぼることは、決してスムーズにはいかなかった。たった一歩前に移動することにすら考えられないほどの時間をかけてしまう。結局、急接近する足音の恐怖から逃れることは叶わず、だんだんと距離を縮められていってしまう。
 まずい。相手がもしも敵だとすると、このまま追いつかれてしまったら命は無いも同然だ。なにせこちらには武器が無い。機動力が皆無に等しくなってしまっているうえに丸腰であるという状態の中、マシンガンなんかで狙われてしまったあかつきには、もはや逃れようがないだろう。
 絶対に敵に追いつかれてはならない。
 力の入らない身体は血色が悪くフラフラで、いつ倒れてしまってもおかしくないような状態だ。だが、風花は倒れなかった。とっくに限界は迎えているはずなのに、生への渇望が新たに力を生み出してくるのか、目に見えない何かがか弱い全身を支えてくれているのか、とにかく、彼女は普段の何倍にも感じる重力に負けることなく自らの足で立派に立ち続けていた。ある種の力強さを未だに感じさせるこの姿を見て、体内から大量の血液が失われているといったい誰が気付くだろうか。
 彼女を支え続けたもの。そこには年上としてのプライドというものも含まれていたのかもしれない。十五歳と十八歳では体力に大きな差があるわけでもないのに、人生の経験が長い分皆を引っ張っていかなくてはならないと、余計な使命感を背負い込んでしまっていた。それが重荷となってこれまで風花は苦しめられてきたわけだが、そういったある種の責任感のようなものが無ければ、ここまで頑張ることも出来なかっただろう。
 風花にとってプライドはそうとうな重荷となっていた。だがプライドは時として、何物にも劣らない強力な武器ともなりうるのだ。
 しかし、懸命な努力も虚しく、迎えてはならない最悪の事態はほどなくして訪れることとなった。間近にまで迫ってきた足音に恐れおののいて振り返った瞬間、草むらの後ろから一人の少女が現れたのだった。黒いレインコートに全身を包んだ死神のような姿。フードの隙間からはみ出した白髪がとても目立っていたので、白石桜(女子八番)であるとすぐに分かった。そして驚いた。
 まさか、あの子が比田くんを倒したとでも言うの?
 状況からするとそれは間違いの無いことのように思えるが、風花はとても信じることが出来なかった。自我を失っているうえに、身体能力が特別高いわけでも無い小柄な少女が、強大な力と戦闘技術を持っていた圭吾に勝つなんて、あまりにも考えにくいことだったから。
 しかし直後、風花は桜の小さな手が、身体のサイズに似合わない大型の銃器を握り締めていることに気付き、圭吾が彼女に倒されてしまったことは間違いないと、ほぼ確信した。
 桜が持っている銃は、形状からサブマシンガンの類であると銃の素人でも分かる。つまり、彼女が圭吾を射殺したのだとすると、マシンガンの銃声が聞こえたのを最後に島中が静まりかえったというつい先ほどの一件についても、つじつまが合ってしまうのであった。
 風花が桜の姿を確認した直後、桜の側も風花の存在に気付いたようだ。地面の足跡へと向けていた目線を上げて、よどんだ瞳に前方を歩く少女の姿を映し出す。感情というものが存在していないのか、フードの隙間から覗く顔は無表情で、存在そのものの彩度がとてつもなく低く色味がほとんど感じられなかった。
 肉体という器に動作の基本となる機構と命令を詰まれただけの、魂も熱も存在しない単なる機械人形。それが、プログラム開始以来初めて見た白石桜の印象だった。
「くっ」
 風花は横へと身体を倒し、雑草を押し潰すかのように地面の上に伏した。桜がマシンガンを持ち上げて、銃口をこちらの背中へと向けてきたからだ。自由の利かない身では素早く動くことは難しいため、弾道から瞬時に逃れるためには、重力を利用してその場に倒れてしまうのが最も良いと判断したのだった。
 斜面の下から発砲されたマシンガンの弾数発は、一瞬前まで風花が立っていた辺りを通過していった。判断と行動が少しでも遅れていたら、今頃もう命は無かったであろう。
 危なかった。それにしてもまさか白石さんまでこのゲームに乗ってしまっていたなんてね。いったいどうして……。
 自我や感情があって心優しかったころの桜を知らない風花は、今回の出来事をさほど意外には感じなかったが、やはりゲームに乗った動機については疑問を抱いた。物事を整理するために必要な思考力が、まだ彼女に残されているとは思ってもいなかったので。
 とまあ、ほんの一瞬だけそんなことを頭に浮かばせた風花だったが、今はそれどころではないと余計な考えを中断した。一度相手の攻撃を避けたというだけで、危険が過ぎ去ってくれるわけではない。第二射がくる前に立ち上がってこの場から逃れなければ、今度こそ狙い撃ちにされてしまっておしまいだ。
 だがそうと分かってはいても、身体は相変わらず言うことを聞いて動いてはくれない。地面に這いつくばったままの状態でもがくものの、背中に何か重いものが圧し掛かってきているかのように、全く身体が持ち上がる気配はなかった。
 そんな風花の様子に構わず、桜はこちらへと走り寄ってきながら、容赦なくマシンガンの狙いを定めてくる。銃口の向きはたちまち風花の身体へと合わせて固定された。
 桜の銃の腕前はなかなかのものだ。まだ二人の間には結構な距離が開いているが、次こそは見事にこちらを仕留めて見せるだろう。
 うまく血が通らない頭をフラフラと揺らしながら、風花は桜の顔をじっと見る。全く感情が読み取れない無機質な表情には恐怖すら覚えた。
 これまでか。
 引き金にかかった桜の人差し指に力が入れられる瞬間、風花は反射的に目を瞑っていた。もう駄目だと思った。
「蓮木さん、下がって!」
 すぐ近くから覚えのある声が聞こえた。誰かに力ずくで押されたらしく、勢いよく地面の上で転がる。傍らの樹にぶつかって止まってから目を開くと、信じがたいことが眼前で起こっていて、とても驚かされた。
「ちょっと、なんでこんなところにいるのよ」
 なんと、先に一人でダムへと向かっていっていたはずの春日千秋の姿がすぐ前にあった。しかし本当の驚くべきはそこではなく、むしろ彼女のとった行動のほうに目を疑った。今にも身体の機能が停止してしまいそうな風花から爆弾のドラム缶を奪い取り、暴発防止のために取り付けられていた手製安全装置のレバーを動かしたのである。
「な、何をするつもりなのよ」
 嫌な予感がしたせいか言葉がどもる。
 千秋は躊躇することも無く爆弾を横に倒した。地面が坂道になっているため、ドラム型のそれはすぐに転がりだす。そして、マシンガンを構えながら真っ直ぐこちらへと走ってくる桜の方へと向かっていく。
「伏せて!」
 樹の陰へと逃げ込んだ千秋が叫んだ瞬間、地中から突き出していた岩の出っ張りにドラム缶がぶつかって跳ね上がり、空中で耳を劈くほどの爆音を発しながら爆発した。その威力は完全に設計者の想像よりも上。爆風が辺りの樹木をなぎ倒し、土を高く巻き上げる。
 千秋の声に反応して、隠れながら身構えていた風花だったが、勢いに耐え切れなくて吹っ飛んでしまいそうになった。舞い上がる粉塵が霧の如く視界を遮り、ほんの数メートル先すらも見えない。
「今のうち。さあ急ぐよ」
 身体が宙に浮き上がるような感覚。木の屑が目に入ってまわりを見ることが出来なかったが、胸の辺りに覚える感触で、自分は背負われているのだと状況を理解できた。
「どういうつもりなのよ、春日さん」
 瞼を閉じたまま問いかける風花。
「決まっているじゃない。逃げるのよ」
 千秋は風花を背負ったまま歩くという無茶な行動に出たらしい。密着して感じる丸い背中が大きく上下に揺れ始めた。

【残り 五人】
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