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−天に羽撃くとき(3)−

「千秋」
 誰かがあたしの名前を呼ぶ。昔から何千回、何万回、と数え切れないほどの回数を耳にしてきた、とても聞き慣れた少女の声。彼女に名前を呼ばれるというのは十年以上も続いてきたごく日常的なことであり、特別な何かであるという認識はあたしの中には全く無かった。しかし、少し小さめで幼げなその身体から発せられる声で自分名前が呼ばれると、彼女はすぐ側にいるんだと認識できて、とても安心した気分になれるのであった。

 あたしと彼女――幼馴染の羽村真緒が知り合ったのはいつだったか、今はもう覚えてない。それほど古い付き合いだということだ。
 飲食店を営む父と、客としてよく来店していた真緒の両親は仲が良かったということで、昔から家族ぐるみの付き合いがあった、とのこと。たぶん最初に真緒を見たのは、羽村家三人が揃って父の店「松乃屋」に夕食でも食べにきたときだったのだろう。
 あたしが生まれた直後に母に死なれ、父は一人ぼっちで物心付く前の赤ん坊の面倒を見なければならなかった。そのため開店時は目の届きやすい店内へとあたしをよく連れ込んでいた。そんなわけで、やはり店の中で初めて真緒と鉢合わせたのだと思われる。
 そこからあたしたちがどのような過程を踏んで仲良くなっていったのかも、これまた全く覚えていない。気がつくといつの間にか、彼女があたしのすぐ隣に立っていた。そんな感じだった。
 実の姉妹よりも仲の良い二人だと、昔から近所ではもっぱら評判だったらしい。というより、仲が良すぎてお揃いの服なんかを着て歩いていた時もあったものだから、たまに本当に姉妹なのだと間違われてしまうこともあったようだ。ちなみにあたしが姉だと勘違いされてしまうこと百パーセント。幼い頃から既に、真緒は実年齢よりも下に見られてしまう傾向にあったようだ。でも妹ならまだいい。髪の毛も昔から男の子みたいに短く切っていたものだから、仲良しの“姉弟”と勘違いされることすらあった。公園で遊んでいた時、通りかかったお婆さんに「元気のいい弟さんをもって、お姉ちゃんも大変だね」と言われたことを、今もまだ覚えている。男と間違われて真緒が泣き出したので、あたしは一生懸命に彼女をなだめようとしたのだった。
 そんな仲良く育ってきた二人の間で喧嘩が勃発したことも、実は何度かあった。初めて衝突したのは同じ幼稚園に入って一年経つか経たないかというころ。園内の砂場で遊んでいた際に一つのスコップを取り合ったという、些細な事が原因となった本当にくだらない喧嘩だった。しかしお互い身体のどこかを怪我するという流血戦でもあった。
 スコップを引っ張り合っていたときに真緒が突然手を離したため、あたしは砂場の中で勢い余って転び、その時にてのひらを切ってしまった。そしてむっとしたあたしが「この男女」と、相手が少し気にしていた言葉を浴びせた為に取っ組み合いに発展し、先生達が止めに入る前に真緒が膝を擦りむいた。いつも手を握り締めあって歩いていたほどの仲良し二人が喧嘩するのを見たのは初めてだったと、先生達は驚いていたらしい。
 ただ、その後どうやって仲直りしたのかは忘れてしまった。滅多に無い真緒との衝突が頭の中に記憶として鮮明に刻み込まれてしまったために、その後の過程を書き込むスペースはもう幼いあたしの中には残されていなかったのかもしれない。
 数えるほどしかしたことのないあたし達の喧嘩が最後に行われたのは、小学校低学年の頃。それもまた本当にくだらないことが原因だったと記憶している。でも、それ以降真緒とぶつかった記憶なんて全く無い。ある程度知能が発達してくると、自分達のしていたことの幼稚さに気付いてしまい、無意味な喧嘩などする気も起こらなくなってしまったのである。
 喧嘩するほど仲が良いという言葉があるが、幼馴染同士のあたしと真緒の場合は、喧嘩なんてしてもしなくても仲良しに変わりはなかった。「昔仲が良かった友達と、今は疎遠になってしまっている」なんて言う人間はまわりに何人かいたけれど、そんなのあたしには信じられないことだった。毎日真緒のすぐ隣を歩くということが常識化しすぎていて、その生活に変化が生じるなんてことは想像すら出来ないのだった。
「ねぇ千秋。私たち、ずっと一緒にいられるかな?」
 中学に入ってから、二人で街に出かけたとある日の帰り、道を歩いている途中に真緒が急にこんなことを言い出した。一緒に見に行った映画の中に、主人公の少女とその幼馴染が離れ離れになるというシーンが含まれていたので、たぶんそれに自分たちのことを重ねてしまい、心配になったのだろう。彼女の考えていることはもう手に取るように分かる。
「いられるよ。あたしたちがお互いに、ずっと側に居続けたいと思い続けている限り。それとも、もしかして真緒はもう、あたしとは距離を取りたいとでも思っている?」
 あたしはわざと少し意地悪なことを言ってみた。すると真緒は焦った様子で、
「そんなことないよ。私はずっと千秋の隣を歩き続けたい」
 と言い切った。少し嬉しかった。
「じゃあ大丈夫よ。あたしたち、一生離れ離れになることは無い」
「そうか……、そうだよね」
 すると真緒は歩きながら、突然あたしの手を握ってきた。
「なにするのよ、急に」
「なにって、昔はよくこうやって歩いたじゃない。恥ずかしいの?」
 当たり前だ。女二人で手を繋いで歩いたのなんて、小学校の一年か二年生のとき以来無かったのだ。中学生にもなってこんなことをしているところを誰かに見られでもしたら、これからなんて言われるか分かったものじゃない。
 あたしはとっさに彼女の手を振り払おうとした。が、純粋に楽しそうにしている真緒と目が合ってしまった途端、仕方ないか、と思ってしまった。
 たまにはこういうのもありだ。
 恥ずかしがりながら幼馴染の手を握り返す。すると真緒の小さな手のぬくもりがあたしの掌にも伝わってきた。ああそうか、あたしたちは今も昔も変わらず仲良しなんだ、と改めて思うと、なんだか嬉しくて自然と顔がにやけてきてしまった。
 そんなあたしを見ながら真緒は少しだけ俯き加減になって、至極小さく呟いたのだった。
「千秋、大好き」と。


「真緒! 真緒!」
 幼馴染の名を何度も呼びながら、ベッドの上に落ちた小さな手をもう一度強く握り締める。しかし、かつて感じたぬくもりなんてもう微塵にも感じることが出来ない。心なしか真緒の肌の感触も無機的なものへと変化を遂げているように感じられる。当然こちらの手を握り返してくることなんかも無かった。しかしそれでも千秋は諦めきれず、真緒の手を離そうとしなかった。
 そんなとき、頬に走る激痛。
「痛っ……。何するのよ!」
 千秋は真緒の手から離した自らの手で頬を押さえながら、目の前に立つ比田圭吾の顔を見上げた。彼に掌で突然叩かれたのだった。
「いつまでそうしているつもりだ。お前の幼馴染はもう死んだんだ。現実は現実として受け止めてさっさと諦めるんだな」
「ちょっと比田くん」
 さすがに今回の彼は言いすぎだと思ったのか、風花がとっさに間に入ってきた。しかし圭吾は貧血でフラフラになっている風花だって容赦なく横へと押し退けて、千秋の真正面から離れようとしない。
「俺達には時間が無いんだ。悲しんでいる暇があったら、脱出のための準備を進めるか、作戦実行時の為に今から休んでおくかどちらかにするんだ」
「いくらなんでもそんな言い方は無いでしょう」
 幼馴染が死んで悲しんでいる少女に向かって、労いの言葉一つをかけることもなく、彼はもう自分が生き残るための作戦のことばかり考えている。千秋はそう思って静かに圭吾を睨みつけた。
「お前、羽村が何て言ったか覚えているか」
「覚えているわよ。それが何だって言うのよ」
「羽村は俺達――特にお前には絶対に生き続けてもらいたいと思っていたんだ。天へと羽ばたいて行ってしまった羽村の身体に泣きついた所で、彼女は喜んだりはしない。お前は羽村が希望したとおり、生き残る為にこれからも運命と戦い続けるべきだ。少なくとも俺はそう思った」
 彼の言葉には筋が通っていて、正論としか言い様が無い。何か言い返したくても、それ以上に上手く纏まった考えなんか浮かぶはずもなく、千秋はただ黙り込むしかなかった。悔しいが、完敗だ。
「分かったなら、作業の方はもういいからお前は少し休め。先ほどの重労働で疲れきっているんだろうからな」
 どうやら彼、初めから千秋に作業を手伝わせるつもりは無かったようだ。まあ、疲れ切ってろくに動けないような女なんて、それこそ脱出作戦実行時には邪魔者にしかならないし、それなら今のうちに休ませておいた方がまだマシというわけか。
「俺は蓮木の代わりに、運んできた材料を使って爆弾を作ることにする。輸血の際に支柱を倒してしまうような奴に、こんな危険な作業を任せるわけにはいかないしな。蓮木、俺に爆弾の作り方を教えろ」
 彼は出入り口の側に落とした硝酸アンモニウムの袋の方へと歩み寄りながら、振り向きもせずに風花に命令した。圭吾だって千秋と同じく長い距離の移動に疲れているだろうに、休むつもりは無いらしい。相変わらずこの男の体力はおかしい。人の域を脱していると言っても過言ではない。
「ところで、比田くんはどうして私たちの為にそこまでしてくれるのよ」
 千秋は聞いた。これまでに圭吾のことは十分に見直してきたつもりだったけど、さすがにここまで身体を張って皆の為に動いてくれるとなると、その原動力が何なのか知りたいと思わずにはいられなくなってしまうのだった。
 千秋の質問に対して、圭吾は即座にはっきりと答えた。
「羽村が、俺に皆を守ってくれと言ったからだ」

【残り 九人】
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