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−時を越えた迷宮(5)−

「さあ言うんだ! 『小倉くんのことがずっと好きでした。私と付き合ってください』って」
 わざとこちらに見せつけるように片方のメスを前へと突き出しながら、光彦が興奮気味に声を上げた。はぁはぁはぁ、と、荒い息遣いが聞こえてくる。彼のその様子はもう完全に不審人物そのものだった。
 風花はそんな相手の姿を視界に入れつつ、少しの間呆然と固まってしまっていた。真緒を助けるために抜いた自らの血すべてが無駄になってしまったショックは大きく、絶望すら感じてしまっていたのだった。危険な状態をさまよっている真緒の劣悪な体調を回復させるためには、早急に血液を補充させる必要があった。それなのに、予想だにしなかった事態は風花の思惑もろとも全てを粉々に砕いてしまった。
 血液パックの切れ目の真下で血溜まりが大きく広がっていく。それにつれて風花の焦る気持ちもまた、だんだんと強まっていった。
 早く何か手を打たないと。血液不足の真緒は、今はまだ多少安定した状態をなんとか保ててはいるが、いつ身体に限界が訪れてしまうか分かったもんじゃない。早急にこの場を切り抜けて、再び彼女の手当てにつく必要があった。
「分かったわよ……」
 仲間を助けるために自分が屈辱を味わう。代償は大きいが致し方ない。風花は歯をかみ締めながらも相手の要求に応える覚悟を決めた。もちろん、光彦なんかに向かって「好きでした」なんて台詞、いくら演技であろうと言いたくはなかった。いっそ死んでしまったほうがマシ。しかし、今命の危険にさらされているのは、風花ではなく真緒である。関係ない彼女をこれ以上巻き込まないために、逆らうことは許されなかった。
「小倉くんのことが……好き……でした……」
「で、続きは?」
「わ、私と……付き合ってください」
 実際にやってみると、これまた思っていた以上に屈辱的だった。今まで何もしなくても男のほうから言い寄られていた自分が、好きでもない相手に向かって告白の言葉を送るなんて。腸が煮え返るような思いだった。
 そんなしかめ面の風花を見ながら、光彦はニヤニヤと笑っている。
「ん? ちょっと聞こえなかったなぁ。もう一度、もっと大きな声ではきはきと」
「なに!」
「リピィト、アフタァ、ミィ」
 わざと神経を逆撫でするような言い方をし、こちらの反応を楽しもうとする光彦。
 この男、調子に乗りやがって。
 ふつふつと湧き上がる怒りが、血圧の低下によって色褪せていた風花の顔を僅かに紅潮させる。いつまでも治まりそうにない身体のふらつきなど忘れてしまうほど、硬く握ったコブシをとにかく相手の顔面に叩き込んでやりたいという思いで頭の中はいっぱいだった。しかし、真緒の首筋が切り裂かれてしまう様子が脳裏をよぎり、とてもそんなことなど出来なかった。
「小倉くんのことが好きでした。私と付き合ってください」
 風花は素直に光彦の命令に従った。今度は先ほどよりも大きな声で、定められた台詞をしぶしぶだがはっきりとなぞる。
「僕もだよ、風花」
 調子に乗ってきた光彦は、身体を仰け反らせながら、臭い台詞を恥ずかしげもなく言い切った。
 お前はミュージカル俳優か。
「言われたとおりにしたわよ。さぁ、早く羽村さんから離れて」
「駄目だよ。だってまだキスしてないもん」
 光彦に冗談を言っているような様子は見られない。暗視スコープの裏に隠れて実際には見えていないのに、怖いほどにギラギラと輝く彼の真剣な眼差しがこちらに向けられているのを、なんとなく肌で感じた。風花はつい身震いしてしまう。
「本当に、しなきゃ駄目?」
「当たり前だよ。って、待てよ……、キスだけで終わらせてしまうのは勿体無いなぁ。ここは病院。ちょうど良いことにベッドもあるし……。ふふふ……」
 後半、彼がどのようなことを考えていたかはなんとなくだが想像できる。とてもいやらしい、官能的な場面を頭に浮かばせていたのだろう。
 駄目だ、この男。次から次へと際限なく要求を続けてばかりで、終わりがこない。
 いくら肝の据わった風花であろうと、さすがに光彦と一緒にベッドインなんて御免だった。それどころか初めてのキスを彼に奪われてしまうことだって耐えられない。
「羽村さんを殺しちゃうよぉ」
 風花が躊躇していると、光彦が揺さぶりをかけてくる。
「他に、何か別のことで許してもらうわけにはいかないかしら」
「ダメー。蓮木さんと一緒にお楽しみな時間をすごすんだって、もう決めたんだもんねー」
 開いた光彦の口の中で粘り気のある唾液が一本の糸を引いている。
 どうやらまたしても相手の命令に従うしかなさそうだった。これ以上粘り続けても光彦の気は変わりそうにもないし、それに、火山に刺激を与え続けるという行為は、もはや危険すぎる。いつ真緒の首に押し当てられたメスが動かされるか分からない。
 でも、こんな奴とキスとかそれ以上のことをするなんて、考えただけでもじんま疹が出てきそう。いや、待てよ……。
 ふと思った。たしかに現状では歯向かえるようなチャンスなんて全く無い。けれど、キスなどをするために相手に近づいたときなら、隙を見てメスを奪うくらいのことは出来るのではないだろうか。それに、風花と行為に及ぶともなれば、彼だって真緒のベッドから離れなければならないはず。
 よくよく考えてみると、形勢逆転するチャンスはいくらでも作り出せると分かってきた。こちらの体調は最悪だけど、幸いにも光彦は力の強い人間というわけではない。取っ組み合いになったとしても勝てる可能性はある。
「分かったわ。言うとおりにしましょう」
「やっとその気になってくれた。じゃあ、とりあえず銃は手から離してもらおうか。そんな危険なものを握ったままじゃ、せっかくの甘い時間も雰囲気が出ないからね」
「そうね」
 銃を手放してしまうのは少し不安だが仕方なかった。光彦だって安心できなければ、風花に向かって手招きなんてしてくれない。
 まあ、こうなることは大体予想していたしね。潔く従うべきか。
 グリップを握っていた手の力を抜き、デザートイーグルを床の上に落とす。光彦の視線は一瞬だけそちらへと向いたけれど、すぐに風花の顔の方へと戻ってきた。
「それじゃあ始めましょうか」
 相手を行為に集中させることが出来れば、武器を奪い取ることも難しくはない。興奮を誘うために、風花はゆっくり目を細めて、表情をできるだけ色っぽく取り繕った。暗視スコープを通してこちらを見ている光彦の意識はもう、暗闇の中に浮かぶ美少女の顔にばかり行ってしまっていることだろう。
「おおお……」
 案の定、光彦は風花の積極的な姿に興奮してしまった様子だった。百人斬り女とさえ呼ばれてきた風花にとって、単純な男一人を手玉に取ることくらい実にたやすかった。
「はやく! はやくっ、蓮木さん!」
 光彦はもう理性を保てていない。生涯一度も異性の身体を体感したことのなかった彼は、もはや完全に女の魅力の虜となってしまっていた。この時点で事実上、形勢は逆転してしまっていたと言ってもいい。
 もう終わりね。唇を重ねる前にケリをつけることも出来そう。
 風花がそんなことをぼんやりと考えたときだった。
「なにしやがる、この!」
 光彦が声を上げて暴れだした。
「蓮木さんにそんなことさせない!」
 なんと、風花の企みなんて知りもしない真緒は、光彦の気が完全に風花へと向けられた隙を狙って、縛られていない方の手を動かして、首元で刃を光らせていたメスを掴み、それを奪い取ろうとしていた。
「てめっ」
 当然光彦はそれを許しはしない。メスを引っ張る真緒の行為に逆らうように、手に力を入れ直して銀色の柄を強く握り締める。おそらく彼は思っていただろう。怪我人であり、見た目にも衰弱している様子がはっきりと分かるような少女の反抗など、容易に沈めることが出来るだろう、と。しかし実際には違った。パジャマの袖口から伸びた真緒の手は小ささに似合わず意外にも力があって、簡単にはメスを離してはくれなかった。風花に対してある種の憧れを感じ始めていた真緒は、自分のせいでその憧れの人が無様に恥を晒すなんて耐えられないという一心で、死力を尽くして光彦に歯向かおうとしていたのだった。
「ギャァ!」
 光彦が大きく悲鳴を上げた。メスを奪い返そうとする彼の右手に、真緒が大きく口を開いて噛み付いたのだ。光彦の手の皮が部分的に破れ、犬歯が食い込んだ箇所から血がじんわりと滲み出す。
 風花はそのチャンスを見逃さなかった。風花と真緒の両方に光彦が注意を向けていた時は下手に動くことは出来なかったが、彼の気がこちらから逸れてしまった今なら、なんとでもすることができる。
 彼女はすぐに一歩後ろへと飛び退いて、床に落とした銃を拾い上げた。デザートイーグルの重さを感じた瞬間、風花は勝利を確信した。引き金に人差し指をあてて、狙いを光彦の腕に絞る。身体のどこか一箇所でも撃たれれば、狂気に満ちた彼だって恐れを感じて逃げ出すかもしれないと考えていた。
 だが、風花が銃を撃つよりもほんの少し早く、最悪な事態は起こってしまった。
 真緒の執拗な逆らいに怒りを覚えた光彦は、もう一方の手に握っていたメスを力いっぱい振り回したのだった。空気を切り裂く鋭い刃が、少女の白く細い腕をも掠める。
「キャッ」
 真緒はメスから手を離した。すっぱりと斬られた手首は大きく傷口を開かせて、そこから大量の血液が流れ出てきている。腕を伝って滴り落ちる鮮血が、白いベッドシーツをみるみるうちに真っ赤に染め上げていった。
「キサマ、よくもよくもっ!」
 逆上した光彦の気はまだ治まっていない。眉間に深いしわを走らせ、強く噛み締めた歯をガチガチと鳴らしていた。
「お前なんか! お前なんかぁっ!」
 大きな声で叫んだ直後、光彦は頭の上に掲げたメスを、真緒の胸元を目掛けて勢いよく振り下ろした。
 危機を感じた風花が無意識のうちにデザートイーグルの引き金にかかっていた人差し指に力を込めたのも、それとほぼ同時だった。

【残り 十二人】
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