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−時を越えた迷宮(6)−

 ドンッ、と火薬の破裂する声が轟いた瞬間、デザートイーグルの銃口が向く先で、まるでスケートのターンのように、光彦の身体が綺麗にくるりと一回転するのが見えた。顔に装着していた暗視スコープが粉々に砕けて、その破片が血液パックの下に広がっていた血溜まりの中へと散っていく。身体の力を失った光彦は、ワンテンポ遅れて後ろの壁へともたれかかり、後頭部からあふれ出す温血を白い壁面にこすりつけながら、そのままズズズと床の上に崩れた。弾丸は光彦の右目を潰してから後頭部を突き破って外へと飛び出したようで、彼の頭部の弾痕からは血液以外にも、硝子体やら脳の一部なんかがゆっくりと流れ出していた。室内は死体が放つ汚臭によってたちまち支配されてしまう。
 銃弾は病室の壁に突き刺さり、小さな蜘蛛の巣状のひび割れを形成していた。
 そんな自らが作り出した凄惨な光景を前に、風花は息をのむ。
 私は人を殺してしまった……? こんなつもりはなかったのに……?
 真緒を傷つけられた怒りに囚われて、闇雲に銃を撃ってしまった彼女。人から命を奪う気なんて、頭の中には微塵も存在していなかったはず。ただ光彦が驚くなり恐れを抱くなりして、この場から逃げ出してくれさえすれば良いと思っていた。それなのに、結局自分が招いたのはこの酷い有様だけだった。
 人を手にかけてしまったショックのせいか、血圧低下による体調不良のせいか、身体がぶるぶると震えだす。
 こんなはずはない。私は人を救うために今日まで頑張ってきたのだ。それなのに、逆に人を殺してしまうなんてありえない。
 風花は拳銃を床へと落とし、自らの両手を目の前へともってきてじっくり見た。細かい作業も自在にこなす洗練された細い指は、十本ともいつもと変わらずそこに存在している。なんだかつい先ほど起こった出来事全てが、夢の中のことのように思えてきた。しかしそれは現実逃避でしかない。自ら握っていた拳銃が眼前で火を噴いたのも、飛び出した弾丸が光彦の右目をすり潰したのも、噴出した大量の血液が壁に打ち上げ花火のような大胆な模様を描いたのも、全て事実である。
「きゃぁぁぁぁぁぁ!」
 何をするでもなくぼんやりとしてしまっていた風花だったが、誰かの大声が耳に入ってきたのをきっかけに、ハッと目を覚ました。意識を現実へと引き戻して辺りを見回すと、光彦の死体を見て悲鳴を上げる真緒の姿が真っ先に視界に飛び込んできた。風花は急いで彼女へと駆け寄る。
「もう大丈夫よ。怖いことなんて何も無い。全てもう終わったのよ」
 髪を短く切り揃えられた少年のような頭を優しく抱き締めて、なんとか落ち着かせてあげようとする。
 真緒が悲鳴を上げるのも無理はなかった。頭部を潰された光彦の死体は、真緒のベッドのすぐ側で壁を背に座り込んでいるのだ。要するに、真緒は惨たらしい姿となってしまった遺体をあまりに近い距離から見てしまった為に、一時的にパニック状態に陥ってしまっていたのである。
 風花の胸に顔を埋めていた真緒の呼吸は、次第に正常なペースへと戻っていく。なんとか少しずつ落ち着きを取り戻していったようだ。
「あ、ありがとう……。私、驚いちゃって」
「そんなことより、羽村さん、手……」
 真緒の手首に開いた傷口は深く、流れ出す血が止まる様子は全くない。腕の表面で木の幹のごとく枝分かれしながら流れている赤いラインは、まるで単体の生き物であるかのように激しく波打ち続けていた。
「早く、もう一度手当てをし直さないと」
 ただでさえ血液の量が足りていなかった真緒の身体から、これ以上血を失わせてしまっては大変危険だ。
 風花は部屋の中心にあったベッドの表面からシーツを剥ぎ取り、光彦の死体の上から被せた。それからようやく処置を開始。まずは出血を食い止めるための止血。とりあえずは手近にあったタオルを細長く破り、腕の途中の止血点を強く縛る。以前真緒が湯川利久に撃たれた際に比田圭吾が行った処置と全く同じ。血液のラインを横断するような形で腕の表面に巻かれたタオルは、たちまち赤く染っていった。
 出血の方は何とかすぐに静まった。だが短時間に流れ出してしまった血液の量はあまりに多く、このままでは今度こそ真緒の命が本当に危ない。極端に生気が失われてしまっている様子が、彼女の表情から見て取れた。
「輸血を再開しましょう」
 風花は真緒の容態を目の当たりにするや否や、ほとんど考える時間もとらずにそう言った。
「えっ」
 当然真緒は驚きの声を上げる。血液パックは光彦に切られ、その中身はもう流れ出して使い物にならなくなっている。それなのに、風花はどうやって輸血を続行するつもりなのだろうか、と疑問が浮かぶのは当然のことであった。
「もしかして、輸血のために蓮木さんが抜いた血液がまだ残っているの?」
「いいえ。私の体内から採血した分は、先の輸血でほとんど使ってしまっていて、もうあまり残されてはいない」
「それじゃあ、いったいどうやって……」
「決まっているでしょ」
 風花は開いた掌を自らの胸にやさしく当てて見せた。
「この私がもう一度自分の血を抜く。そうすれば、無駄に流されてしまったあなたの血液を、補うことくらいはできるはず」
 さも当然のように言う風花に対し、真緒は驚愕のあまり表情を歪める。
「そんなの駄目だよ。だって、蓮木さんだってもうかなりの量の血を抜いて、体調は万全じゃなくなっているはずだし。これ以上採血なんて続けたら……」
「あなたはそんな下らないことは気にしなくていいの。これは私が好き勝手に決めたことなのだから」
 しかし言葉とは裏腹に、身体の方は正直だった。まるでこれ以上血を奪わないでくれとでも訴えかけてくるかのように、全身のふらつきは治まるどころか悪化していく一方。それでも風花は強情に自分の意志を捻じ曲げようとはしない。
「なんで、どうして蓮木さんは身体を張って苦しい思いをしてまで、私なんかを助けようとしてくれるの?」
 感極まったのか、真緒はまたしても泣き出してしまった。嗚咽が混じった言葉の中には彼女の様々な感情が込められているようで、とても重みがあるように感じられる。問いかけられたその瞬間、何か胸にぐっとくるものがあった。
「私、医者になりたかったの」
「医者?」
「そう。竹倉の火災の後、長い入院生活を送っていた間、いつも私の為に尽くしてくれる女医さんに憧れてしまってね。いつか自分も彼女みたいに、人を助ける為に尽くせるような人間になりたいと思うようになった」
「まさか、蓮木さんが身につけていた医療の知識や技術は」
「その女医さんに無理を言って叩き込んでもらったわ。初めの頃は向こうも半信半疑だったみたいだけど、私の真剣な態度を身近で見続けているうちに、だんだんと色んなことを教えてくれるようになっていった。医学に関する書物なんかも、簡単なものから難しいものまで色々と貸してもらった。皮肉なことに、治療やリハビリのために病院の中で過ごした期間は長かったからね。いくらでも勉強に費やすことができたわ」
 話しているうちに、当時の記憶が次々と頭の中に蘇ってきた。医学には理解に苦しむような難しいことが多くて、自分の夢を投げ出したくなることは何度もあったけれど、今思い返せば中身の詰まった、実に充実した四年間の入院生活だったように感じられる。
「とにかく、人を助ける為に医師になると誓った以上、私はどんなことがあろうとも目の前の患者を見捨てるわけにはいかないのよ」
 自分の身体がどんなに不調でも。身体がふらつこうが、視界が揺れようが、そんなことは関係ない。
「でも……、これ以上続けたら、本当に今度は蓮木さんの身体が……」
「私のことなんてどうでもいいって言っているでしょ。力尽きてこの身が滅びようとも、絶対にあなたを生き返らせてみせる」
 急速に力を失っていっている真緒の手を優しく握り、風花は強く宣言した。


 小倉光彦(男子三番)――『死亡』

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