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−狂走兄妹(9)−

 雛乃たちが再び動き始めたちょうどその頃、熊代フミは倉庫街とコンテナ置場の境目からさほど離れていない場所で足を止め、さらには雨で濡れてしまっているコンクリートの地面の上に、べったりと座り込んでしまっていた。
 胸が激しく動悸して、その振動が僅かにでも足に伝わると、ナイフの先のように鋭い痛みが身体の中を駆け巡る。
「くそっ。なんで私がこんな目に……」
 そう、彼女もまた、白石桜が乱射した銃弾の餌食となり、重傷を負わされてしまった一人なのであった。貫かれたのは足――膝の少し下辺りだ。辛うじて骨を砕かれなかっただけ幸いだったと言うべきなのかもしれないが、いずれにしろ、こんな怪我をしていては、もはやまともに走ることなんて出来やしない。敵に追われている身として、これは非常にまずい状態であった。
 そもそも桜に襲われた時、フミはすぐに駆け出していたので、雛乃たちのようにもっと離れた場所にまで逃げることは出来るはずだった。しかし、不運にも足に銃弾を受けてしまったせいで走ることができなくなり、逃げることに必死になっていた仲間達に気付かれないまま、置いてきぼりにされてしまった。足の容態から考えて追いつくことは不可能だと判断したフミは、逃げる方角を分散させれば助かるかもしれないと考え、ゆっくり歩きながらでも雛乃たちとは別のルートをとにかく進むことにした。そして、中央の通りから少し離れたところにある袋小路に入ったところで、ついに痛みに耐え切れなくなって、地面の上に崩れてしまったのだった。
 もうこれ以上の移動は難しい。もしもこんな所でまたしても桜に襲われてしまったら、今度こそ一巻の終わりである。
 なんとか、危機を脱する方法は無いだろうか……。
 フミはピンチを切り抜けるための打開策を必死に考える。しかし、足に重傷を負っている人間が、マシンガンを構える敵の前から見事に逃げおおせるなんて、そう都合の良い方法など簡単に浮かぶはずがなかった。焦りと不安が積もり積もって冷静さを欠いてしまっている今は尚更のこと。
 駄目だ。疲れているせいなのか良案なんて全然浮かばない。なんとか血糖値を上げて、思考力を回復させないと。
 ポケットから取り出した箱を開け、急いでキャラメル一つを口の中に放り込む。甘い物好きの彼女には、考えに詰まった時は糖分を摂取するという習慣があった。だが。
「まだだ。これだけでは全然足りない。もっともっと血糖値を上げていかないと……」
 その程度の糖分を取ったところで頭の回転に決定的な違いが生じるというわけでも無いのに、フミはさらに、二つ目、三つ目、と際限なくキャラメルを箱から出し続けた。おそらく、多少混乱していたのだと思われる。結局、箱の中が空になるまで、彼女はキャラメルを口の中へと運び続けることをやめなかった。
 キャラメルという菓子は一つ一つがかなり硬かったりする。口の中いっぱいに詰まったそれらを無理矢理噛もうとして、フミは謝って自分の口の内側を深く傷つけてしまった。
 唇の端から滴る鮮血を掌で受け止めた途端、フミの目からは涙が溢れ出した。口の中の痛みに耐えられなくなったのではない。彩音が死んでしまったことに対する悲しみや、自らに死が迫るという不安。そういった数々の感情が合わさったことによって、海よりも深い思いの詰まった涙が生み出されたのだった。身体の痛みは、それが流れ出すきっかけになっただけに過ぎない。
 また、フミにとって一番ショックだったのは、自分たちを襲った人物というのが、白石桜であったということなのかもしれない。人間にも動物にも優しく接していた桜のかつての姿を知っていたから。
 桜は何故私たちを襲ったのだろうか、と、フミは千代と全く同じ疑問を頭に浮かばせる。当然だった。自ら物事を考えて行動に移すという能力が欠如してしまっている桜には、生き残りたいという意思すらも無いだろうから。クラスメートを殺す理由なんて存在していないはずなのだ。
 一瞬、あのマシンガンの人物は全くの別人で、自分が誤って桜と見間違えただけかと思った。が、それは絶対にありえないことであった。確かにレインコートに身を包まれていたせいで、姿ははっきりとは見えなかったけれど、フードの内に見え隠れしていた白髪は、白石桜のもの以外には考えられない。背丈も、彼女とちょうど同じくらいだった。
 そう、自分達を襲ったのはやはり桜。彼女がマシンガンを乱射し、彩音の命を奪って、フミの足に怪我を負わせた。これはもはや覆しようの無い事実なのであった。では、桜がああなってしまった理由とは、結局何なのだろうか。
 フミの考えはまた一歩後ろへと戻ってしまった。だが、この疑問こそいくら考えたところで答えなど浮かぶはずが無かった。フミは、桜の裏で利久が糸を引いているなんてこと、全く知らないのだから。単に不可解なこととして片付ける他に無かった。
 ああ、もう桜が何を思ったかなんか、そんなのはどうでもいい。他人が思っていることなんて分かるはずが無いんだから。それよりも、私は私の身を守ることだけを考えなきゃ駄目。
 フミは腰に挿していた脇差を鞘から抜き、銀色に光る刀身をじっと眺める。刃渡りおよそ四十センチの小刀は、リーチが短いためか一見すると頼りなく感じられたが、こうやって刃先に近づいて見ていると、なかなかに迫力を感じさせてくれた。そりゃあそうだ。いくら短くても刀は刀なのだから。ただ、マシンガンに対抗できるかどうかと言えば、首を傾げたくなるような代物でもあった。
 でも、接近戦に持ち込みさえすれば、勝てる可能性もあるかもしれない。
 フミは思った。自分が今いるのはコンテナに周りを囲まれた袋小路。そして、ここへと続く道は一本のみ。敵がやってくるとしたら、まさにフミが通ってきた道筋を辿る他には無い。そう、敵はどの方角からやってくるのか、最初から分かっているのだ。地面に点々と続いている血痕を伝ってこの場へとやってきた敵が、角を曲がろうとコンテナの裏から身を覗かせるその瞬間、上手く急所に脇差を刺してやることができれば、こちらにも十分に勝算がある。そうだ。もう相手が桜であろうと関係ない。私を殺そうと近づいてくる者は皆、逆にこっちが殺してやる。
 刀身に水玉を滴らせる脇差を強く握り締める。その時、何やら嫌な気配が迫ってきているのを、フミは感じた。桜が近づいてきているのだ、と、直感的に思う。
 自分の考えた筋書き通りに事が進むのを祈りつつ、角へと移動してコンテナに背中を密着させる。さっきも言ったが、ここは袋小路。敵が姿を現すとすれば、こっちの方角以外には考えられないのだ。あとは自慢の武器を手に悠々と相手が姿を見せた瞬間、コンテナの裏から飛び出して急所に刃先を突き立ててやればこちらの勝ち。足の痛みのせいで身体の動きが鈍ってしまうという心配はあるが、ほんの一瞬のことだし、何とか耐えてみせる自信はある。
 相手は気配を殺そうと移動には細心の注意を払っているようで、足音なんかは全く聞こえてこなかった。しかし、人がだんだんと近づいてきているのは確かだ。上手く言葉では説明できないけれど、なんとなく、感覚的に分かるのだ。
 相手との距離はもう、ほんの数メートルしか無いだろう。相手と自分を隔てているのは、もはや背後のコンテナ一つのみ。緊張が走る中、フミは心の中でカウントダウンを開始する。
 五……、四……、三……。
 手に滲み出す汗をキュロットスカートで拭き取り、脇差をしっかりと握り直す。生死を分ける運命の一瞬はもう目の前だった。
 二……、一……。
 激痛に耐えながら、足に思いっきり力を入れて飛び出そうとするフミ。しかし、何故か相手は姿を現さない。おかしい。気配はもうすぐ側に感じられるというのに、肝心な人の方が見えないというのはどういうことなのだろうか。まさか、相手は透明人間なのでは無いだろうか、と、馬鹿馬鹿しいことを考えてしまっても仕方がないような状態。
 耐えられなくなって、フミは自分からコンテナの端から顔を覗かせ、角の向こうに人がいるのかどうかを確認した。だが、やはり誰の姿も見られない。
 単なる気のせいだったのだろうか。
 せっかく固めた決心が無駄なものになってしまったのは残念だったが、正直、フミは誰もいなかったことに少し安心していた。
 危険が迫っているというのは、単純に自らの思い過ごしに過ぎなかった。そう考えてほっと一息吐く。だが、何気にコンテナの上へと目を向けて、驚愕した。桜はいた。コンテナの上に。死神の装束に似た黒いレインコートを羽織った彼女は、全く感情の篭っていない表情で、ぼんやりとこちらを見下ろしている。だが、手に持ったスコーピオ・ンサブマシンガンの銃口は、間違いなくこちらへと向いていた。


 手から落ちた脇差が、地面とぶつかって硬い金属の音を鳴り響かせる。
「うわぁぁぁぁぁっ!」
 逃げる余裕なんてあるはずが無かった。次の瞬間には、サブマシンガンの銃口から飛び出した何発もの銃弾があちこちを貫き、フミの身体のあらゆる機能を停止させてしまったから。
 何を考えているのかも分からないような、まるでロボットのような無表情。フミはそれを見て最後に思った。

 白石桜には、殺人を犯すことに理由なんて無かった。彼女は単に、死神の衣を着た殺人機械へと成り果ててしまっていただけだった――。


 熊代フミ(女子六番)――『死亡』

【残り 十四人】
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