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−狂走兄妹(2)−

 レーダーのおかげで敵との遭遇は確実に避けられるとはいえ、真っ暗な森林の中で辺りの様子を伺いもせず走り続けていれば、心のどこかで不安を感じないわけにはいかなかった。まだ人類の知能がさほど発達していなかった頃の、肉食獣の存在を恐れつつ森林の中で生活していたという太古の記憶が、自分の中にもいくらか残されているのかもしれない。
 慣れない山の中を休みなく移動し続けてきたせいで、足はとっくに疲れ切ってしまっている。鉄パイプ一本しか持ち歩いていない今でさえもこんなに体力の消耗が激しいのだから、さらに何キロもの肥料の袋を抱えて歩かなければならない帰りなんて、力尽きてその果てに倒れてしまうのではないだろうか、と心配になる。
 俯き加減になっていた春日千秋(女子三番)は、額を伝う水玉を袖で拭ってから顔を上げた。すると、先ほどまで狭まっていたはずの視界がいつの間にか大きく開けていた。無数の木々が乱立する森林を、ようやく抜けたのであった。目の前には緩やかな下り坂が伸びており、その先に畑らしき土地が大きく広がっている。闇夜の暗さのせいで何が育てられているのかは分からない。なんにしろ、目指していた農村地帯に到着したというのは確かなので、目的地にたどり着けるかどうかを心配していた千秋は、正直言ってかなりほっとした。
「早速どこかの家か倉庫の中に入るとしよう。これだけ広い農村地なら、かなりの量の硝酸アンモニウムがどこかに蓄えられているはずだ」
 比田圭吾(男子十七番)が言った。建物の中に入ろうと提案したのは、雨から逃れたいという思いからではなく、屋内でしっかりと保存されていて、雨に濡らされていない硝酸アンモニウムを探し出すためであろう。湿気を含んだものは、爆弾作りには不向きだと思われる。
 二人は早速斜面を駆け下り、遠くに見える一件の農家を目指して、畑の中を突っ切ろうとした。だが、畑に近寄って初めて鮮明になったその場の光景を見て、千秋はつい尻込みしてしまう。斜面の上からぼんやりと見えていた植物は、人の手によって育てられた作物なんかではなく、所狭しとひしめく雑草の群れなのであった。畑が手入れされなくなって長い年月が経過してしまっているのだろうか、荒れた土地に伸びるそれらはどれも背が高く、そのほとんどが千秋の身長を上回るほどにまで成長してしまっている。
「ねぇ、本当にこの中を通るの?」
 千秋は愚問だと分かっていながら、既に草を掻き分けて畑の中を進もうとしている圭吾に向かって聞いてしまった。畑の酷い有様は見るからに、人が通るには大変そうであった。
「ここでなければいったい何処を通るつもりだ?」
 千秋は答えられない。あぜ道も含め辺り一帯が背の高い雑草に支配されている状況を見ていると、何処を通ろうが大変さはあまり変わらなさそうだったから。もちろん農家へと続くちゃんとした道もどこかにあるのだろうけど、やはり幅をきかせる雑草たちに視界を阻まれてここからでは確認できない。
「嫌ならお前一人で引き返すか?」
「ば、馬鹿言わないで。ここまで来たらもうヤケよ」
 軽い意地悪に強気で抗い、圭吾の後に続いて草を掻き分けつつ歩き始める千秋。しかし、次々と肌に張り付いてくる濡れた葉の感触は思った以上に気持ち悪く、一度勢いよく燃え上がった闘志も、すぐに削がれていってしまいそうだった。真緒たちと一緒に生きて帰るのだという強い希望と気力のおかげで、なんとか任務を遂行する気を失わぬよう持ちこたえはしたが、それにしてもこの酷い状況はなんとかならないものかと切実に思わずにはいられなかった。
 畑の中は森林内よりもさらに視界が悪い。というより、自分よりも背の高い雑草たちに四方八方を囲まれているせいで、数十センチ先もまともに見られない状況だった。圭吾の位置も草を掻き分ける音で判断できる程度で、うかうかしていると今度こそ置いてきぼりにされてしまいそうである。そのため、千秋はさらに必死になって前に進まなければならなかった。
 ふと、ももの辺りにチクリとした感触を覚え、すぐに足の方へと目を向けた。深いグレーのソックスには黒く細長い物体がびっしりとくっついている。センダグサの種子だ。細い独特の形状の先に小さな棘がついていて、よくフリースやニット素材の衣服などにくっついてくるという厄介な存在である。よく使われる言い方では「ひっつき虫の一種」と片付けることができる。
 多種多様な雑草たちがひしめいているこの空間内には、センダグサの他にも数多くのひっつき虫が存在している可能性が高い。千秋は畑を抜けたときに全身にどれだけのひっつき虫の姿が見られるのかと思うと、ぞっとしてしまった。一つ一つ取り払っていくとなると、どれだけ時間がかかってしまうことだろう。
「あと少しだ」
 前で圭吾が呟いた。千秋は早くこんなところから出たいという一心で、草を掻き分ける平泳ぎに似た動作を早める。すると、掌が茎にも葉にも触れずに宙をかくという瞬間が程なくして訪れた。草木生茂る畑の端についに到着したのである。
 息苦しさに耐えかねて、急いで畑の中から飛び出る。植物達の密集地から開放された途端、久しぶりに新鮮な空気を吸えたような気がした。
「とりあえずそこの民家の中に入るぞ」
 圭吾が指差す先には一件の建物の姿が見られる。藁葺き屋根を乗せた古いデザインの建物で、古来より伝わる農家といった雰囲気を漂わせていた。千秋はとりあえず雨から逃れるために屋根のあるところに入りたかったので、圭吾に続いてすぐにそちらへと駆け出した。
 木製の引き戸には鍵がかかっていなかったらしく、軽く引いただけで簡単に開いた。二人はなだれ込むようにして中に入る。
 外観から囲炉裏のある内装を勝手に思い浮かべていたが、意外と中は普通の民家と何ら変わりなかった。コンクリートの中に玉砂利を埋め込んだ玄関の先には、フローリングの廊下と二階へと続く階段が見られ、松竹梅が鮮やかに描かれた襖がこちらの空間と部屋を隔てている。
 遠慮無しに土足のまま中へと踏み込んでいく圭吾を見て少し焦ったが、今はそんなことを気にしている場合では無いと自分に言い聞かせ、千秋もまた靴を脱がずに民家の中へと入った。常識に反した初めての体験に僅かながらにも罪悪感を覚えたので、顔も知らない家主に向かって心の中で謝ることにする。「ごめんなさい。失礼ですが土足のままお邪魔させていただきます」、と。
 レーダーのおかげで民家の中には誰もいないと分かっているせいなのか、圭吾はかなり堂々と建物の中を探っていた。襖を開けてとある部屋の中に入っていったかと思うと、押入れや戸棚なんかを乱暴に開いて目的の物を探すのである。
 その間、千秋は身体中に張り付いているひっつき虫たちと格闘し続ける。くっついていたのはやはりセンダグサの種子だけではなく、マメ科の植物アレチヌスビトハギの三角形の果実もが、ワイシャツの腰の辺りに沢山見られた。それらを一つ一つ指先でつまみ取っては、和室の隅にあったゴミ箱の中に放り込んでいく。だが、「どうせまた帰りに同じ所を通るのだから、今それらを全部取り除いたところで無駄になるだけだ」と圭吾に言われて、「確かに」と納得し、すぐにそれを中断した。身体中に植物の種をひっつけた間抜けな姿のままでいるというのは少し嫌だけど、面倒な作業は一度にまとめて行なったほうが良いと考え、とりあえず今は頭や肩の上についた植物の葉を軽く払う程度に済ませることにしたのだった。ひっつき虫の相手をするのは、今回の任務を終えてからでよいだろう。
 和室を調べ終えた圭吾は、次に廊下の突き当たりにある戸を開いて中へと入っていった。
「おい春日、ちょっと来てくれ」
 呼ばれた千秋もすぐに同じところへと向かう。そこは正面玄関から見てちょうど裏手にある空間で、中には一台の乗用車が停められていた。表から民家に入った二人は今まで気付いていなかったが、この建物の隣にはガレージが隣接していて、一枚の扉で内部同士が繋がっていたらしい。
「どうしたの?」
 ガレージに入った千秋が声をかけると、圭吾は黙ったまま顎の先で空間の隅を指した。土嚢によく似た袋が十以上積み上げられており、その表面にはしっかりと『硝酸アンモニウム』と書かれていた。

【残り 十六人】
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