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−旅立ちの試練(5)−

 紅月――。それは人を斬るだけのために創造された芸術作品であり、過去に幾多もの辻斬り事件を引き起こしてきた妖刀でもあった。
 一度紅月を手にしてしまった者は、美しく光り輝く刀身に魅了されて、決まってその切れ味をしかと体感してみたいという誘惑に耐えられなくなる。そうなってしまっては最後、紅月に魅了されし者は衝動に駆られるがままに人を殺め、さらには自らも破滅への道筋を辿ることになるのだという。
 はたしてその言い伝えが事実であるのかどうかは定かではないが、もしも本当ならば、それは大変恐ろしいことだと言えるだろう。
 そして今、新たに紅月の使用者となった比田圭吾は、全身から殺気を漲らせながら、対面するか弱き少女に向かって容赦なくその鋭利な刃を向けている。
 まさか圭吾もまた紅月に心を支配されてしまったのだろうか、と思わずにはいられない状況。しかし実際はそうではなく、彼はあくまでも自らの意思で動いている。
 仲間であったはずの者に見限られ、意識的に殺意を向けられるというのは、妖刀の力なんかよりも数段恐ろしかった。そうなってしまう原因を作ったのが自分であったとしてもだ。
「3……、2……」
 ゆっくりとしたカウントが続く短い間に、千秋の中で二つの考えが葛藤する。潔く圭吾に従って崩れかけた関係を立て直し、喉元へと向けられた紅月の突先を下げてもらうか。死の恐怖に屈することなく、最後まで自らの信念を貫き通すか。
 二つのうちどちらを選ぶか、悩んでいる時間なんて無い。
「1……、0」
 そしてついに時間切れ。結局千秋は圭吾に道を開けたのかというと――、開けなかった。人間の命なんてのはいつか必ず尽きるものであるが、大切な物を守り抜いて死ぬのと、それが出来ないまま全てを終らせてしまうのでは全く違う。どんな恐怖が眼前に立ちはだかっていようとも、それは千秋にとって親友の手を離さなければならない理由になんて、絶対になり得なかったのである。
 それに、もしもこの程度の圧力に負けてしまうようであれば、自らの手で真緒を救い出したいなんて思いはこの先ずっと通用しはしないだろう。
「時間だ。覚悟は出来ているだろうな」
 圭吾は力強く真剣を構えたまま、少しずつ間合いを詰め始めた。精神統一された彼のすり足は、音のよく響く病院内であってもほとんど無音。それがまたなんとも威圧的に感じられた。
 緊張のあまり、モップの柄を握る千秋の手に汗が滲む。
 紅月の突先をこちらの喉元へと向ける圭吾の目つきは、相変わらず冗談などではない。彼が放つ殺意は真剣そのものだ。
 このままではやられる。
 本能が危険信号を発し始めるも、身体中に覆い被さってくる殺気に身を固めてしまった千秋に身構える暇などは無かった。瞬きをしたほんの一瞬の隙に大きく踏み出した圭吾は、血に飢えた刃を大きく振りかぶっていたのである。
 千秋はとっさに一歩退いて、襲い来るそれを回避しようと試みた。そのとき、総合受付フロアに並ぶイスに足を払われ、後方へと豪快にすっ転んだ。そのおかげで最初の一撃は躱すことが出来たのだが、安心している暇などは無い。相手の猛攻は止まることなく、すぐに第二撃目が向かってくるからだ。


 急いで「持っていた武器」で食い止めようとするが、モップの柄と刀ではまるで勝負にならない。紅月の刃を受け止めようとしたモップの柄は簡単に真ん中ですっぱりと割れ、その上半分が床の上をカラカラと転がった。
「ひっ」
 千秋は悲鳴に近い短い声を洩らした。そして地面に身体を引きずりながら急いで後退する。
 身体的にも武器の能力的にも圧倒的に勝っているというのに、圭吾には加減する様子なんて全く見られないのだった。ライオンはウサギを狩るのにも全力を尽くすとよく言うが、彼の場合も全く同じ。というか、そもそも圭吾には手加減するなんて器用な真似はできなさそうである。
 いずれにしろ、マズイ状況には変わりなかった。さらなる攻撃を恐れた千秋は、もはや長ネギほどの長さになってしまった役立たずの棒切れを捨て、立ち上がってもう一歩後ろに下がろうとする。しかしその行動は先読みされていたのか、千秋が攻撃射程外へと逃れるよりも前に、圭吾はこちらの懐へと身を滑り込ませていた。
 身体を捻って太刀を振りかぶる彼。
「終りだな」
 言って、血が欲しいと喚くかのごとく刀身をギラギラと光らせている紅月を、勢いよく薙いだ。その一連の動作はとても素早くて、アクション映画かなにかの主人公であっても回避するのは不可能だろうと思わされるほどだった。
「あっ」
 千秋はまた短い声を上げ、激痛が走る腹部を押さえながらその場に崩れた。成すすべなく驚愕の表情を浮かべていた彼女の身体に、紅月の刀身が一瞬にして潜り込んだのだ。
 斬られた? 斬られた? 私、本当に斬られたの?
 痛みとショックで立ち上がれないでいる千秋は、たった今自分の身に起こったことを必死に整理しようとするが、なかなか頭の中はまとまらない。
 しかし妙だ。確かに腹部には攻撃された際の痛みが走っているが、どうも斬撃によるそれとは違っているようで、どちらかというと打撃による痛みに近い。
「安心しろ、峰打ちだ。死にゃしない」
 圭吾が太刀を腰の鞘の中に戻しながら言った。峰打ちとは、刀の峰――要するに刃のついていないところで相手の身体を打つ、ということ。
 千秋は床の上に両膝をついたまま、腹部を押さえていた手を離して見る。すると確かに血なんて一滴もついていなかった。もちろん衣服にも切られた部分なんて見当たらない。紅月の刀身が千秋の身体に触れる寸前、圭吾は刃の向きを素早く反対方向に返していたのである。
「今回は相手が俺だったからよかった。だが、クラスメートの命なんて何とも思っていないという者が、きっと外には何人もいる。そんな危ないところにわざわざお前まで出て行く必要は無い。全て俺に任せておけ」
 彼には初めから仲間を斬るつもりなんて無く、無謀な行動を起こそうとする千秋をただ止めたかっただけなのだろう。
 僅かにずれたファッショングラスを人差し指で持ち上げながら、圭吾は再び歩き出した。
「道は通してもらうぞ」
 床に跪いている少女の横を悠々と通過しようとする。
 仲間のことを大切に思う彼の気持ちは痛いほどによく分かった。それを無駄にしないためにもここは素直に従うというのが、きっと礼儀としては最も正しいのであろう。しかし、いくら仲間を想う彼の気持ちが大きくても、親友に対する千秋の気持ちがそれに相殺されたりはしなかった。
 痛みを堪え、千秋が腹部を押さえながらよろよろと立ち上がると、その気配を察知した圭吾は、また歩を止めて振り返った。
「まだ邪魔する気なのか」
「あ……当たり前でしょ。あたしは真緒のためなら死力を尽くすって決めたんだから」
 もう一度圭吾が刀を抜けば、千秋はきっとまた痛い思いをすることとなるだろう。しかし、もうそんなことを恐れてもいられない。
「本気なんだな?」
「ええ、もちろん」
 親友のためならこの命、惜しむことなく捧げる覚悟はできている。
「そうか……、よく分かった」
 圭吾の更なる猛攻を予感し、千秋はとっさに身構えた。再び峰打ちがくるのか。それともまた別の方法で、立ち上がれなくなるまで痛めつけられるのか。どっちもありえないことではない。
 ところがどうしたことか、いつまで経っても圭吾が紅月に手を伸ばす様子は無く、それどころかこちらに向かって来もしない。全く訳が分からなかった。
「どうしたの。行く手を邪魔する私を沈めなきゃならないんじゃなかったの?」
 耐え切れなくなって千秋は聞いた。すると圭吾はこちらの顔を見据えつつ、への字に曲がった口を開いた。
「お前の真剣さは理解できた。軽い気持ちで同行するなんて言っていたわけじゃないんだな」
「あ、あたりまえでしょう」
 今までずっとそう言ってきたではないか。いったいこの男はいきなり何を言い出すのだ。
 千秋が怪訝な顔をしていると、圭吾は突然意外なことを口にした。
「仕方がない。来たかったら勝手についてこい」
「えっ?」
 それはつまり、爆弾の材料調達に同行するのを許してくれるということだろうか。
「ただし、邪魔になるようなら、俺は容赦なくお前を置いて行くことになる。覚悟しておけ」
「う、うん。ありがとう」
 あまりの急展開に声が上擦ってしまった。
「それならお前もさっさと用を済まして出発に整えろ。時間は無いんだからな」
 そう言って彼は千秋に背を向け、そのまま階段を登っていってしまった。
 もしかして、今までのって全部、私を試すための演技だったのだろうか。
 千秋は首をかしげながら一瞬そんなことを考えたが、これがもしも演技だったとしたらあまりに臭すぎる。彼はテストするつもりなんて初めは無かったが、結果的に千秋の意志の強さを知り、同行を許すことになってしまった、というほうが自然だろう。
 なんにしろ、意志とは最後まで貫き通してみて損は無いものだな、と、千秋はこのとき切実に思った。

【残り 十八人】
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