122


 岩壁の表面はごつごつとしており、手足をかけることが可能な個所が所々にあったため、一人の人間がここを下るなど、不可能なことではない。むしろロッククライマーなどにとっては、この程度の岩肌の上り下りなど、準備運動程度にしかならないのかもしれない。しかし、雅史にとっては、この程度の岩肌でさえも驚異的に感じられる。
 視線を下に向けると、今もまだ木の枝に食らいつき、そこからぶら下がったままの直美がいる。そしてさらにその数十メートル下には、雅史たちが落ちてくるのを待ちかねているかのように、大きく開いた口から牙をむき出しているようにすら見える岩だらけの地面の姿。
 もしここで足を踏み外し、落下するという事態を招いたならば、主に岩で形成されている固き地面の力によって、雅史たちの体は木っ端微塵にまで砕かれるであろう。そうならぬよう、雅史は神経を研ぎ澄まし、慎重にゆっくりと下らなければならなかった。
 岩壁はたくさんの岩の集まりによって形作られたものではなく、たった一つの巨大な岩が雨風によって削られてできた、一枚板のようなものであった。切り立った岩の表面には、長い年月をかけて積もりに積もった土が固まり、そして何十もの層を作り出しているのが確認できる。
 これほどまでに巨大な岩が作り出されるには、いったい何千年、いや、何万年の時を費やしたのだろうか。
 そんな些細なことを頭の片隅で考える余裕もなく、雅史は無心となって、何万年もの歴史を踏みしめながら、垂直に近きその急斜面をただ慎重に下ることのみに勤しんだ。
 手足をかけられる個所が多かったことは幸いだったが、数時間前まで降っていた雨によって濡らされていた岩壁は、いつでも滑り落ちてしまいそうな恐怖感を与えてくれて、とても不安だった。
 岩肌を下り始める前に、自らの足手まといになりそうな革靴は脱ぎ捨ててきたは良いが、それでもやはり慣れぬ行動はすんなりとはいかない。ほんの数センチ進むのにも、思う以上の時間を要してしまう。そんな効率の悪い移動に、雅史はだんだんと苛立ちを感じ始める。
 もはやあと数センチ手を長く伸ばすことができれば、直美の腕を掴まえることもできようという所にまで来ている。しかし、その数センチという短き距離が、まさに切り立った崖のごとき壁となって雅史に襲い掛かってきた。
 くそっ! あとちょっとで手が届きそうなのに。
 すでに目と鼻の先にまで近づいている直美へ向けて、「もうすぐ助けるからな」と声をかける。一方、直美の側も、すでに近くまで迫ってきている雅史の姿を見て安心したのか、恐ろしさによって引き起こされていた叫び声も、もはや口から吐き出すことはなかった。
 雅史は右足の下、十センチほど下がった場所に、岩の突き出た部分があるのを確認。次はここに足をかければ、何とか安全に下りることができそうだった。
 左足に力を込めつつ、今まで乗せていた岩から右足を離すと、ゆっくりと目標の出っ張りへと下ろす。そして慎重にそこへ足を下ろし、自らの体重で崩れはしないと確認した後、左足に任せていた体重の半分を、ようやくそちらへと戻し、体制を整えた。
 十センチ……短いようで長い。少なくとも、今の雅史にはそう感じられる距離だった。そして、そのたった十センチという距離を前進できたことは、絶望的状況の中では、かすかな喜びであるかのようにすら感じられた。
 再び直美の方を見下ろす雅史。そして思った。
 今なら手を伸ばせば届く。
 傍らに生えていた太く頑丈そうな木の枝に左手をかけて、身体の全バランスを託す。そして両足の安定を確認した後、岩肌の出っ張りを握り締めていた右手をゆっくりと離した。さらに、膝を曲げながら下へ下へと体重移動をしつつ、その右手をだんだんと直美へと伸ばしていった。
 ここでの体重移動を失敗すれば、雅史の身体はたちまち眼下の岩の地面へと引き寄せられ、そしてすべての終わりが訪れることとなる。そうならないためにも、ここは今まで以上に慎重にならなければならない。
 うまく体重のバランスを安定させつつ、眼下に伸ばした手で直美を掴み、そして引き上げよう。そう考えていた矢先、事態は最悪の展開を迎えた。
 雅史の助けを待ち続けながら、必死で木の枝に掴まっていた直美。しかし、彼女が掴まっていた枝そのものに、ついに限界が訪れたらしく、みしみしという音をいっそう荒げながら、枝が一気にしなり始めたのだ。亀裂が入った枝はもはや崩壊直前であり、とても人間一人の体重を支えきる事など不可能であった。
 間に合わない!
 焦った雅史は勢いよく手をのばした。もはやゆっくり慎重に助け出す猶予など残されていなかったのだ。そして雅史の手が直美の手を掴みかけたその瞬間、ついに枝がバキバキと音をたてながら折れ、直美を奈落の底へと突き落とそうとした。
 空中に浮いていた直美を、大地と繋ぎとめていた唯一の存在であった枝が崩壊し、彼女の身体はふっと宙を舞った。そしてその直後には急降下を開始……するはずであった。しかし、それが実現するよりも一瞬早く、雅史は何とか彼女の手の甲を掴むことに成功し、その急降下もなんとか事前に食い止めることを成功させた。
 万が一、雅史が最後まで意を決して急ぐことなく、慎重な行動をし続けていたならば、彼女は今頃岩の斜面に身体を打ちつけ、その全身を砕かれながら転がり続け、死に至らしめられていたことだろう。想像するだけで冷や汗が出た。


 しかし、ようやく直美の腕を掴んだと言って、まだこの絶望的状況に変わりはない。なぜならば、今度はこれまでに下ってきたこの急な崖を、女の子一人を引き連れて上りきらなければならないのだ。
 下を見なくても良い分、下りよりも上りの方が恐怖感は薄れるかもしれない。しかし、やはり人間一人を引っぱり上げながら、この切り立った急斜面を上りきるなど容易な事ではない。しかし、ここで諦めてしまえば全てが終わる。選択肢など残されていない。雅史に残された道はたった一つ。直美の手を掴んだまま、この崖を上りきること。
 しかしそれも可能だとは言いがたい。直美を引き上げる為に、右手一本が彼女の手を掴んでいるこの状態で崖を上るには、残された両足と左手のみで岩にしがみついていなければならないのだ。はたして、そのような状態で、ここから脱出することなど出来るのだろうか。
 試しに雅史は枝を掴んでいた左手を頭上へと伸ばしてみようとするが、その手が身体を支えなくなった瞬間、自らの身体が後方へと傾きそうになるのに気づき、すぐさまその手を元掴んでいた枝へと急いで戻す。そう、この急な崖を片手が使えない状態で上るなど、初めから不可能だったのだ。ましてや、今は自らの体重に直美の重みまで加わった状態であり、攻略難易度はさらなる上昇を極めている。こんな絶望的状況の打開策は存在するのであろうか。
 雅史は必死になって考えた。直美を助ける為に右手が不能となったこの状態、腕一本足二本だけで急な崖を上りきる方法を。
 突如、雅史の左腕に激痛が走った。枝を掴んでいる方の二の腕部分。二人分の体重を支えていたという無理が祟ったのか、かつて坪倉武によってシャープペンシルを突き立てられた傷口が開いてしまったようだった。
 時間と共に流れ始めた流血によって、雅史の学ランの表面に黒い染みが広がりだした。
 焦りと痛みによって思考が働かない雅史。しかし、それでも彼は諦めず、ここから脱出する為の方法を考える。
 “雅史が助かる為の方法”ならたった一つだけある。しかし、それだけは絶対に決断してならぬ選択であり、雅史はそんなことを考えたくもなかった。なにより、その決断を選択してしまえば、自らがここまで下ってきた苦労が全て意味のないものへと変わってしまう。これだけは、どうしても避けなければならない決断であった。
「ねぇ、もういいよ名城君……」
 どこからか聞こえてきたその声。それに気づいた雅史がふと下を見ると、目に涙を浮かべた直美の姿があった。
「……その手を離して……そうすれば、名城君だけは助かるかもしれない……だから、その手を離して」
 雅史は驚いた。なぜならば、直美が放った今の言葉が、まさに先ほど心の奥底で浮かんでいた、雅史のみが助かる為の方法を示していたからだ。
「何を言ってるんだ石川! 俺は絶対に諦めないぞ!」
 その選択肢を目の前からかき消そうとするかのように、雅史は必要以上の大声を出して、その意見を否定した。しかし決心の色を浮かべていた直美の目の色が変わることはなく、雅史の手を掴み返していた彼女の手の力は一気に弱まった。それに気づいた雅史は急いで、彼女の手を掴んでいる腕の力を増幅させるが、この辛い体制で、それをいつまで保ち続ける事が出来るだろうか。
「お願い……名城君のために……私を死なせて。だって……私……」
 彼女はまだ何かを言おうとしていたが、それもすぐに嗚咽へと変わってしまい、雅史には何を言っているのか理解する事は出来なかった。
 とにかく、このまま手を離してなるかと、その一心で、雅史は何とかこの状況を持ちこたえようとした。しかし、限界が近づいていた彼の身体では、その状態をいつまでも継続し続ける事はやはり不可能である。このままではジリ貧だ。
 ダメだ! このままじゃ……。
 雅史の意に反し、限界に達した体力が手の力を緩めようとした瞬間だった。頭上から聞こえてきた男の声に気づき、雅史はそちらへと視線を向けた。
「大丈夫か二人とも!」
 その声の主は、なんと須王と戦っていたはずの大樹であった。まさか、雅史が直美の救出に向かっている間に決着がついたのだろうか。
 大樹が「これに掴まれ」と言いつつ、上から長いロープを垂らしてきた。そしてその先端が雅史の横にきた瞬間、枝を掴んでいた左手を急いでそちらへと移し、絶対に離さぬようがっしりと掴んだ。
「絶対に手を離すんじゃねぇぞ!」
 大樹は雅史がロープを掴んだのを確認すると、一気にそれを引っ張って引上げ作業を開始した。
 雅史は腕一本で、二人分の体重を支え続けるが、傷の痛みと全体重を支え続けた疲れにより、引き上げられるまでの短い時間ですら、耐え切れぬほどの長き時のように感じた。しかし、必死にそれを耐え抜き、彼らはついに地獄から開放された。
 大樹の腕力によって、二人の体重がぶら下がっていたロープはみるみるうちに引き上げられ、ようやく平坦な地面の上に足を着けることが出来た雅史達。
「た……助かったぁ」
 その顔には安堵の笑みが浮かんでいた。


【残り 6人】




トップへ戻る   BRトップへ戻る   121へ戻る   123へ進む

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送