123 大樹の助けがあったおかげで、絶望的なほどの急斜面を誇る断崖絶壁からの脱出を達成し、生きて再び平坦な地面の上に足を着けることが出来た雅史達。安心したせいか、全身の力が一気に抜け落ち、二人ともが地面に手を着いて大きく息を吸っていた。 岩の隙間から伸びた木の枝に掴まり、断崖からぶら下がっていたあの時は、恐ろしさのあまり、生きた心地がしなかった。そのため、雅史には、空気を吸った事自体が、本当に久し振りであるように感じられた。 全身の力を抜き、大きく息を吸って吐いてを繰り返している雅史達。そんな彼らを助けた当の本人、剣崎大樹も安心した表情で、二人の様子を見下ろしていた。 「ところでさ……お前。あんなロープ……いったい何処から見つけてきたんだ?」 雅史は呼吸を荒げたまま、大樹に聞いた。まだ手足を地面から離せずにいる彼、もしかしたら断崖絶壁の恐ろしさのあまり、平坦な地面から手を離すことが不安なのかもしれない。 「ああ、あれはお前と合流するよりも前に、ある民家の側を通りかかった時に見つけた物なんだ。何かに役立つかもしれないと思って、失礼だが勝手に拝借してきたわけだ。まさか、こんな形で役立つとは思ってもいなかったがな」 「そうか……」 大樹の返答を聞いた頃、雅史はようやく地面から手を離し、立ち上がって、もう一人の生還者、直美の方へと歩み寄った。 まだ立ち上がることが出来ずにいた彼女は、ずっと顔を地面に向けたままである。 直美に近寄った雅史は、彼女の側に屈み込み、そしてその背中をぽんぽんと叩いた。 「もう大丈夫だよ石川。俺たち、生きてあの崖から這い上がる事が出来たんだ。なあ、いつまでもそうしてないで、顔を上げなよ」 優しい声で呼びかけた雅史は、直美が顔を上げようとするのをじっと待った。 彼女は今、どんな表情をしているのだろう。さっきまでの体験がまだ尾を引き、その恐さに顔を歪めているのだろうか。それとも、そんな絶望的な状況から脱することが出来た嬉しさに、喜びが溢れた笑顔を浮かべているのだろうか。 そんなくだらない事を考えていた。しかし、彼女が顔を上げた瞬間、雅史はほんの少し驚く事となった。 崖を転がった際に、汚され、傷付けられたその顔に驚いたとか、そんな事では無い。何故今まで気がつかなかったのだろう。 「い、石川……、お前……眼鏡は……?」 いつも顔の上にあったはずのそれが消失している彼女の姿は、不自然な光景であるかのように感じられた。実は、雅史は先ほどからずっと何らかの違和感を感じていたのだが、その正体が分からずにいた。しかし、今ようやくその謎が解けた。 「崖から突き落とされた時に……、落としちゃったみたい……」 雅史はそれを聞いて、すぐさま崖の淵へと近寄り、そこから下を見下ろして、彼女の眼鏡がどこかにないかと探ってみるが、やはりその姿を見つけることは出来なかった。おそらく、今はもう遥か下にまで落ちてしまっているのだろう。 眩暈がしそうなほど高い崖の上から、遥か下を見下ろす事に恐怖を感じた雅史は、耐え切れず後ろへと跳び戻った。先ほどの救出劇を展開した際に感じた恐ろしさが、ある種のトラウマのようなものになってしまっているのかもしれない。 「だ、大丈夫なのかよ?」 「うん、大丈夫だと思う……。眼鏡がないと、ほとんど何も見えないけど……」 雅史の問いかけにそう返した直美。しかし、何も見えなくて大丈夫なはずが無い。強がってはいるが、彼女はきっと不安で仕方がないはずだ。それでも、少しでも雅史達の足を引っ張らぬよう芝居をしている。そんな彼女の様子を見ると、なんだか胸が痛く感じられた。 突如、大樹がどこかへと向かって、ゆっくりと歩みだした。それに気づいた雅史は「何処へ行くんだ」と問い掛ける。すると、大樹はある一方に手をのばして、まっすぐそちらを指差した。 雅史は大樹が指差す方向へと視線を移す。すると、そこでまた雅史は驚くべき光景を目にした。 ほんの十数メートルほど向こうの平地の上に、ばったりと倒れこんでいる男の身体。長い髪を泥だらけの地面の上に広げ、火傷の跡といくつかの傷痕で彩られた顔を天に向けたまま、ピクリとも動かない男。それは間違いなく、直美を崖から突き落とし、雅史達を恐怖の渦へと追いやった張本人、須王拓磨であった。 彼は倒れたまま、なぜ身動きすらしないのだろうか。その問いの答えは聞くまでもなく、一目瞭然であった。 倒れた須王の左胸部から真っ直ぐに伸びている、何かの柄。それは紛れもなく、剣崎大樹に支給された武器、アイスピックのものであった。おそらく、大樹との戦闘の末に、とどめとして突き刺されたのだろう。突き刺さった箇所は、明らかに心臓がある部分のど真ん中。生死を確認するまでもない。 「ちょっと、あれ引き抜いてくるわ」 大樹が言う“あれ”とは、おそらくアイスピックのことであろう。戦闘中は多少我を忘れていた大樹も、勝利を我が物にした瞬間、アイスピックを引き抜く時間を惜しんでまで、雅史たちの救出へと向かってくれた。そういうことだったのだろうか。 「ねぇ……あれ何?」 今度は雅史の背後で直美が声を出した。そして彼女が指差す方向にあるのは……新城忍の頭であった。 須王が襲撃してきた直後、一瞬にして崖から突き落とされていた彼女は知らなかったのだ。忍を殺したのは須王であったことも、殺された後に首を切り落とされた忍の姿も。そして、今ようやくその光景を目にした彼女だったが、眼鏡を失った今は、その頭が何なのかすら分かっていない様子だった。 直美は忍の頭へと向かって、ゆっくりと近づき始めた。雅史は急いで彼女を止めようと試みる。直美が忍の生首を見てしまえば、彼女の悲しみが再び表へと這い出てくる事は明確であったからだ。直美が悲しむ姿は、もう二度と見たくない。そう思った雅史は、直美に忍の変わり果てた姿は、絶対に見せてなるものかと思ったのだった。 しかし、止めようとする雅史の手を振りほどき、直美は忍の頭へと行き着いてしまった。 「……あ……ああ……」 眼鏡を無くした彼女であろうとも、さすがにこれだけ近寄れば、それが何であるのかを理解してしまったようだった。そして、変わり果てた親友の頭部へと手を伸ばし、ゆっくりとその頬に触れた。温かみを失ったその感触は、直美の頭の中に詰まったメモリーを引きずり出し、走馬灯のように駆け巡らすきっかけとなった。 最後の親友の死まで目の当たりにしてしまった彼女の目からは、やはり涙がこぼれるばかりであった。 「忍ぅぅぅぅぅぅっ!」 直美は頭だけとなってしまった親友を両手で拾い上げ、力いっぱい抱きしめた。そして、それを見ていた雅史も、切なさで満たされた胸に苦しさを感じた直後、誘発されたかのように涙を流し始めていた。 もう嫌だ! なんでこうも仲間達が次々と死ななければならないんだ! 拭っても拭っても流れ出す涙と何時までも格闘し続けた雅史は、その無限ループから脱する為に、視線を再び大樹の方へと向けなおした。背後からは、まだ少女の弱々しい嗚咽が聞こえてくるが、また悲しい思いをするのを避ける為に、しばらくはそちらを振り返らないことにした。 大樹は、動かなくなった須王の身体の傍らに立ち、そして少しの間それを見下ろしていた。その冷たき視線は、自らの欲望の果てに、次々とクラスメート達を葬ってきた哀れな者を、まるで嘲っているかのようだった。そして少しの間をおいた後に、彼はゆっくりと腰を落とし、殺人鬼の屍の胸に突き刺さっているアイスピックへと手をのばし始めた。 しかし、大樹がのばした手がアイスピックを引き抜くことはなかった。なぜならば、何処からか伸びてきた何者かの手が、大樹よりも先にアイスピックを掴み、それを引き抜いてしまったからだ。これには大樹も驚くばかりであった。 いったいこれは誰の手なんだ? 大樹はそう思うばかりであっただろう。しかし、少し離れてそれを見ていた雅史は、大樹以上に驚いていた。雅史は見てしまったのだ。死んだはずの須王拓磨の腕が勝手に動き出し、そして自らの胸に突き刺さっているアイスピックを引き抜いたという光景を。 胸からアイスピックを引き抜いた須王の手は、その鋭き凶器を握ったままの状態で、大樹に襲い掛かってきた。 予想だにしなかったその驚くべき事態に、大樹はすぐに対応する事が出来なかった。自らの右足へと襲い掛かってくる須王の手の攻撃を避けることが出来ず、アイスピックを深々と突き刺される事となってしまったのだ。 大樹はあまりの激痛に絶叫した。だがこの出来事はこれで終わりではなかった。アイスピックを握った須王の手は、次に大樹のもう片方の足へと向かってきたのだ。そして、右足の自由を失った大樹は、思うように身体を動かす事が出来ず、今度は左足にアイスピックを刺される羽目となってしまった。 両の足に鋭き凶器を深々と突き刺された大樹はその場に崩れ落ち、雨で柔らかくなっている地面の上に両手をついた。それと同時に、今度は手のみではなく、倒れていた須王の身体全体が動き始め、大樹のみならず、離れて見ていた雅史をも驚かした。 須王は伸ばしていた両足をぐっと折り曲げ、地面に手を着き、身体全体をばっと起き上がらせた。そして両足の痛みに苦しんでいる大樹に、容赦なく再び襲い掛かったのだ。 「はぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」 大きく叫びながら、さらに大樹の両腕にアイスピックを素早く順に突き刺し、須王はその勢いのまま立ち上がった。 もはや須王は死んだと思い込んでいた雅史達は、その出来事に驚くばかりであった。まさか須王が生きていたとは思ってもいなかったからだ。 しかしだ。左胸、つまり丁度心臓が位置しているはずの場所を刺された人間が、今もまだ生きてられるはずがない。では、刺されながらも再び立ち上がったこの男は、いったい何者だというのだろうか。 深い傷を負った左胸から、おびただしい量の血液を流し、苦しそうに息を荒げていた須王。しかし、一呼吸おいた後に、突如笑い出した。 「……ハ……ハーッハッハッハッハッハ!」 醜く変貌したその顔を、笑いによってさらに歪めたその姿は、やはり悪魔のようであった。 両手両足を刺され、もはや抵抗するどころか立ち上がることすら出来ず、泥だらけの地面の上に倒れこんだ大樹は、苦しげな表情を浮かべていた。一瞬にして身体の自由を完全に失われた今の彼は、天敵に羽をもがれた蝶、まさにそんな姿であった。 「……キ……キサマ、なんで生きてるんだ……」 倒れたままの大樹は、苦痛の表情を浮かべつつ、須王の姿を見上げながらそう言った。 雅史もそれが知りたかった。心臓を刺されたはずの人間が、今もこうして生きている。そんな不可思議な現象の正体とは、いったいいかなるものなのであるのか、想像すら出来なかったのだから。 須王は声を発した主、大樹を見下ろし、少しの間じっと見つめていたが、突如顔に笑みを浮かべ、足を振り上げたかと思えば、それを大樹の背中へと叩きつけた。 「……ハァ……ハァ……残念だったな……。確かに人間の心臓は、一般的に身体の左側にあるが……まさか俺の心臓はそれとは対称的に右にあるだなんて、思ってもなかっただろうからなぁっ!」 【残り 6人】 トップへ戻る BRトップへ戻る 122へ戻る 124へ進む |
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