−インフィニティ−

 十数名の武装警備員、“鼠返し”の刃が黒光る高い塀、無数の防犯カメラ。
 そんな物々しい防犯体勢を敷いた官邸の廊下を、一人の男が歩いていた。
 入念に磨かれた大理石の廊下がおこす足音は独特だ。昔は普通の廊下との違いなど分からなかったが、高いワインの味を覚えていくうちに感覚が研ぎ澄まされてきたようだった。
 政府で働き始めて十五年。歳を重ねるごとに世界の真の姿が見えてくる。以前“あの方”が教えてくれた通りだ。
 自分の背が低いうちは、いくら背伸びしても、目の前の壁に描かれた夢物語しか見えない。成長して壁を一枚越えるごとに、この世の薄汚れた本当の姿を見渡すことができるのだ。
 あの方と比べれば、男の背丈はたいしたことない。この世の真理はおぼろげにしか分からないし、当然、世の中を思い通りに動かす力も無い。だが、あの方は何もかもを持ち備えているのである。
 遥か高みに立っているあの方は、いったいどんな世界を見ているのだろうか。今のままではとても想像もつかない。
 やがて男は、とある部屋の前にたどり着いた。身長の三倍はある巨大な扉には月桂樹と鳥の姿がリアルに彫られており、今にも囀りが聞こえてきそうである。有名な彫刻家が手掛けた一作らしく、『楽園』とタイトルがつけられていた。まさに、あの方が追い求めているものだ。
 脇にある装置で指紋の認証を済ませると、扉は自動で開き始めた。
 一歩後ろに下がって姿勢を正す。
 何十畳あるか分からない広い部屋の奥にあの方はいた。贅沢な装飾が施された“玉座”に腰を掛けながら天を仰いでいる。
 ああ、やはりどんな高価な家具もこの方にこそ相応しい。まだ四十代後半と若いために地位こそてっぺんにまで届いてはいないが、“王”の称号が似合う人間はこの方以外には考えられない。格が違う。
 そもそも、今の薄っぺらな政府に価値なんてほとんど無く、いくら高い地位にいようと見かけ倒しもいいところだ。
 愚かな者達はその見掛けに騙されてしまったりするが、少し物を見る角度を変えるだけですぐに分かる。我々が平伏すべき相手は、もっと別のところにいるのだ、と。
「失礼します」
 男は深く頭を下げてから王のいる部屋の中にゆっくり踏み入った。
 相変わらず凄い部屋だ。ありとあらゆる生命の標本や剥製が飾られ、独特の雰囲気を醸し出している。
「間宮か」
 王は身体を動かすこと無く、片方の目線だけを一瞬下ろし、男の名を口にした。
 王の左目は見えていなかった。一族の者のほとんどに表れる先天的な障害なのだと聞いたことがある。だが王は片目だけで誰よりも広く世界を見渡すことができている。もしも両方の目が機能していたなら、視野はさらにどれだけ広がっただろうか、などと考えるとゾクゾクした。
「はい、間宮です。ご要望しておられました資料をお持ちしました」
 王に近づき、ファイリングした資料の束を差し出す。
 王は宝石の輝きに彩られた手で机の上を指差した。
「そこに置いておけ」
 間宮と呼ばれた男は素直に従ってファイルを置いた。机には、既に目を通し終えたらしき資料の山がいくつか並んでいる。
「少し背が伸びたようだな」
 王が天上を向いたまま呟いた。
 どうやら間宮について言っているらしい。といっても、物理的な身長のことを言っているのではない。能力や思想の高さをひっくるめた格の話である。
「お褒めの言葉ありがとうございます。相変わらず貴方の足先にも及びはしませんが」
「フッ。口が上手くなったものだな。生意気に謙遜なんかしおって」
 王はそう言うが、実際のところ、間宮には謙遜したつもりなんて無い。王の足先にも達していないというのは事実であるし、むしろこちらの背が伸びて視野が広がっても、王はいつも更なる高みに上り詰めており、一向に差が縮まる気なんてしなかった。
「しかしお前のような優秀な人材は必要だ。この世の中を理想の形にするためにはな」
 王が言った。
 この世で物事を最も広い視野で見渡すことができる生物は、樹系図の最上部に君臨する人類なのだ。だから歴史を知り、科学を発展させ、万物の霊長となることができたのだ。
 あくまでも王の持論であるが、その考え方には間宮もとても共感できた。そして万物の霊長の中でも特に高い位置にいるこの王こそ、世界中を統轄するに相応しい人物なのだと思った。
「世界はまだ駄目だ。理想から遠い。愚かで小さな人間が多すぎる」
「それは今の政府にも言えることでは?」
「お前もだんだん分かってきたではないか」
 王がニヤリと笑った。
「そう、政府にいる人間達のほとんどは、国を治めるには値しない。周りがよく見えていないから、無駄で愚かな行動が多くなってしまうのだ」
 確かに、ここ数年の間にも、役人達の動きで目に余るものはいくつもあった。
 ほとんどが私腹を肥やしながらも自らを安全圏に置いておくための操作など、自己中心的な裏工作。
 その一つとして、八年前に兵庫県の学校で火災が発生したとき、一人の役人が姑息な手段で事件の真相を隠蔽しようとしていた例を挙げることができる。
 自らの指示で学校内に隠させていた薬物の存在を世間に露呈させないために、その役人は意図的に交通事故を起こさせて消防車の到着を遅らせ、証拠が燃え尽きるよう計ったのだ。事故は、政府を狂信する者達で編成された“特攻隊”が起こしたと聞く。また、万一の事態を想定して、警察や病院から都合の悪い情報がメディアに流れぬよう、素早く手を回してもいたらしい。
 何故、この行動力をもっと国の役に立つ方向に持っていくことができないのかと思うと、反吐が出る。
 あまりに小さい。ほんの一時の快楽に身をまかせて我慢すらできないなんて、それでは猿の頃から全く変わりが無いではないか。万物の霊長である以上は誇りを捨てるような真似は控え、紛い物なんかにとらわれないようにしなければ駄目だ。
 それができない者には、楽園での幸福な日々なんて与えられない。箱舟に乗り込むことが許されるのは、船の製造に協力した者だけなのだ。
 何年後のことになるかは分からないが、いずれ実現であろう楽園の光景が、間宮には既に見えていた。
 一人の王を中心に、大東亜の選ばれた優秀な者達が統轄する世界。全ての民は王の下に跪き、そして崇めるであろう。
「今はまだ、世を統べるべき人間を選ぶ段階だ。プログラムだって、無数のガラクタから数少ない宝石を探し出すための手段の一つ、と私は考えている。暴力、知力、運……と、勝ち抜くための要素は色々あるだろうが、何か一つが優れていれば、楽園の構築に十分に役立たせることができるに違いない。お前はそう思わないか?」
 王が見つめる天井には大きなスクリーンが張られており、過去にニュース番組などで流されていたプログラム優勝者のインタビューの様子が、延々と繰り返して流されている。戦いを勝ち抜いた優秀な人材を確認するのは、王にとって楽しみの一つであった。
「まったく、貴方のおっしゃる通りです。須王さん」
 間宮が相槌をつくと、王は左目に眼帯をした顔を初めてこちらに向けて、ニヤリと微笑んだ。

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