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−プロローグ−

 2005年十月某日。一発の爆音がこの国を真っ二つに引き裂かんばかりに響き渡った。
 大東亜共和国の西側に位置する建造物、兵庫県立松乃中等学校。
御影霞(松乃中一年生)は事件発生当時この建物の中にいた。彼女だけではない。全学年の総数二百数十人を誇る松乃中の生徒達のほとんどが、この三階層に分かれていた校舎の中でそれぞれの時間を楽しんでいた。
 校舎西側一階の理科実験室が突如原因不明の爆発を起こし、その際に発生した赤い炎が建物そのものを焼き始め、どす黒い煙も負けじと校舎じゅうを駆け巡り、霞たちがいる三階にまですぐ到達してしまった。
 教室内で友人達と雑談していた霞が事態に気がついたときには、既に他のクラスの生徒達が霞達の教室の前で逃げ惑っていた。
 これはただ事ではないと思い、友人達を先導する形で廊下に飛び出した。しかしそこで目に飛び込んできたのはあまりにも悲惨な光景だった。
 西側の階段から上がってきた有毒ガスを含む黒い煙は、既に三階の廊下中を占拠しており、そんな視界の利かぬ中を生徒達は我先にと出口に向けて駆け出していた。しかし皆がパニックに陥った状態での避難はじつに要領が悪く、比較的煙の量が少ないと思われる東階段付近は人でごった返しており、迅速に避難できるとはとても思えない。とはいっても、有毒ガスで満たされた西階段から降りるのは危険。霞たちに残された選択肢はただ一つだけだった。
 いくら時間がかかろうとも、逃げるには東階段を通らねばならない。
 だが、やはり思ったとおりだった。東階段に着いたものの、人の列はなかなか進まず、一階にたどり着くどころか二階の廊下ですらいつまで経っても見えてこなかった。
 霞の側にいた男子生徒が苛立ちながら下に向かって「早く進め」と叫んだ。しかしそれだけで流れがスムーズになりはしない。彼の悲痛な叫び声は、他の生徒のざわめく声にかき消されてしまっただけだった。
 ふと鼻の奥に違和感を覚え、急いで周りを見渡した。空気中をうっすらと漂っていた煙が、先ほどよりも濃度を増しているのが確認できた。
 緊張が高まる。
 早くこの場から逃げなければ。
 しかし階段一段を下るのに何秒も時間を要する現段階では、そんな願いが叶うはずもなかった。
 いつの間にか霞達の後方にも生徒達が詰まっており、もはや後戻りも出来ず、まさしく彼女達は薄暗い階段の途中で閉じ込められてしまったかのようだった。
 ついに我慢の限界が訪れてしまったのか、先ほど下の階層に向けて叫んだ男子生徒が前方の生徒たちを掻き分けての強行突破を試みていた。しかしぎゅうぎゅうに敷き詰まった生徒達の間を通ることは困難だったらしく、すぐに断念したようだった。
 霞たちがようやく二階にまで到達したころのことだった。下層から聞こえた悲痛なる叫び声に皆が震え上がった。
 周りの生徒達が不安げな表情を浮かべる中、彼女の頭の中には下の階の凄惨な光景が浮かび上がっていた。
 目の前に立ちはだかる炎の壁にどうすることも出来ず、ただ飲み込まれていく少年少女たちの姿。
 さらに濃度を増した煙を見ると、一階は既に全域にわたって火の海と化しているだろうとは簡単に想像することが出来た。
 またしても悲痛な声が校舎内に響いた。今度の声はかなり近くから聞こえたようだった。見ると二階の廊下も既に炎で真っ赤に染まっており、その勢いは今すぐにでもこの場に届きそうなほどだった。
 自然との調和を重んじて造られた半木造の校舎は瞬く間に灼熱地獄と化し、逃げ惑う学童達をいとも簡単に追い詰めていったのだ。
 再び叫び声が上がると同時に、今度は上の階からも誰かの声が聞こえた。どうやら一階どころか、この校舎中がもうじき業火に完全占拠されつつあるようだ。
 階段の途中に設けられた窓から外へと目を向けた瞬間、上方から数人の人間がばらばらと落ちていくのが見えた。煙の息苦しさと炎の熱に耐えかねた数人の生徒達が意を決して窓から飛び降りたのだろう。しかし窓の外はアスファルトの地面。はたして三階から飛び降りて全員が無事でいられるだろうか。
 階段を下り始めて早くも二分もの時が経過。人の流れは苛立つほどの遅かったが、ようやく一階の廊下が見えてきた。そして思ったとおり、そこにも既に炎の手が及んでいた。だがその勢いはまだ大したものではない。階段を下りきった後、そのまま出口へとまっすぐ走りさえすれば、安全に外の世界へと飛び出せるはずだ。
 階下の炎から発せられる煙を存分に吸った上、人と人の間で強い圧力を受け続けたせいで、少々胸が息苦しかったが、脱出するまではなんとか意識も持ちそうだ。
 一階の廊下に着いた途端、彼女はすぐさま駆け出した。
 視界を遮るほどの濃厚な煙の幕と、ごった返した人ごみのせいで、とっくの昔に友人達とははぐれてしまっていたため、彼女は一人で燃え盛る灼熱地獄の中を走った。
 床も壁も柱も天井も、どこもかしこにも赤い炎の姿が見えたが、怯むことなくそれを回避しつつ一直線に走った。だが、思いもよらぬ形で、彼女はその足を止められることとなってしまった。
 焼かれ劣化した巨大な柱が突如崩壊し、走る彼女の頭上へと倒れこんできたのだ。それが合図だったかのように、壁が、天井が、建物全体が少しずつ崩れ始めた。
 倒れてきた巨大な柱と、それと共に降り注いできた天井の瓦礫の下敷きになった霞は、さすがに身動き一つとることが出来なかった。それでも諦めの悪い彼女は必死にもがいてみるものの、自らの体重の数倍もの重量を誇る校舎の瓦礫はびくともしない。
 そんな霞の姿に目もくれず、ただ自らが助かることのみを必死に考えている生徒達は、ひたすら出口へと走っていく。
 後方でまた悲鳴が上がった。炎と煙がすぐそこにまで迫っているのだ。
「助けて! 誰か助けて!」
 襲い掛かる不安に耐え切れなくなった霞は、ついに声を張り上げて助けを求めた。だが、無情にも誰一人その声に振り向きすらしなかった。
「お願い! 誰か助けて!」
 再び叫ぶ彼女。しかし結果は同じだった。
 そうしているうちに、彼女の身体を焼き尽くそうと、恐ろしき炎の姿は目前にまで迫ってきていた。
 鼻腔へと流れ込んでくる煙のせいで激しく咳き込んでいるうちに、霞の意識は少しずつ透明なものへと変わりつつあった。
「助けて……。助け……」
 弱々しき彼女の叫び声はもはや誰の耳にも届かない。
 炎はついに足元にまで来ていた。
 高温の空気が肌に触れた瞬間、そのあまりの熱さに絶叫した。そして熱風は瞬く間に霞の全身を包み込み、十三年もの時をかけて培われてきた肉体から、じわじわと水分を奪っていった。
 長く伸ばしたストレートの髪は縮れてゆき、整っていると評判だった顔も、みるみるうちに醜く姿を変えていった。
 耐え難き苦痛にのたうちまわりながら彼女は思った。



 何故だ。何故どうして私がこんな目に遭わなくてはならないのだ! 何故誰も私のことを助けてはくれなかったのだ! 誰か一人でも助けてくれさえすれば、私はこんな目に遭わずには済んだはずだ!
 おのれ! おのれ! おのれ! おのれ! おのれ! おのれ! おのれ!
 おのれ、この恨みはらさでおくべきか! どいつもこいつも耐え難き業火の中へと追い落とし、その生命を紅蓮の炎で焼き尽くしてくれる!

 業火の中に置いてけぼりにされた彼女は、自らの命を代償に生還を叶えた生徒達全員への復讐を誓った。

 こうして燃え盛る業火の中、御影霞という一人の人間は死に、代わりに一匹の鬼が誕生した。
 「復讐鬼」という名の鬼が……。

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