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 一度ついた勢いは、もはや本人の意思のみではどにもならず、稔はひたすら転がり続けた。
 稔は斜面を転げ落ちながら、さらに何度も何度も、その小柄な身体を岩に打ち付けた。そのたびに激痛が全身を稲妻のように駆ける。
 自分はこのまま転がり続けて死ぬのか?
 そう考えてしまうほどだった。しかしそれは最悪の事態を迎えることなく終りを告げることとなった。転がり続けた末、稔は斜面の途中に生えている大木へと激突した。もちろんその際に再び激痛を感じることとなったが、何とかその大木に全身を受け止められ、さらに下方への転落だけは免れたのだ。
「大丈夫かー、稔!?」
 斜面の遥か上から、心配した様子の浩二の声が聞こえる。
「大丈夫だよー!」
 浩二を心配させまいと、即座にその声に返答する稔。
 急いで浩二のところにまで戻らなくちゃ。
 自分を受け止めてくれた大木に手をあて、再び滑り落ちぬように気をつけながら、ゆっくりと立ち上がろうとした。しかし、とたん足首に激痛が走った。それに耐え切れず、稔はその場に再びヘタンと座り込んでしまった。その際にまたしても、うっかり滑り落ちそうになったが、それだけは大木に掴まることによって回避した。
 稔は滑り落ちるのだけは勘弁と、その体重はすべて大木に支えてもらいつつ、痛む自らの足へと目を向けた。とりあえず出血などはしていない。それに痛みは表面的なものではなく、内面的なもののように感じる。おそらく足をくじいたか、捻挫でもしたのであろう。
 痛みに耐えながら再び立ち上がろうとするが、もはやその足に稔の全体重を支える術はなかった。立ち上がろうとした瞬間、とてつもない痛みが襲い掛かってくるからだ。もはやただ事ではない。
 どうしよう。急がないと目的地が禁止エリアになってしまう。
 稔は焦った。立ち上がらなければ、当然この山道を抜けることなど出来るはずがない。しかし、痛みにより立ち上がることができないのだ。この絶体絶命ともいえる事態、どうやって乗り切れば良いというのか。
「どうした稔!」
 事態を重く見たのか、一度上まで登ったはずの浩二が駆け下りてきた。見たところ手ぶらだ。どうやらデイパックは上に置いてきたようだ。
「ちょっと足が…」
 稔がそこまで言うと、事態を把握したのか、稔のもとに駆けつけた浩二は、すぐさま稔が手で抑えている方の足の靴を脱がし、さらにその下の泥だらけになった靴下も一気にずり下ろした。その瞬間、再び稔に痛みが襲い掛かってきたが、それは歯を食いしばりながら耐えた。
 靴下をずり下げると、そこには稔の細い足首が見えた。見た目ではとりあえず異常は見られなかったが、浩二が「ここか?」と言いながら足首を押さえると、確かに痛みがそこから伝わってきた。
「痛い!」
 その際の痛みに、稔がつい声を出すと、
「これはなかなか重傷だな」
 と浩二が言った。
「やっぱり捻挫かな?」
「ああ、今のところ見たところどうにもなってないが、おそらくこの後腫れてくるだろうな」
 くそぉ! なんでこんな大事なときに、タイミング悪く怪我なんてしてしまうんだ!
 稔は痛みと悔しさのあまり泣き出したくなった。
「やっぱり立てないか?」
 浩二のこの質問に、稔は小さな声で「うん」と返した。浩二の足を引っ張り続けている自分に、不甲斐なさすら感じ苛立たしかった。
「ごめんよ。僕のせいで浩二に迷惑をかけちゃって」
 稔は再び泣きそうになりながら言った。
「なに言ってるんだよ。しかたないさ、足滑らすなんて運が悪かっただけさ」
 浩二は明るくそう言うが、稔のせいでこの山を時間内に通過することが難しくなってしまったという事実からは、目を背けようがない。
「でも、もう目的地には時間までに間に合わないね」
 込み上げてくる感情についに耐え切れなくなり、稔の目から涙が溢れ出した。
 情けなかった。思い返せば今回に限ったことではない。自立心が無く、さまざまな能力が皆よりも劣っていた稔は、昔から周りの人間に迷惑をかけることが多かった。もちろんそんな自分に嫌悪感を抱き、改正するためにさまざまな努力を惜しまなかったが、いくら努力しても、元々の能力値が低い稔は、なかなか報われず、結局は浩二をはじめ、名城雅史や柊靖治にも頼ってきた。
 情けない。自分は皆の足を引っ張ってばかりじゃないか。
 あまりの情けなさに、稔はもはや喋ることもできなかった。
「まだ諦めるのは早いぜ」
 突如浩二がそう言ったかと思うと、稔の身体が宙に浮かびあがった。稔は突然の出来事に驚いた。
「な、なにをするんだよ浩二?」
 自分の身体を背負いだした浩二に向かい、稔は聞いた。
「なにって、俺がお前を背負っていくんだよ」
 あっさりと答えた浩二に、稔は驚愕した。
「背負ってって、こんな急な斜面を、僕を背負いながら登るって言うの?」
「ああ、そのつもりだが」
 またしてもあっさりと答える浩二に、稔はあきれすらした。
「無理だよ。こんな急な斜面を、人間一人背負って登るなんて」
 しかし相変わらず浩二は軽い返事を返す。
「まあ、お前くらいの体重なら何とかなるんじゃないか?」
 確かに稔はかなり小柄ではあったが、それでも40キロ以上はある。先ほどまで浩二が持ち歩いていたデイパック2個と比べても、圧倒的に重いであろう。それに荷物なら途中の急斜面で放り上げる事も可能だが、人間はそうはいかない。どんな難所が立ちはだかろうとも、背負いながら突破しなければならないのだ。
「浩二、無茶だよ!」
「無茶なんかじゃないさ。とにかく今は時間がない。急いでこの山を抜けるぞ」
 まだ何か言おうとしている稔を気にせず、浩二は再び縦走を開始する。もちろんその背中の上には稔の身体が乗っている。
 浩二は稔が転げ落ちてきた斜面を、一歩一歩登っていく。ぬかるみはじめた地面に、二人分の体重が加わった浩二の足が沈む。
 雨はさらに激しさを増し、二人は全身ずぶ濡れであった。雨水を吸った衣服は、だんだんと重くなっていった。
 最初の頃は、人間一人を背負っているとは思えないほど、軽快に登っていた浩二だったが、さすがにこの状態でそれが長く続くはずはない。はあはあと息を荒げ、徐々にペースも落ちていった。
 稔の身体を濡らした雨水が、転げ落ちた際に汚れた制服の泥を落とし、それを浩二の身体へと移していった。だんだんと泥だらけの姿へと変わりつつある浩二を見て、稔はさらにいたたまれない気持ちになってきた。
 浩二が突如足を滑らした。一瞬ひやっとしたが、地面に手をつき、なんとか転落を未然に防いだ。
「もういいよ浩二」
 雨なのか涙なのか見分けの付かない滴を頬から垂らしながら、稔はそんな一言を吐き出した。しかし浩二は無言のまま、稔を背負い歩き続ける。
「浩二、もう降ろしてよ。頼むよ。ねぇ、浩二」
 足の痛みのせいでもなく、悔しさのためでもない、それ以外の何かによって稔の涙の量が、一気に増幅した。それは顔のすぐ下の、浩二の頭の上へと垂れていった。
「浩二!」
 浩二は全くの無言であった。全身を雨に濡らしながら、さらには泥だらけになりながら、ただがむしゃらに斜面を登り続けるその姿は、いつも余裕気取りで自信家である浩二の姿ではなかった。
「俺は絶対に降ろさねえ! 絶対にお前と行くんだ!」
 浩二はそう言った。その言葉はほとんど無意識に口から出てきているようにも感じた。



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