026
−水際の逃亡者(2)−

 騒がしく草木をかき分け土を蹴るような二つの足音は、とてつもない速度で迫っていた。周囲が静かな山の中でこれだけ音をたてて走ればすぐ誰かに見つかってしまいそうだが、どういうわけか本人たちはそんなことを考えてはいられないほど、なりふり構っていられない状況なのだろう。
 このままでは鉢合わせてしまう。
 相手が誰なのかは分からないが、いずれにしろこんな山の中で走らなければならないような、切羽詰った人間とは出会いたくなかった。まともな会話すらままならないと考えられる。
 かといって今から急いで隠れることは不可能。秀之と藍子の二人が身を潜めることができるような都合の良い遮蔽物が周囲になかった。
 秀之は頭をフル回転させて、なんとかこの窮地を脱する手段はないかと考えたが、最良の判断を下すには時間があまりに足りなかった。
 既に二人の人間の姿が目視でも確認できる位置に来ている。手前を走っているのが女で、そのほんの数メートル後方から男が追いかけているという構図だった。
「待ちやがれ!」
 男が怒鳴るように叫んだ。しかし女は止まることなく必死に走り続ける。
 よく見ると女の制服はそこかしこに血の色が滲んでいた。どうやら男に襲われて負傷し、逃げている最中ということらしい。
「嫌っ! 誰か助けて!」
 その瞬間、女は足がもつれたのかバランスを崩し、大きく前に跳び、倒れた。
「久実」
 秀之の脇に立ち、一連の様子を見ていた藍子が、倒れた女の姿を見て声を上げた。
「藍子? それに沖田君?」
 八代久実(女子二十一番)が顔だけを素早く上げ、二人の顔を交互に見比べていた。
 近くで見ると、彼女が負わされた傷は思った以上に酷いということが分かった。横一文字に斬られた制服の背中が、広範囲にわたって真っ赤だった。何か鋭利な刃物で後方から攻撃されたのだろう。
「なんだてめぇら。沖田と森下か」
 こちらの姿を確認し、急ブレーキをかけて止まった男は田神海斗(男子十六番)だった。普段は気の弱いクラスメートたちにちょっかいを出して楽しんでいる、不良グループの一員である。
 細く削られた眉の左右を吊り上げ、小さく鋭いつり目を血走らせている。濃厚な殺気を感じ、彼が久実を襲った張本人であることは間違いないだろうと思った。卑怯にも少女を背中から斬り裂いた際の返り血が、ボタンを外して着崩したブレザーに、派手な水玉模様を描いていた。
 ただ一点、彼が手にしているのはモンキーレンチという工具で、おそらく打撃系に属する武器であることが気になった。久実の背中を大きく切り裂くような能力はないはずである。
 いずれにしろ、見るからに話し合いで抑えられるほど、相手が冷静さを持ち合わせていないことは明白であった。
「沖田……てめぇ……」
 秀之が手にした銃を構えると、海斗は勢いを止めて立ちすくんだ。しかし止めどなく沸き上がる殺意は抑えられない様子で、逆立った短髪が興奮した獣のそれと同じように思えた。
「何があったかは知らないが、撃たれたくなかったらどっかに行け」
 もちろん亜里沙と対峙した時と同様に、秀之が構えている銃に殺傷能力はほぼない。信号銃を拳銃に見せかけてのハッタリがいつまでも誰に対しても有効だとは思えないが、こうして凌ぐしか他に考えつかなかった。
「……のヤロ」
 海斗はモンキーレンチで銃に対抗することは不可能と判断した様子で、恨めしそうにしながらも撤退の態勢に移行した。幸いなことに今回もハッタリが効いたようだった。
「覚えてやがれ! 次に会った時はまとめてブチ殺してやっかんな!」
 木々の奥に姿が見えなくなる寸前で、海斗はそんな捨て台詞を吐いた。
 ひとまず危険が去ったところで、秀之は大きく息を吸った。
 予想できない話ではなかったが、海斗はゲームに乗ったのだ。はじめからそうだったのかは分からないが、思えば彼の恋人である根来晴美は死者として放送で既に名を読み上げられており、その時点で海斗がどの程度か秘めていたやる気に拍車をかけたのだと思われる。
「だ、 大丈夫?」
 倒れたまま悶絶している久実に藍子が駆け寄る。その考えなしの行動に、秀之は背筋が冷たくなる思いをした。
 手錠をしたままの藍子を見たら、久実は不思議に思うだろう。もし説明を求められても何て話せば良いか分からない。素直に「藍子は危険だ」と言ったところで理解されず、むしろ秀之のことを不審がられるに違いなかった。
「田神にいきなり斬り付けられて……、いや、それよりも……」
 幸いなことに、久実はまだ藍子の手錠に気づいていないようだった。後ろにまわした手元は身体によって隠されているし、そもそも久実には藍子の不自然な姿勢に気付けるほどの余裕がないようだった。
 なにより彼女は第一に秀之たちに伝えたいことがあるらしく、自らが走ってきた方角を指差して説明しようと必死になっている。
「君江が……君江が……」
 君江と聞いて思い浮かぶクラスメートは、弓削君江(女子二十二番)一人しかいない。
「弓削がどうした?」
 秀之が問いかけると、久実は回らない口で恐々と答えた。
「私と逃げてる途中で……刀で……」
 血を急激に流し過ぎたショックのためか、久実はそこまで言って、ふっと意識を失った。嫌な予感しかしなかった。
「森下、すぐ戻るから八代と隠れて待っていろ」
 そう告げて、久実が指差していた方角に向き直る秀之。
 トイレのときとは違い、さすがの藍子も今回は駄々をこねない。
「……気をつけて」
「ああ」
 短い言葉を交わして数歩進んだが、秀之はすぐ思い直して、一旦藍子のもとへ戻った。
「どうしたの?」
 不思議そうにこちらを見る彼女に構わず、ズボンのポケットから取り出した鍵で手錠を外す。
「ろくな治療ができないことは分かっている。森下にできる限りでいいから、八代の応急処置を頼む」
 藍子は一瞬あっけにとられていた様子だったが、状況を理解すると表情を引き締め、縦に大きく頷いて見せた。
 それから今度こそ秀之は森の奥へと駆け出した。
 弓削君江にいったい何が起こったのかは現時点では分からない。ただ久実の必死な様子や状況から推察すると、不吉な光景しか想像することが出来なかった。
 あえて確認しには向かわないという選択もあったはずだが、自分でもよく分からない感情に突き動かされたのだった。
 男女二人の足跡が地面にくっきりと残っているので、それに沿って進めば君江にたどり着くはずだ。よほど必死に駆けていた様子で、強く蹴られた地面や草が派手に踏み荒らされており、時折足を滑らせたかのような跡も残っていた。
 それらを見ながら、藍子の手錠を外したことは正解だったのかどうか、秀之は考えた。未だ得体が知れていない彼女を自由にすれば、今後なんらかの危険を招く恐れがある。もう少し正体が明らかになるまで拘束を解きたくはなかった、というのが本音だ。
 だが久実という第三者を不用意に招き入れてしまった以上、二人きりだったときのようにはいかない。久実が目を覚ました時に不審がられないよう、ごく自然な状況を演出する必要があった。なにより手錠をかけたままだと、藍子に久実の応急処置を任せることができなかった。
 そこまで考えて秀之は疑問に思った。
 なぜ自分は、久実に応急処置を施すことを考えてしまったのか。一人しか生還できないプログラムの最中である今、久実のことを助ける義理はない。放っておいて死なれた方が都合が良いわけだし、そうすれば藍子の拘束を解く必要もなかった。
 色々考えた末、自らの行いがいかに理に適っていないかを思い知った。だがあの時は、自然と頭と体がそう動いてしまったのだから仕方がない。
 もっと冷静に物事を考えながら行動しなければ、と反省していると、秀之はとある光景を目の当たりにし、足を止めた。
 藍子たちがいる場所から数十メートル離れた地点に、弓削君江の姿は確かにあった。
 後頭部から日本刀を深々と突き立てられていて、絶命していることは一目瞭然だった。貫通した刃が大きく開いた口から飛び出しており、その勢いのまま刃の先端が傍の木の幹に突き刺さっている。刃を咥えている口の周りは血で真っ赤だった。歯が砕けた箇所と大きく裂けた唇からの出血が激しく、華奢な身体が纏うブレザーを伝い、地面にいびつな丸い絨毯を描いている。
 木の幹に突き刺さった刀に支えられて、君江の体はだらりと垂れ下がり、ヘアクリップでまとめられたご自慢のポニーテールも、なんだか力を失っているように思えた。


 凄惨な現場を前に、秀之は呆然としてしまっていた。
 彼女をこんな目に遭わせたのは、やはり田神海斗に間違いないであろう。彼は最初に支給された日本刀で獲物を見つけるや襲いかかり、久実の背中を斬りつけ、君江の頭部を串刺しにして殺害。逃げる久実を追いかけようとするも、木に深々と突き刺さった日本刀が抜けず、致し方なく君江の荷物から奪ったモンキーレンチだけを持って走り出した。もちろん日本刀はあとで回収つもりでだ。だがそこで、秀之たちに遭遇してしまった。
 以上が秀之の推理である。想像に頼った部分が何箇所かあるものの、これまでの状況から整理しているのでだいたい間違ってはいないはずだ。
 辺りに漂う血の匂いが強烈で、現場に立ち入ることを躊躇ってしまう。だが秀之はこのまま引き返したりはせず、意を決して死臭の中へと踏み込んでいった。
 血みどろになった刀の柄を、恐る恐る握る。
 想像以上に木の幹に深く入っているらしく簡単には動かなかったが、幹に足をかけて力を込め一気に引くと、なんとか抜くことができた。
 君江を支えていた刃が幹から抜けると、その体重が秀之の手に一気にかかり、危うく落としてしまいそうになった。
 君江をゆっくり下ろして地面に寝転がせ、今度はその頭部から刀を抜くと、さらに大量の血が吹き出す。あらかじめそれを予見していた秀之は立ち位置に気をつけていたので、なんとか身体に血がかかることを免れた。
 水泳部に所属する君江は、競泳の有力選手として期待されていた。安全レベルである彼女とは会話する機会もそこそこあり、彼女自身が水泳を楽しみ、強い向上心を抱いていることがうかがえた。大会で好成績を残したいという思いを達成できないまま、他人の手で命を強制的に終わらされてしまい、どれだけ悔しい気持ちだったかは計り知れない。
 見開いたままだった目をやさしく閉じさせ、秀之は彼女を見下ろしながら手を合わせた。
 それくらいしかできることがなかった。


 弓削君江(女子二十二番) - 死亡


【残り四十人】

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