025
−水際の逃亡者(1)−

 沖田秀之は茂みに身を隠すように頭を低くして斜面を進んだ。さして急な勾配ではないものの、斜面を形成する積み重なった岩は体重をかけるとぐらぐらと揺れるほど足場としては不安定で、そのため歩みは自然とゆっくりとしたものになっていた。
 特別な目的があっての移動では無いので、慌てる必要はないと秀之は考えていた。
 先程まで身を隠していた場所でしばらく滞在し続ける案もあったが、六時の放送で予告された六つの禁止エリアの中に近い所が有り、やや気になったので念の為にエリアを一つずれることにしたのであった。
 秀之たちがいたエリアはG-7で、午前九時に斜め隣のF-8が禁止エリアになる。何かの間違いでそちらに迷い込んでしまうことを避けるため、反対側のH-6あたりを目指す。
 戦うことに積極的でなく、それでいて生き残ることを諦めた訳でもない秀之には、漁夫の利的な発想の他には明確な方針が未だ無く、彼の行動の指針となるものは禁止エリアとの位置関係くらいしかなかった。
「ねえ沖田くん」
 ひときわ大きな岩の上を大股で通過しようと足を伸ばしたとき、森下藍子がふいに背後から声をかけてきた。
 振り返ると、後ろ手になりながらの慣れない状態での歩きに苦戦する彼女の様子が見て取れた。まとめて持ってやるというもっともらしい理由をつけて二人分の食料や武器を秀之が運び、藍子は手ぶらにさせているが、それでも両手が不自由なままでの山の中での行動は厳しいらしい。
「私まだ信用されてないかな?」
 こちらを伺うように見つめながら、身体の後ろで両手を拘束している手錠をジャラジャラと鳴らす。
 彼女に手錠をかけて既に六時間以上が経過している。抜けられないよう固い鉄の輪をきつめに絞っているので、締め付けられて痛いのだろう。
 彼女の背後に回り込んで見ると、たしかに華奢な手首から先が赤く充血している。
 しかし手錠を外すことへの躊躇がまだあり、拘束を解くわけにはいかない。藍子のこれまでの態度を見る限り害はなさそうに思えるが、彼女が内側に秘める「警戒レベル」の正体を見破るまでは自由にするかどうかの判断を下すわけにいかなかった。
 仕方なく秀之は藍子の手錠を、血の巡りが改善される程度にほんの少しだけ緩めることにした。
 鍵を挿した瞬間に暴れられて脱走される恐れもあるので、本当は気が進まなかったが、痛みに耐え兼ねて喚かれても面倒なので仕方なかった。
 幸い、藍子は非常におとなしくしており、難無く作業を終えることができた。
 これが今の秀之にとって譲歩できるギリギリのラインである。手錠を解くことはおろか、これ以上緩めるなんてことも現状のままではありえない。
「ありがとう。ちょっと楽になった」
 藍子が満面の笑みを浮かべた。
 彼女は相変わらず、秀之が手錠を緩めてくれたのは優しさからだと思っているのだろう。
 当然秀之にそのような意識が芽生えたわけではない。願望ばかりで物事を知ったような気になる藍子のことを、ただ哀れに思うばかりであった。
 あわよくば今すぐにでも藍子を捨てて立ち去りたいというのが本音。強力な武器を手に入れるためだけに組んだ仲に今や何の価値も無く、彼女はただただ足手まといでしかないのだ。しかし下手に見捨てて秀之の悪行を他の生徒にリークされてしまうかもしれないと考えると、置いていくわけにもいかない。
 やっかいな荷物を抱えてしまったもんだと秀之は頭の中で嘆いた。
「頭痛いの?」
 顔を歪めてしまっていたらしく、藍子が心配して聞いてくる。
「ああ、ちょっとな」
「無理しないでね」
 何も分かっていない様子の藍子に向かって、お前のせいだよ、と言いたくなったが、もちろん言えるはずがなく言葉をぐっと飲み込んだ。
 そうこうしているうちに、僅かにだが遠くのほうから水の流れる音が聞こえだした。どうやらそう遠くない場所に川があるらしく、地図の情報と照らし合わせたところ、いつの間にかH-6エリアそのものか、あるいはその付近にまでは到達していたことが分かった。
「悪い。ちょっとションベンしてくる」
 唐突に秀之が切り出す。実は大分前から色々考えて尿意を紛らわしていたのだが、水音を聞いたせいか急に我慢の限界が訪れた。緊張感が台無しではあるが、生理現象だけは何時であろうが仕方がない。
 山の中だしトイレなんてどこでも済ませられそうなものだが、傍にいる藍子は一応女であるのでわざわざ少し離れなければならず、それが煩わしくて今まで我慢していたのであった。そういう意味でも彼女の存在が邪魔であった。
「私もついてく」
 そう口走る藍子に、秀之は頭を抱えたくなった。
「トイレくらい一人で行かせてくれよ」
「だって、不安なんだもん」
 一人でいるところを敵に襲われるのを不安がっているのだろうか。それとも、トイレに立ったまま秀之が逃げてしまうのではないかと恐れているのか。
「大丈夫だって。俺は逃げも隠れもしないし、お前のほうに敵が来ないか気をつけておくから」
「それでも嫌っ。お願い、そばにいさせて。音聞かないように耳塞いでおくから」
「おいおいマジか……」
 これには秀之も参ってしまった。
 いくら音を聞かないとは言っていても、女の子の横で放尿させられるなんて羞恥プレイ以外の何物でもない。
 そもそも手錠したままの藍子は耳なんて防げないではないか。
「俺はそんな変態チックなこと絶対に嫌だからな。どうしてもというなら、森下とはここでお別れだ」
 すると藍子は顔を青ざめて懇願しだした。
「ごめん沖田くん、そんなつもりじゃなかったんだ。ただ離れるのが不安で。でもそんなの迷惑だったよね。謝ります。だからお別れだなんて言わないで」
 敵に見つからないように秀之はボリュームを抑えて話しているのに、藍子の声は必死さからかだんだん大きくなってきている。冷静さを欠いている今の彼女に見られる異常は、プログラムという危険な場に放り込まれた人間にとってはごくありふれたものなのか、それとも警戒レベルである藍子特有の変化なのだろうか。
「分かったから、あんまり大きい声を出すな。仕方ないな、それじゃあ森下から見える範囲でするから、せめて音が聞こえないくらいは離れさせてくれ」
 藍子は分かりやすいくらいに表情を一気に明るくした。
 普通こういうのって女のほうが恥ずかしがるものだと思うが、彼女は何も考えていないのだろうか。
 まさか、いざ逆の立場になったときも、傍にいてくれとか言わないか心配である。
 くだらない押し問答が落ち着いた頃には、小川のせせらぎがだいぶはっきりと耳に届くようになっていた。森の中が静かなため際だって聞こえる。心地の良い水音から、流水の穏やかな様子が思い浮かんだ。
 秀之たちのすぐ脇に斜面があり、そこを下ればすぐに川に辿り着くようだ。
「じゃあ俺、行ってくるわ」
 そう告げて藍子から離れる秀之。水場に近いせいか斜面が僅かにぬかるんでいて、滑らないよう気をつけながらゆっくり下る。
 この辺りも岩がごろごろと転がっており、それを避けながら歩を進めようとするが、葉の広い植物が敷き詰まって地面を覆い隠しており、少しの移動にも難航を極めた。
 人一倍慎重な秀之だけあって、歩く際に物音はほぼたたなかった。草木が擦れ合う僅かな音も、風など自然が立たせる音と同化して目立たない。近くに誰かがいても、姿さえ見られなければ気付かれることはないだろう。
 ほどなくして草葉の隙間から穏やかな水の流れが確認できた。透き通った水面が日の光を強く反射しており、思っていたより綺麗な川だなと思わされた。用を済ませた後に手を洗う水が濁っていたら嫌だったが、どうやら心配は無用だったようだ。
 少し離れはしたが、約束した通り藍子から見える位置を未だ保てている。秀之は適当な茂みから上半身だけを覗かせるような形で用を済ませようと、さらに少しだけ前に進んだ。
 良いポジションにつき、ズボンのチャックを下ろそうとしたところで、秀之はあることに気づいて手の動きを止めた。
 小川の方に誰かいるのだ。足首の少し上までを水に浸けながら、両手で水をすくって顔を洗っているのが見える。
 日が昇って久しく、山の中にも眩い光が差し込んできている今ならば、その人物の特徴的な姿はあまりにはっきりと捉えられた。
 クラスに一人しか存在しない金色のロングヘアーは、まるで自らの存在を強調するかのように光り輝いている。
 静の姫こと千堂亜里沙(女子八番)は、もう一度両手で水をすくい、顔に近づけた。そこで何やら気配を感じ取ったのか視線をこちらに向け、秀之の姿に気づいたようだった。


「動くな」
 一瞬早く相手の存在を察知していた秀之は、素早く武器を構えていた。元々は藍子の物だった信号銃である。殺傷能力は無いに等しいだろうが、本物の拳銃だと相手に思わせての威嚇くらいには使える。もちろん銃に詳しい相手には効かないだろうが、女である亜里沙はそれに該当しないだろうと判断。
 彼女はゲームに乗り気なのか、それとも否定的な立場であろうか。
 プログラム開始前にサンセット号の中で軍隊相手に暴れた彼女の不可解な行動を思い出し、考えるも、それだけではどちらとも判断できない。
 無言のまま相手の出方を伺っている秀之の前で、亜里沙は攻撃してくるでも逃げるでもなく、身を固めてじっとこちらを見つめていた。
 美しい青に彩られた目に、強く込められた力を感じた。見つめられていると、まるでこちらの思考を読み取られているような感覚に襲われ、背筋に寒気を覚えた。
 ぐっと手に力を入れて武器の照準を合わせたまま、彼女が何を考えているのか、こちらも必死に探り続けた。
 高ぶる緊張感の中、すっかり尿意は引っ込んでしまっていた。
 秀之を待っている藍子の位置からは川の様子が見えない為、微動だにしない秀之の後ろ姿を見ているはずの藍子は、きっと何が起こっているのか理解できていないであろう。
 考えてみれば、今のこの心理戦が秀之にとってプログラム最初の戦いであった。たった一人で挑む命の削り合いがこんなにも精神を疲労させるものだとは思ってもいなかった。
 相変わらず考えが読めない相手を前に手が震えて、武器の照準が時折ぶれる。その隙を亜里沙に狙われているように思い、秀之はさらなる緊張感に襲われた。
「なんなんだ、お前は。ゲームに乗る気なのか? それとも、戦う気はないのか?」
 たまらずそんな言葉が秀之の口から飛び出したとき、背後から大きな悲鳴が全身に覆いかぶさってきた。
 生命の危機に直面した人間の悲痛な叫び。つい反射的にほんの一瞬振り返ってしまった秀之の目に映ったのは、同じく声が聞こえた方角を振り返っている藍子の姿。
 声の主が藍子ではないと分かって直後、慌てて川の方に視線を戻すと、既に亜里沙の姿はそこにはなかった。川沿いに置かれていた彼女の荷物も忽然と消え、対岸に敷き詰まった岩肌に足跡が点々と残されていた。
 秀之が視線を外した一瞬を見逃さなかった彼女は、とてつもなく素早く、そして音もなくその場から走り去ったのだ。
 その忍者のような身のこなしに驚愕しつつも、危険が去ったことを確認し、すぐに坂を駆け上がって藍子のもとに戻ろうとする。
 秀之に襲いかかってはこなかった亜里沙は、ゲームに乗り気ではないのか?
 さっきの悲鳴はいったい誰のものだ?
 色んなことが一斉に起こりすぎて、もはや秀之の思考は追いつかない。
「いったい何があった?」
 藍子の傍に着くやいなや問いただすも、彼女も秀之同様に事態を飲み込めていない様子で首をかしげるばかり。
 危険を感じ、早々にこの場から離れる判断を下すも、既に時は遅かった。
 秀之たちに向かって、正体不明の足音が二つ、とてつもない速度で近づいてきていた。

【残り四十一人】

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