人間の物心が付く頃とは、おおよそ何歳くらいを指すのだろうか。
三歳から四歳くらいだとか、中には生まれて一年後からの記憶を持つ人間がいるとか、様々な俗説が世に飛び交っているが、いずれにしろ、とにかく俺――沖田秀之には物心がつく前の記憶というものが一切無かった。
これは当然のことなのだろうが、本人に幼少の頃の記憶が無くても、親や知人から生い立ちについて聞かされたりすることによって、思い出とは補完されていくものだとも考えられる。
しかし捨て子である秀之には、生まれた頃のことについて教えてくれる肉親などはおらず、最も幼い頃の“記憶”はいつまでも白紙なままだった。
秀之が自身について知る最も古い記憶は、かつて育清園の園長である尾藤泰彦によって語られた、『夏のある雨の日、たった一人で町の中をさ迷い歩いていたところを警察に保護され、後に育清園に引き取られた』という、まるで悲劇の主人公を思わせるような話。
薄汚れたシャツとズボンを着て、ボロボロになったウサギのぬいぐるみを持っていた以外に所持品は無く、身元を特定することができなかったのだそうだ。
育清園に引き取られてからの秀之は最初、大人しくて口数も少なく、園の仲間達から離れて一人でよく歌を口ずさんでいたとのこと。
――アカイハナを見たらお家に帰ろう。カイブツ達が出る前に。
などと。
成長と共に活発さを見せるようになっていった秀之は、何時しかその歌を口ずさむことは無くなったようだ。
尾藤園長が覚えていた歌詞は一フレーズだけで、メロディーラインもどんな感じだったか定かではない。ただ、そのたった十数文字の歌詞が何故か秀之の頭に強烈に残り、いつまでも忘れることができなかった。
そして時は流れ、中学三年生になったばかりの春。ある日、秀之はいつものように秘密基地の廃墟アパート『ひかり荘』にいた。
築何十年もの歴史を持つ木造二階建ては、人が住まなくなってからは荒れ放題になっている。土壁のいたるところに雨漏りの染みができ、古い畳のい草が埃と一緒に散らばっていたりする。秀之が時々手入れしている201号室以外は、とても人がくつろげるような状態ではない。
201号室は、建物内で一番雨漏りが少なく、風通しも良い二階の角部屋。
この六畳間を住処としているのは秀之一人だけではない。同じクラスの高槻清太郎もまた、この建物を秘密基地にしていた人間で、偶然鉢合わせた日を境に“同居人”として付き合あうようになっていた。
他人のことをなかなか信用できない秀之が心を許せたのは、それだけ清太郎が表裏のない人格者で、信用の置ける人物だったということなのだろう。
秀之はささくれた畳の表面を箒で掃きながら、部屋の隅で寝転んでいる清太郎に向かって、かつて自らが口ずさんでいたという正体不明の歌について、何気なく話してみた。
この歌はいったい何なのか?
長年答えが出なかったこの謎に、彼なら真剣に考えて答えを出してくれるかもしれないと思ったのだった。
最近の流行曲も含めて、秀之が知る限りの歌には、合致する歌詞を含むものはない。
親に内緒で塾をさぼって頭を休ませていた清太郎だったが、秀之の話に少しは興味を持ったのか、起き上がり、腕を組んで「うーん」と唸りながら考えだした。
長時間寝転がっていたせいで、伸びたくせ毛でモジャモジャになっている彼の頭の後頭部は、潰れて平らになってしまっている。
「小さいときにテレビとかで聴いた歌なんじゃない?
子供ってそういうの気に入ったら、すぐに自分で歌ってみたりするもんだし」
考えた末に浮かんだ彼なりの見解を述べる。が、秀之は納得しない。
「園長や園の職員さん達は結構テレビとか観てたし、既存の歌だったら誰かが知ってると思うんだけど」
「小さいときのお前が歌詞を聞き間違えて、無意識でアレンジした歌だったのかもよ」
――浅い浜を見たらお家に帰ろう。海賊達が出る前に。
などと適当に考えた歌詞をあてずっぽうなメロディに乗せて歌ってみせる清太郎。
「ほら。いかにも子供番組とかで流れていそうな歌の出来上がりだ。もちろん、本物はこのまんまの歌詞ではなかっただろうが」
確かに子供って、うろ覚えの歌を自分勝手に改造したりするものだが、どうも腑に落ちない。子供番組で流れていた歌ならなおさら、尾藤園長達は原曲を知っていたと思われるのだ。
「なんか釈然としないんだよなぁ……」
「もしかしたらオリジナルすら無いのかもよ。作詞、作曲、沖田秀之。すげー、だとしたらお前って才能の塊じゃないか」
「“浅瀬の海賊”の何処に才能を感じるんだよ」
「ほら、すぐに曲名考えつくじゃん。よっ、アーティスト! でも、どうせだったら“オサセの女海賊”がいいなぁ」
調子に乗った清太郎は、話をどんどん関係ない方向へと転がしていく。しかしこれは、お世辞にも明るくはない秀之の過去の話を、なんとか明るく切り替えようとする、彼なりの気遣いなのかもしれない。そのため秀之も、強引に話を暗い方に引き戻すことはできなかった。
清太郎は、部屋の隅にある三十段重ねのエロ本タワーから一冊をひっぱり出し、パラパラとページをめくった。本のタイトルは『人妻倶楽部〜厳選素人団地妻〜』。
クラス担任の笹野先生より上の年齢だと思われる女性が、大きく股を開いている表紙を見て、秀之は言葉につまる。
「……相変わらずの熟女好きだな」
中学生にして性癖がマニアックになりつつある清太郎の、こういう所は共感できず、苦笑いを浮かべるしかない。
「そんな目で見るなよな。ああそうさ、俺の女の好みは変わってるよ。お前は俺なんかに構わず、自分と同じくらいの歳の子と純愛してればいいだろ」
清太郎は若干恥ずかしそうな顔をして、本の中を見られないよう、秀之には表紙の側を向ける。
大股開きの熟女がこちらを向き、秀之は反射的に目を背けた。
「おい、表紙こっち向けんなって」
「んだよ、エロ本くらいで恥ずかしがんなって」
「べつに恥ずかしがってんじゃねーよ」
どうせ見るんなら、わざわざそこまで歳上ではなく、もっと若い女の子の方が良いに決まっている。秀之はごく一般的な年頃の男子なのだ。
「ま、パンピーの秀之には、本の中の熟女よりもクラスメートのとかのほうが良いわな」
「そういうわけじゃ……」
そもそも異性についての話自体、歌のことが気になってしまっている今の秀之にとってはどうでもよかった。清太郎の話を聞きながらも、頭の半分では今も色んな歌詞を考えては当てはめ続けている。
――荒い肌を見たらお家に帰ろう。ぶつぶつ達が出る前に。
――高い棚を見たらお家に帰ろう。乾物達が出る前に。
――甘い母を見たらお家に帰ろう。回文達が出る前に。
まるでパズルだなと思いつつ、答えから遠ざかってしまっているのを感じた。原曲を見つける以前に、どんどん意味が分からない歌詞になっていくのだ。
そんな秀之の気も知らず、清太郎は変わらず異性についての話を継続している。
「まあそんな難しい顔すんなよ。俺さ、実はお前のことをちょっと気にしているらしい子のこと知ってるんだぜ。なんと隣のクラスの――」
清太郎がそこまで言ったとき、秀之は妙な胸騒ぎを感じて、反射的に勢い良く立ち上がった。
「な、なんだよ、急に立って……」
突然のことに清太郎は驚いた様子で、持っていたエロ本を慌てて放り投げてしまっていた。
秀之は、自分たちの姿が誰かに見られているような気がして周囲を見渡した。だが、この部屋には相変わらず男二人以外には誰もいない。窓は開いているが、ここは二階なので、外から覗かれることも無いはずだ。
「いや、なんでもない……」
自分の勘違いだと思い込んだ秀之は、改めて寝転がり、もとの体勢に戻る。
清太郎は何か言いたそうにしていたが、秀之がなんでもないと言った以上、それから追求してくることはなかった。
いったい、今の悪寒にも似た胸騒ぎの正体はいったい何だったのだろうか?
気になってしまった秀之は、そこから歌のことに集中して考えることはできなくなってしまった。
【残り四十一人】
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