012
−危険な邂逅(3)−

 こめかみから滲み出てきた汗が頬を伝い、あごの先からボトボトと滴り落ちる。
 潮風が吹いているためか、六月のじめじめとした蒸し暑さはさほど感じず、この異常な発汗は湿気のせいでないのは明らかだった。唐突に高まった緊張感が、秀之の身体の体温と新陳代謝に狂いをもたらしていた。
 警戒レベルの足立宏が根来晴美を殺害するシーンの一部始終が、強烈に脳裏に焼き付いて離れない。生まれて初めて目にしてしまった、人が人を殺める凄惨な場面はあまりに衝撃的だった。
 衝動と憎悪に突き動かされて、殺人鬼へと成り果ててしまった級友。
 叩き潰され、見るも無残な姿に変形してしまった少女の頭部。
 飛散する鮮血。
 波音を掻き消す醜悪な高笑い。
 あまりに猟奇的なそれらの光景は、平和だった日常との決裂を秀之に実感させるには十分すぎた。
 いくらプログラムに巻き込まれたとはいえ、皆そう簡単に殺し合いを受け入れはしないであろう、なんて考えがあったならそれは甘すぎだが、こうもあっさりとゲームに乗る者に遭遇してしまうとも思っていなかった。
 かくして秀之が恐れていた通り、警戒レベルの人間に近寄ることがいかに危険か証明されることとなった。
 晴美を殺害したばかりで興奮冷めやらぬ宏は、とち狂ったように高らかな笑い声を上げている。
 秀之は見つからないように茂みの中で身を縮め、息を殺して潜み続けた。
 早くどこかに行ってくれ、と強く祈る。すると、しだいに宏の興奮が冷めてきたのか、不快な笑い声が止んで静かになり、聞こえてくるのは風と波が奏でる自然の合奏のみとなった。
 冷静さを取り戻したのか、宏は少しの間、晴美の死体を静かに見下ろしていた。表情が見えないので、彼がいったい何を思っているのかは読み取れない。しかし最初の敵をあっさりと倒したことによって得られた自信と満足感が、風に乗って秀之にまで伝わってくる。立ち振る舞い方が、先ほどまでの自信なさげで弱々しかったそれとはまるで違う。
 傍に転がった晴美のバッグに手をかける宏。プログラムのルールで、政府から支給された物品を他の生徒から奪うことは許されている。
 元は晴美のものだったブッチャーナイフと、手付かずの水と貴重な食料を手に入れ、ご機嫌な様子の彼の足取りは軽い。ここに来るときはうつむせ気味で力なく歩いていたのに対し、胸を張った堂々たる姿勢で立ち去っていく。
 だんだんと小さくなっていくその後ろ姿が闇に溶け込んでいくのを、秀之は一度も視線を外さず黙って見続けた。
「ぷはーっ」
 危険が完全に過ぎ去ったと判断した瞬間、張り詰めていた緊張の糸が一気に解けて、大きく息をついた。宏たちに見つかってはならないという考えから、無意識に呼吸を抑えてしまっていたようだ。
 息を吸って吐いてを繰り返して、乱れた呼吸を整える。そして、砂浜を覗くために前かがみになっていた体勢を崩し、地べたに座り込んで楽にする。
 自ら持参したカバンからタオルを取り出し、すっかり汗でびしょ濡れになってしまった首の周りや顔を拭いた。
 自分では冷静でいたつもりだったが、タオルの湿り具合を確認すると、先の一件でいかに動揺してしまっていたかが分かる。やはり長年気をつけてきただけあって、自らの命の危機には人一倍敏感なようだ。
 とまあ、多少精神的に揺さぶられてしまったりはしたが、これで一つはっきりした。それは、警戒レベルの人間に近づいてはならない、ということ。
 安全な者たちでないのは分かりきっていたが、直接命に関わる行動を起こしてくるのかは半信半疑だった。しかし警戒レベルの一人である宏は秀之の目の前で、クラスメートの殺害という行為を堂々とやってのけた。これが彼らの危険性を決定付けたと言っていい。
 こうなってくると厄介なのが、警戒レベルに属する者たちの人数だ。秀之がざっくり数えるだけで十数人が思い浮かぶ。危険レベルの人間も含めると、およそ五十人いるプログラム参加者のうち三分の一近くが、近寄ってはならない人物ということになる。
 あまり行動が制限されてしまうと、何をするにもすぐに行き詰ってしまいそうで面倒くさい。だが、命を危険に晒さないためには、この判断に沿って慎重に動くより他に無いだろう。
 あまりにがんじがらめの状況に、この場から逃げ出したい衝動に駆られるが、それは叶わない。
 恐る恐る自らの首に触れてみると、金属の冷たい感触が伝わってくる。生徒達をプログラムに縛り付けるための、例の爆弾入り首輪である。こいつを外すことができない以上は、馬鹿げた殺人ゲームに最後まで付き合うしかないのだ。
 あーくそっ、なんでこんなことになっちまうかな……。
 ため息をつきながら身体を伸ばして仰け反る秀之。木々の隙間から覗く星の瞬きをぼんやり見つめていたが、すぐに体勢を戻して周囲へ注意を張り巡らせる。えもいわぬ悪寒と人の気配を、背筋に急に感じたのだった。
 誰かいるのか?
 先ほど立ち去ったはずの宏が戻ってきたのかと一瞬思ったが、すぐにその考えは違うと分かった。気配は砂浜とは逆の方角――秀之がいる森のさらに奥から感じた。
 慌てて再び息を殺し、自らの存在を消すことに全神経を注ぐ。
 姿勢を低くして音を立てないように気を使いながら、気配がする方向に目を凝らす。が、木々と生い茂る枝葉の陰に隠れているのか、人の姿らしきものは確認できない。
 正体が分からない敵の接近から、緊張に押しつぶされそうになる。急激に高鳴る心臓の音が、森じゅうに反響してしまっているような気がして、他人の口を塞ぐかのように必死に両手で胸を押さえた。
 掌に感じる鼓動はかつて無いほどに早く、そしてとても激しかった。
 相手はあまり警戒心を持っていないのか、がさがさと豪快に茂みを掻き分ける音をたてている。なんと無用心なことだろう。敵に見つかってしまうことも考えられない、馬鹿の所業としか思えない。
 そんな頭の悪い奴の正体はいったい何者なのか見極めようと、闇の奥へ向けた視線を微動だにさせず、その姿が露になる瞬間を待ち続けた。
 草木が擦れ合う音がだんだんと近づいてくる。整備されていない足場の悪い中を進むからか、その歩みは非常にゆっくりではあったが、既に確実に秀之を捉えられるほどの距離にまで迫っている。
 逃げ出すべきタイミングはとうに逃した。ある程度足の速い人間であればこの程度の間合いでは、全力で逃げる秀之を捕まえるくらい造作もないであろう。
 見つからないように隠れてやり過ごす、これが最善の手段。相手の姿を見極めたうえでそれができればより完璧。
 ほどなくして、秀之の視界にある樹木の裏から、黒い影がのそっと姿を覗かせた。肩の辺りまで髪を伸ばしたショートボブの小柄な少女。ちょうど木々の隙間から差し込む月明かりの中を通過したため、その顔まではっきりと見えてしまった。
 頭を抱えたい衝動に襲われた。
 警戒レベルの人間には近づかないと決めたばかりなのに、よりによって“彼女”に遭遇してしまうなんて……。
 月明かりに浮かび上がった少女の頭の上で、ピンク色のカチューシャが鈍く煌く。
 少女の名前は森下藍子(女子二十番)。警戒レベルに属する存在であり、秀之が最も出会いたくない人物の一人であった。



【残り四十七人】

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