001
−闇の世界(1)−

「うわぁっ!」
 短い悲鳴のような大声を上げながら、彼は勢いよく布団から跳び起きた。心拍が異常なほどに早まり、荒い息遣いが部屋の中に響く。
 掌で額に触れてみると、汗でぐっしょりと濡れていた。
 嫌な夢を見た。なにかとてつもなく恐ろしい存在に追いかけられたという、曖昧な記憶しか残されていないが。つららでも差し込まれたように、今もまだ背筋が冷たい。
 いったいどうしたことだろう。昔から悪い夢に目を覚まさせられることは多かったが、なぜか最近は特に酷い。ここ一週間だけでも、夜中に三回は起こされた。
 ただでさえ受験が半年後に控えていて睡眠時間がろくにとれなくなってきているというのに……。そろそろ勘弁してほしい。
 くしゃくしゃとヒステリック気味に、髪の毛の逆立った頭をかきながら辺りを見回すと、ルームメイトである小学六年生の啓太と、二年生の純平の寝顔が目に入ってきた。幸いなことに彼らは悲鳴に気付いていないらしく、布団の中で寝息をたて続けている。
 まだ幼い二人の面倒をみてほしい、と園長に割り当てられた三人部屋は、お世辞にも綺麗に片付いているとは言えなかった。八畳の限られたスペースには落書きされたノートや漫画などが散らばり、低いテーブルから落ちた小箱を中心に、オセロの駒が床に放射状の模様を描いている。
「オッサンかお前は……」
 呟きながら、寝相の悪さで乱れに乱れた布団を掴み、ガーゴーと断続的に豪快ないびきを発する啓太の上に優しくかけてやった。
 参った……。一度こういった形で目が覚めてしまうと、いつも決まってもう一度寝付くことがなかなかできないのだ。
 まだこんな薄暗い時間なのに、さてどうしよう。
 棚の上に置かれた地球儀型のシックな時計が、午前四時を示している。この国の人々の大半にとって、今はまだ眠りの時間であるはずだ。起きているのは新聞配達の兄ちゃんとか、テレビの朝番組のキャスターくらいだ。
 夜明けまでまだまだ時間があるが、眠れない以上、どうにか時間を潰さないと。
 考えながら、音をたてないように部屋の戸に近づき、そっと廊下へと出た。尿意をもよおしたので、とりあえずトイレに行くことにした。考え事は後でもいい。
 
 廊下に出ると、妙に外の静けさが気になった。怖い夢を見た直後だからか、年甲斐もなく薄暗い中を一人で歩いていると心細く感じたのだ。
 冷たい空気に肌を掴まれて、背筋がぴんと張り詰める。
「あー、もっとトイレが近い部屋に移動したい」
 ここ、養護施設“育清園(いくせいえん)”の敷地は千坪となかなか広く、それをいいことに部屋数が多い。児童各自に与えられる共同部屋以外にも、皆で集まって食事ができるダイニングや、絵本やコミックがある小さな図書室、ゲームや玩具で遊べる遊戯室など、色々ある。
 全ては二十七人いる児童達に不自由な生活をさせないための、施設側からの思いやりであった。
 ここにいる児童のほとんどは、家庭の事情で親元では生活することができなくなったという者達だ。その中には、正式な手続きを経て施設に預けられた者がいれば、心ない親に捨てられたという可哀相な者もいる。
 トイレに向かって静かに歩んでいる彼――沖田秀之(千葉県私立星矢中学校三年三組男子四番)は、まさに後者にあたる人間だった。
 物心つく前の出来事なので当時の記憶は無いが、園長達の話によると、雨の降る夏のある日に、海に近いとある町の中を、おぼつかない足どりで一人で歩いているところを警察に保護されたのだそうだ。もちろん警察は両親を捜したが、何ヶ月経っても見付からず、それらしい迷子の届け出も無かったため、最終的には捨て子だと判断された。そして、話を聞き付けたここの園長がその捨て子を引き取った、とのこと。
 これは本人にとってはかなり衝撃的な話なので、園長達は幼少期の秀之が傷つかぬよう考慮して、中学生になるまでずっと隠し続けていた。成長して真実の重圧に耐えられるほどの精神力が蓄えられたと判断されてからようやく、重く閉ざされていた口が初めて開かれたのだった。
 なぜ自分はこの施設にいるのか、真相を知る前から色々考えたりしてはいたが、実際に話を聞いて受けるショックは思いのほか大きかった。
 正直なところ、両親のことを恨んでいるかどうかと聞かれれば、秀之は「恨んでいる」と答える。いかなる理由があったにせよ、子供の気持ちや未来を考えずに捨ててしまうようなろくでもない人間に、同情する気持ちにはとてもなれない。
 その件が影響してか、秀之にもともとあった人間不振という精神的な病はより悪化した。やや吊り上がり気味の鋭い目付きで、出会う人間全てをよく見て、その内面を必要以上に探るようになったのだった。
 過剰かもしれないが保身のためには仕方が無い。近付くべきでない相手に誤って関わってしまい、これ以上他人に傷付けられてしまう、なんてことが起こってから後悔しては遅いのだ。
 そう、実の親ですら息子を傷付ける刃となったのだから、血の繋がりの無い他人なんて何をしてくるか分かったものではない。
 月明かりが差し込む長い廊下を歩いてほどなくして、トイレの前にたどり着いた。
 さっさと済ませて部屋に戻ろう。
 と、スリッパに足を入れようとしたとき、窓の外に気配を感じて振り向いた。
 砂場やブランコといった遊具が並ぶグラウンドの真ん中に、ドーム状の滑り台が見える。ここのグラウンド内では一番の高台だ。そのてっぺんに人影が座り、じっと空を見上げていた。
 視線の先に輝いているのは、真っ暗な夜を彩る月と無数の星達。
 秀之はスリッパに爪先まで入れていた足を引き戻し、窓のほうへと寄っていった。こんな時間に誰が外に出ているのか気になったのだった。
 長い髪の毛と丸みを帯びた身体のシルエットで、遠目にも男ではないとすぐに分かる。でも個人を特定するには至らない。
 秀之はさらに真剣に目を懲らし、人影に見入った。すると次第に暗さに慣れてきて、視線の先の人物の姿が鮮明になってきた。
「あいつか……」
 秀之は敵を見るような鋭い目を外に向けながら呟いた。
 滑り台の上にいるのは千銅亜里沙(女子八番)だ。秀之と同じく育清園で生活している女の子で、中学の同級生でもある。いやがおうでも顔を合わす機会が多くなる存在だ。だが秀之は彼女のことをあまりよく知らない。特異な外見から外国人の血が混ざっているのかもしれない、と勝手に推測するが、それも定かではない。
 背中まで伸ばされた金色の髪と白い肌が、暗い中で月明かりを浴びてよく映えている。若干癖がかった柔らかそうな髪は風をうけてふわふわとなびき、整った顔立ちを見え隠れさせていた。
 その洗練された造形は、まるで芸術家の手によって意図的に生み出された彫刻のよう。あるいはフランス人形をも連想させる。少なくとも、先人達の遺伝子の組み合わせによる、単なる偶然の産物としては出来過ぎだった。
 大袈裟な話ではなく、事実その外見のせいか亜里沙のことを気にかけている男子は多く、クラス内にはまるでお姫様でも相手にしているかのように特別扱いをしている者すらいる。思春期の健全な男である以上、スポットライトを一身に浴びる美少女を目にしては心を揺さ振られてしまっても仕方が無いのだった。
 四六時中亜里沙と顔を合わせていられる秀之の生活を、羨ましいと物欲しげにクラスメートに言われることは多々ある。同じ屋根の下で生活しているという立場であれば、亜里沙ともっとお近づきになれると皆考えるのである。しかし残念なことに、亜里沙と同じ屋根の下で暮らしている当の本人である秀之は、“ある理由”のために彼女と関わることはいっさい無い。一定以上の距離をとりながら、注意を払って暮らしてきた。そして、これからもその姿勢を崩すつもりは無い。
 秀之は気配を殺したまま亜里沙から目を引きはがそうとした。そのときに妙なことに気が付いた。
 グラウンドに一人で佇む亜里沙の影が、空を見上げながら口を動かしているのだ。何か話しているように見えるが、周囲には他の人間の姿は見られない。
 もしかして滑り台の後ろに誰かいるのかもしれない、と考えたが、気付かれないように秀之が窓をそっと開けると、そうではないとすぐに分かった。
 彼女は話をしていたわけではなく、歌をうたっていたのだ。ボリュームが抑えられているせいでその歌詞は聞き取れないが、メロディは耳にはっきり届いた。


 形容し難い不思議なメロディは、秀之がこれまでに耳にしたことがあるどの楽曲にも当てはまらない。
 全く知らない歌だ。なのに奇妙なことに、その歌を耳にしていると身体が熱くなってくる。悪い夢に起こされた先程と同様に心臓の動きが活発化して、汗が全身から噴き出してくるのだ。
 あの女は危険だ……。危険過ぎる。
 と、本能が激しく信号を発する。
 まるで高鳴る心臓の音に気付いたのかと思ってしまうようなタイミングで、ふいに亜里沙がこちらを振り向いた。それをきっかけに秀之は逃げるように部屋へと走りだす。
 相手がこちらの存在に気付いたかどうかは分からない。しかし正体不明の恐怖感のあまり、後ろを振り返ることもできなかった。

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