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−赤十字と策士(2)−

 島の規模と比べると、山代総合病院はなかなか大きい建物と言えるかもしれない。病棟は一つしか無いようだが、四階もの高さがあって、それでいて面積もかなり広そうだ。人々が政府に追い出される以前は、島に建つ唯一の大型医療施設として重宝されていたに違いない。
 圭吾の後を追ってさらに近づくと、木々に邪魔されて狭まっていた視界は広がり、病院の全景がよりはっきりと見えるようになってきた。病棟の外壁はほんのりとクリームがかった白をしており、薄暗い森林の中心に潜むような位置にありながらも、はっきりとその存在を浮き立たせている。青々としたエレガンティシマの列に囲まれた敷地内には、乗用車三十台ほどが停められそうな駐車場があるので、町からここまで上ってくるための車道がどこからか伸びているはずだが、何かの死角になっているのか、千秋の位置からでは確認できない。


「ここから先は、特に注意して行動したい。中に入るところを誰かに見られたりしたら、後々面倒なことになる恐れがある」
 千秋たちが追いついたことを確認すると、駐車場の手前で立ち止まっていた圭吾が小声で言った。
「誰かに見られてしまったら、隠れ家としての意味がない、ってことね」
「そういうことだ。分かっているなら素早くついて来い」
 用心深く辺りの様子をうかがい、誰もいないことを確認してから駐車場を駆け抜ける圭吾。日没を過ぎ、さらに視界を遮るほどの雨が降り続ける現在、誰かに姿を見られる可能性は低いかもしれないけど、注意するに越したことはない。真緒を背負ったまま自分も一度辺りを見回して、それから最後の力を振り絞るように、病棟まで一気に走ることにした。
 ところで、千秋はてっきり、車椅子用のスロープが伸びる正面玄関から中に入るのかと思っていたが、どうやらそうではないらしい。先を走る圭吾は正面玄関前をあっさりと通過し、まったく別の場所を目指すように走っている。訳が分からぬままだが、千秋はその後に続くことにした。
 建物の角を曲がって脇に入ると、景色はまた一段と狭くなる。駐車場等の開けた空間があった正面と違い、病棟の裏手は木々や茂みといった植物が、所狭しと生茂っているのである。といってもそれは自然に生えたものではなく、人の手によって植えつけられた、いわゆる観賞植物であるらしかった。また、よく見るとならされた土の表面には、バジル、ミント、レモンパームといったハーブの姿も見られる。家庭菜園というやつだ。
「ここから中に入る」
 立ち止まった圭吾の側には、茂みに半分隠れたような状態の窓がある。彼が枠に手をかけて横に引くとガラス窓は簡単にスライドし、割られて空いた穴が茂みの中から姿を現した。きっと圭吾が初めて訪れた時、ここから手を突っ込んで鍵を開け、侵入したのだろう。閉めるとガラスの穴が茂みに隠れてしまうここの窓は、侵入した形跡を隠すのに適した出入り口だったといえよう。
「先に俺が入る。そして外から中へと羽村を受け渡し、最後にお前が入って来い」
 そう言って圭吾はひょいと窓枠を飛び越えて、建物内へと入る。千秋は肩にかけていたデイパックを地面に下ろしてから、背中に乗せていた真緒を抱きかかえ、窓枠越しに圭吾へと渡そうとする。その際に、疲労のせいなのか前に倒れてしまいそうになったが、親友の身体を落としてはならないと自分に言い聞かせ、なんとか踏みとどまった。そしてデイパックを投げ入れてから、自分自身も建物の中へと入る。雨を凌げるような場所に立ち入ったのは久しぶりだ。
 最後に振り返って窓を閉めると、確かに割れた部分が外の茂みにうまく隠れた。よくできている。
 千秋たちがまず入ったこの部屋は、ICU集中治療室らしい。ベッドの周りには、人工呼吸器、血圧監視装置心電図モニターなどが設置されている。
「このまま『発案者』が待つ部屋へと向かう。もう一度羽村を背負い直して来い」
 これでやっと歩かずに済む、と思った矢先にすぐこれだ。千秋は再び、肩に荷物、背中に真緒、という状態になって、扉から廊下に出た圭吾の後に続かなくてはならない。既に限界がきている足でさらに歩かなくてはならないというのは辛いが、これまで余計な会話を拒み続けていた圭吾から聞きだすことの出来なかった、『発案者』なる人物の正体と、その方が何を企んでいるのかをようやく知ることが出来る。そう思うと少しだけドキドキした。
 電灯が消えてほとんど真っ暗な病院の廊下は、妙に足音が反響するように感じる。もしかしたらこの音を聞きつけて、発案者は既にこちらの存在に気付いているかもしれない。
 診察室や手術室などと書かれたいくつかのプレートの下を通り過ぎたところで、廊下は急に広がりを見せた。横長の腰掛が並び、一台の大型テレビが置かれているここは総合受付フロア。普段は待合の患者達で賑わっているであろうその空間も、今は静まり返っている。
「このまま階段を上がるぞ」
 発案者は今も三階の病室にいるはず、とのこと。そんなわけで受付フロアの脇に見える階段へと向かっているわけだが、出来ることならその隣のエレベーターを使いたかった。ゴールはもう目の前とはいえ、真緒をおんぶしながら疲れきった足で階段を登るというのは、さすがにつらい。しかしプログラム中は島中の電気が止められているらしいので、エレベーターが動くはずなどなく、残念ながら階段を使う他なかった。
 濡れた髪から雫を垂らしながら、一段一段ゆっくりと登る。足の上げ方が甘く、何度か躓いてしまいそうになったが、これまた気力と根性でなんとか耐え続けた。必死になったときの人間の底力って計り知れない。
 苦労の末三階にたどり着いた時にはもう、圭吾はその先に伸びる廊下を真っ直ぐに歩き出していた。聞こえるのはその足音だけ。本当にここに誰かがいるのか疑ってしまいたくなるほど静かだ。
 コツ、コツ、コツ。
 圭吾のものよりも一段と大きい、二人分の体重がかかった足音を響かせながら進む。
「ここだ」
 ほどなくして先導者の足が止まり、茶色がかったファッショングラスがこちらを振り向いた。
 圭吾が立っているのは「一般病室」と書かれたプレートの前。扉の側にあるホワイトボードは、縦に一本、横に二本の黒線で六つに分けられ、その一マス一マスに一人ずつ、計六人分の女性の名前がペンで丁寧に記されている。それはきっとプログラムが始まる前まで入院していた方々の名前に違いない。そのことから、ここが女性六人を収容可能の大部屋であると、扉を開ける前からなんとなく想像できた。
 そんなことを千秋が考えているうちに、圭吾は扉に手を伸ばしている。合図も何も無く急なことだったので、正体不明の人物と向き合うための気持ちの整理なんてまだ出来ていないのだが、今さらどうすることもできない。
 目の前で引き扉はあっさりとスライドし、千秋が頭に思い描いていた通りのベッドが六つ並んだ空間が現れた。白いパイプで組まれたベッドには同じく白いシーツがかけられ、壁も天井も、ベッド同士を仕切るためのカーテンも、何もかもが白で統一されている。そんな空間のど真ん中に例の『発案者』はいた。薄暗い中で腰に手をあてて堂々と立つ人物のシルエットがはっきりと見える。
「遅い」
 影の第一声はそれだった。はっきりとした芯の通ったその声には、少し怒りに近い感情がこもっていたようで、得体の知れない威圧感のようなものを感じさせられた。
「無事に帰ってきたというのに、何故文句を言われなければならない」
「無事だろうが何だろうが、なかなか帰ってこなかったら心配して当たり前でしょ。だいたいすぐに戻ってくるつもりだったんじゃないの?」
 刺々しい口調でまくし立てながら近寄ってきたのは女。出入り口付近にまで迫ってきた時になってようやく、千秋の目はその正体を見抜いた。
「蓮木さん?」
 肩の辺りでカットされたウェーブをソフトムースでキープした後、マットワックスを馴染ませてボサボサ感を表現した、特徴的なミディアムショート。極めて整った顔立ちと、芸能人やモデルにも負けないほどスタイルの良い体つきは、蓮木風花(女子十三番)の他思い浮かばない。
「誰?」
 千秋の声で初めて圭吾の後ろにいる人物の存在に気付いたらしく、風花は訝しげにこちらに尋ねた。
「春日千秋。それから真緒もいっしょにいる」
「春日千秋さんに羽村真緒さん……。いったいこれはどういうこと?」
 一人でここを出た圭吾が二人も客人を連れて戻ったことに、風花は少し驚いている様子だった。ちなみに彼女が千秋や真緒の名をフルネームで連ねたのは、これまであまり親しく接したことが無い証拠とも言える。
「例の場所にいたから連れてきた。ただそれだけだ」
「それって、七人が集まっていたE−六地点のこと?」
 千秋は驚いた。この女、どうしてE−六に七人の人間が集まっていたことを知っているのだろうか。いや、そういえば圭吾も、湯川利久に襲われている自分達の前に現れる以前から、そのことを知っていた様子だった。
 いったいどういうこと?
 それはこちらこそが聞きたい。
「それよりも、先に怪我人の処置を優先するべきだろう。話はその後でいい」
「怪我人?」
 圭吾の脇をすり抜けて、風花が千秋たちの方へとやってくる。そして背中の上の真緒を見て、「なるほどね」と呟いた。
「何? この子撃たれたの?」
「そういうことだ。急所は外れているが出血が酷い。応急処置は施したが、ちゃんとした治療が必要だ」
「止血点に巻いている包帯代わりのネクタイの圧迫を三十分に一度は緩め、ちゃんと血液の循環はさせたでしょうね」
「あ、それは私が――」
 歩いている最中に圭吾に突然言われ、固く結ばれたネクタイを苦労して緩めたのだった。その間にまた圭吾に引き離され、後を追いかけるのが大変だったと言う記憶がある。
「オッケー。それじゃあとりあえずその子の治療が先ね。話はその後。聞きたいことは山ほどあるしね。入ってらっしゃい」
 聞きたいことが山ほどあるのはこちらの方だ。
 千秋はそんなことを思いながら、手招きする風花について病室内へと踏み込んだ。その際に風花が何かを投げてよこしてきた。それはバスタオル。
 改めて自分の身体を見てみると、全身ずぶ濡れの酷い有様であった。

【残り 十九人】
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