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−赤十字と策士(1)−

 相変わらず比田圭吾(男子十七番)の歩みは速い。草木の繁る斜面の中腹に女二人を置き去りに、十メートル以上も前を進んでいる。もちろん仲間を労るような行動や言動なんかも全く見せない。けれど春日千秋(女子三番)はもう、そのことについてイライラしたりはしなかった。彼が先々と進むのも、こちらを相手にしないのも、行く先に敵が潜んでいたりしないかどうかを探り、仲間と自分を危険な目に遭わせないようにするためだと知ったので。
 圭吾が周囲に注意を払ってくれるおかげで、敵の襲来に怯えることも無く、安心して歩くことができる。だから千秋も、彼が精神を集中させるのを邪魔しないよう、極力話しかけるのを控え、黙ったままただついて行くのだった。
 しかしまあ、デイパック一つにまとめた数人分の荷物を肩にかけ、さらに女一人を背負ったまま圭吾について行くということの大変さは解消されておらず、その点の苦労だけは変わらず続いているのだが。
「ゴメンね」
 脇から伸びる枝の下をくぐり抜けようと身体を屈めたとき、千秋の背中の上で、幼馴染の羽村真緒(女子十四番)が空気中に消え入りそうなほど小さな声で言った。
「私が怪我なんかしなければ、千秋にこんな迷惑かけずに済んだのに」
「いいから気にしないで。私は真緒のことを迷惑だなんて少しも思っていないから」
 黙々と歩き続けていた千秋だったが、このときは後ろの怪我人を気遣った言葉を返さないわけにはいかなかった。
 千秋に時間の感覚などもはや無かったが、人間一人を担いだままの状態で歩き始めてから実は二時間も経っている。さすがにもう身体は限界にまで疲れきっていて、足が棒になるという言葉がまさにぴったりと当てはまるような状態だったけど、そんなことよりも真緒に「ゴメン」なんて言われるほうが、よっぽど辛い。だから千秋は真緒に気を遣わせないように、弱音を吐かず、自分はまだまだ元気だとアピールするのだが、またしばらくしたら真緒の口からは自然と「ゴメン」が出てくるのだった。
 こんなやり取りが何度続いたかは分からない。とりあえず、今までに真緒が「ゴメン」と十回以上言ったのは確実である。
 このまま放っておいては埒が明かない。余計なことを考える時間を与えてしまえば、真緒は頭の中に悲観的な思いをめぐらせて、きっとまたこれから先も同じ発言を繰り返す。ならば、そんな暇もないくらいに別のことを話し続けてやろう。
 千秋はそんなことを考えた。
「ねえ真緒、何が食べたい?」
「えっ?」
 脈絡のない千秋の突然の質問に、真緒は目をぱちくりとさせる。
「ウチの店に何度か食べに来たことあるでしょ。真緒がお客さんとして来たときは、ほとんど私が調理していたんだけど、その中で何の料理が一番いけてたのか知りたい」
「一番いけてた料理……」
 どうやら作戦は上手くいったらしい。質問を投げかけられた真緒はそれについて何と答えればよいかを考え始め、怪我して千秋に迷惑をかけていることに自己嫌悪するのも忘れてしまっている。
「難しいね。単に好物は何かと聞かれたら、トマトソースのスパゲティって答えるんだけど」
 そうそう、真緒はウチの店のメニューで唯一のパスタ、ナポリタンをたびたび注文していたっけ。
「でも千秋の料理で良かったのといえば、やっぱり肉じゃがかな?」
「意外」
 本当に意外だった。ナポリタンを避けるとしたら、エビフライとかトンカツとか、テーブルの真ん中に「でーん」と構えていそうな品を突いてくるかと思っていたのに、まさか肉じゃがなんて、テーブルの隅にでも追いやられていそうな地味な料理を挙げるとは。
「エビフライやトンカツも嫌いじゃないけど、やっぱり千秋の味が最も出ている料理は何かと考えたら、どうもこの辺じゃなかったんだよね」
「その理由は?」
「うーん、なんて言うか、トンカツやエビフライってのは、料理人の腕よりも食材の質の方が味に大きく関わってきそうなイメージがあるんだけど、肉じゃがってそうでもないじゃない。人それぞれ味付けが違ったりして、個性が出やすいと言うか……」
「入っている具も微妙に違ったり?」
「そうそう」
 真緒が大きく頷いた。
 たぶん、エビフライやトンカツといった品も、一流料理店のシェフなんかだったらいろんな工夫を凝らすだろうし、味にも個性は出ると思うのだけれど、千秋の店はごく一般的な作り方だったので、あえてそのことは挟まない。
「それで、真緒は個性の出たウチの肉じゃがを食べた上で、その味を気に入ってくれたってこと?」
 真緒は千秋の背中の上で少し考えて、
「うん美味しかったよ。千秋の料理への愛情もこもっていて、とても温かかったしね」
 なんて言ってから顔を赤らめている。恥ずかしいならもっと別の言い方を探せばいいのに、相変わらず素直で可愛いお方だ。
「千秋が作る家庭の味、またいつか食べてみたい」
「いつでもウチに来たらいいよ。大歓迎するからさ」
 言ってから千秋が微笑んで見せると、真緒も背負われたままの状態で小さく笑った。プログラムに選ばれてしまった以上、二人ともが生きて日常に戻れることなんて無いと分かっていたけれど、話している間に少しだけ時間の針を戻せたような気がして、つい嬉しくなってしまったのだった。
 それに、酷い出血で顔色を悪くしていた真緒にも、まだ話したり笑ったりするくらいの元気が残されているということを知り、安心もした。
「おい」
 今までずっと黙って前方を歩いていた圭吾が立ち止まり、千秋や真緒の方へと身体を向けている。声量は抑えていたつもりだったけど、話に盛り上がっている間、知らず知らずの内にうるさくしてしまい、そのことについて怒られるのか。と一瞬だけ思った。しかし、それは単なる思い過ごしだったらしい。
「目的地が見えた」
 圭吾が言った。目的地、それはイコール彼らのアジトを指す。
 やっと到着するのか。と、千秋はこの辛く苦しい山歩きがようやく終わるということに、ただひたすら喜んだ。
「それで、ゴールはどこなの?」
 身体を返して再び歩き始めた圭吾の背中に聞こうとしたが、その質問はすぐに引っ込めた。前方の木々の隙間からは白く大きな建物が見えていて、そちらへと圭吾が真っ直ぐに歩いていたので。
 最上階の壁に書かれている文字は『山代総合病院』。そここそが、間違いなく圭吾たちのアジトだった。

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