082
−放浪剣士(1)−

 背の高い木々の枝と葉によって形成されている天然の屋根が、降り注いでくる豪雨を頭上でいくらか軽減してくれてはいるものの、やはり崩れた天候の中山地を歩くというのは大変なことだった。木の根や枝に行く手を阻まれ、蔦が足に絡み付いてきて、茂みに視界を遮られて、と、ただでさえ邪魔物が多いというのに、さらに凹凸のある地面がぬかるんでしまっていては、ほんの少し前に進むだけでもなかなかに困難。一歩踏み出すごとに両方の足が土の中に沈んでいき、はたまた滑って転びそうにもなるのだ。
 運動靴ならまだしも、学校指定の革靴なんかを履いている状態で、こんなところを歩くなんて馬鹿げている。
 ぐしょぐしょに濡れた靴下に不快感を覚えながら、春日千秋(女子三番)は心底でそんなことを思っていた。しかし、かといって今さら舗装された道なんかを探してルート変更するわけにもいかない。先導する形で前を進む比田圭吾(男子十七番)と逸れてしまっては、目的地に到着することが出来なくなってしまうのだから。
 圭吾曰く、『発案者』なる人物が待つ彼らの本拠地に着くことが出来れば、重傷を負って応急処置だけ受けた幼馴染に、もう少しはマシな治療を施すことが出来る、とのこと。
 千秋はそれを聞いてすぐ、その場所に向かうために彼について行くことを決めたのだった。だけど、到着するまでに圭吾とはぐれてしまうという万が一の事態が起こった場合、途中で会った誰かに本拠地のことをうっかり洩らされては困るということで、明確な場所を教えてもらうことは出来なかった。だから千秋の独断で道筋変更なんてできるはずがなく、もとより黙ってガイドについて行くしかないのである。
 ところが、その引率者に置き去りにされぬようついて行くというのは、これまた非常に大変なことであった。全身の運動能力が発達している圭吾とは違い、千秋は特別体力に自信がある人間ではない。その上、刀一本だけ所持という、かなり軽装である圭吾に対して、千秋は人一人を背負って歩かなければならない。そう、幼馴染の羽村真緒(女子十四番)は致命傷こそ負ってはいないものの、ひどい出血のため直立することすらままならなくなっており、険しい山肌を自力で歩かせるなど、もはや不可能。そこで目的地まで千秋が真緒を背負いながら歩くことになったのである。
 そんなわけで、いくら懸命に歩いていても、大きなハンデを負った千秋は当然の如く後れを取ってしまうのだが、圭吾はそんなことなど端から気にしていないのか、こちらがもたついていても構わず、どんどんと先に進んで行ってしまう。
「ちょっと待ってよ」
 四十数キロの重みに耐えて歩きながら、前を歩く背中を呼び止めようとした。しかし千秋の声など全く耳に入っていないのか、男は振り向きすらしない。かつて生命を危険に晒してまで、少女たちを湯川利久の手中から救い出してくれた恩人の態度は今や一変して、呼び声にも全く答えないほど、とんでもなく無愛想になってしまっている。
 一体どういうつもりなのだろうか。
 他人との馴れ合いを好まないという彼特有の性質が、どうして今頃になって表面上に現れたのか、その理由について全く見当もつかない。
 次第に比田圭吾という人物そのものが分からなくなってきた。
 今や彼に関する不可解な点なんて数知れずだ。
 例えば、マシンガンを構える利久の手中から千秋達を助けてくれたこと。危険な目に遭っていたのが生来の大親友だったならまだしも、今までほとんど関わりのなかった女たちのために身を挺してくれるなんて、どうも腑に落ちない。
 クラス委員兼サッカー部キャプテンだった磐田猛との関係も気になるところだ。前に猛が信用できる人物として圭吾の名を挙げていたが、千秋が知る限りでは、二人の間に接点らしきものは見受けられない。それなのに、猛はどういう理由で圭吾のことを「信用できる」と断言できたのであろうか。
 利久と対峙した際の発言から推察するに、圭吾は千秋たちが潜んでいた廃ビルに到着するよりも以前から、そこに猛がいるのだとなんとなく予測していたらしいが、どうしてそう考えたのかも分かっていない。
 それから、彼が言う『発案者』という人物の正体も未だ謎のまま。いや、そもそも何を発案した人物なのかも不明なのだ。
 考え出したらきりが無いのだが、圭吾に関する謎がことごとく気になって仕方が無い。しかし残念ながら今の様子では、それらについて彼の口から回答なんて聞けそうにない。
 そもそも今はそんなことを考えている余裕もない。何とか歩くペースを上げて、圭吾にこれ以上引き離されぬようにしなければならないのだ。とはいっても、多くのハンデを埋めるなど、やはりたやすいことではない。二人の間隔はなかなか縮まらず、少しもたもたしていると、すぐに視界に映る男の姿は小さくなってしまう。
 こちらの気も知らずに、どんどん距離を広げていく圭吾の後ろ姿を見ているうちに、少しずつイライラが募ってくる。そもそも、か弱い女の子に人を担がせておきながら、屈強な男がほとんど手ぶらで軽々と前を歩いているということ自体、おかしいのではないだろうか。
 いくら相手が命の恩人だといっても、ここまで無礼な態度を取られ続けていては、さすがにそろそろ我慢の限界だった。
「いい加減にしてよね」
 ついに千秋が吼えた。すると、ずっと反応を見せなかった圭吾が、初めてこちらを振り向いた。
「なんだ?」
「なんだじゃないわよ。人一人担ぐのを女の子に任せておきながら、先々進んで行っちゃうなんてどういうことよ?」
 ようやく相手がこちらを気にしてくれたのをいいことに、千秋はまくしたてるように言った。
「誰かに見つかるかもしれないから、そんなに大きな声を出すな」
 圭吾の意見は賢明だ。だが残念ながら、今はこの勢いを抑えるなんて出来そうにない。体力的にも精神的にも疲労が溜まりすぎているせいで、ほんのちょっとしたことでも憤慨しやすくなっているようだ。今から思えば、以前猛に突っかかってしまったのも、疲れによる影響だったのかもしれない。
 それはともかく、後ろの二人をちょっと待つとか、歩くペースを落とすとか、そういう気配りを少しくらい見せてくれても良いではないか、と千秋は詰め寄った。だけど圭吾は、
「そんなに辛いなら、わざわざ俺について来なくたって良いだろう」
 と、千秋たちには他に行き場なんて無いと知っておきながら、とてつもなく意地の悪い返事をしてくれる。
 そういう問題じゃないでしょ、と千秋がさらに言い返そうとしたときだった。圭吾が突然、腰のベルトに挿していた鞘から刀を抜き、その突先で千秋の背中におぶさっている真緒を差した。
「聞くが、お前の背中に乗っている“それ”は荷物か?」
「それ、って……」
 ぎらぎらと輝く刀身を突然向けられたせいで、緊張のあまり身体が硬直し、思わず息を呑んでしまう。それは真緒も同じだったようだ。背中の上に乗った小さな身体はかすかに震え、肩にかけていた手に力が入る。
「そいつがお前にとっての何なのか俺の知ったことではないが、邪魔なら今ここで殺してしまえばいいだろう」
「ば、馬鹿なこと言わないでよ! 真緒は私にとって一番大切な友人なのよ! そんなことできるわけ無いじゃない!」
 圭吾が何を考えているのかは分からないけど、今の発言だけは聞き捨てならない。全身を盾にして真緒を庇いながら、力いっぱい噛み付き返す。すると圭吾は「そうだろう」なんて言いながら、真緒に向けていた刀を下ろした。
「もしもそいつをほんの僅かでも見限るような言葉を聞いていたら、今頃俺は羽村ではなく、お前を殺していたかもしれない」
「……」
 比田の目が真剣だったので、冗談でしょう、などと突っ込むことはできなかった。
「お前が本当に大切に思っているのなら、いちいち文句など言わず羽村を運んでやれ。一番辛い思いをしているのはお前の幼馴染なんだってことを忘れずにな」
 刀身が腰に収まると、鞘と鍔がぶつかって、カチンと音がする。その鍔音が鳴るのと同時に彼はこちらに背中を向けて、さっさと先に歩き出してしまった。
 その後ろ姿を見つつ、千秋は少しの間呆然としていた。
 千秋が弱音を吐けば吐くほど、足を引っ張ってしまっている真緒が罪悪感を覚えてしまう、と、きっと彼はそう注意したかったのだろう。
 いったいなぜ、今までそんなことにも気付かなかったのだろうか。よく思い返してみると、確かに今までの自分の発言の中には、真緒の精神に負担をかけてしまうような要素が、少なからず含まれていたかもしれない。
 いくら疲労が激しいからとはいっても、さすがにこれはいただけない。
 千秋はこれまでの無神経な発言に、心から恥じることとなった。
 だけどよくよく考えてみると少しおかしい。ある意味正論だった発言に惑わされてしまったが、無愛想な圭吾に対する抗議から、冷静さを欠いた千秋の発言への注意に、いつの間にか論点がすり替えられているではないか。そのくせ、あれだけ偉そうに上から物を言っておきながら、結局彼は千秋に真緒をまかせっきりだし、歩くペースも変わらぬままだ。千秋が必死になって追いかけなければならないという状況は、全く改善されていない。
 この男、やっぱりよく分からない。というか、ズルイ。
 口元を尖らせながら、およそ二十度ある斜面を急いで上り、先に行ってしまった圭吾を追いかけた。すると、突然薄暗い樹林が途切れて、広い空間が目の前に現れた。
 コンクリート壁に周りを囲まれた巨大なダム。圭吾はその縁で立ち止まっていた。

【残り 十九人】
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