078
−仮面下の真実(10)−

 アスファルトの地面に膝をつけていた男は、千秋の方を一瞥してから、無言のまま立ち上がった。そして、ファッショングラスの茶色いレンズの越しに、つり上がりぎみの鋭い目を、突然の訪問者に少し驚いている様子の利久へと向ける。とはいっても、一番驚いていたのは利久ではなく、千秋だったのかもしれない。開いた口が塞がらないわけではなかったが、逆に閉じていた口が固まってしまい、開くことができなかった。
「驚いた。これはとんだ珍客だ」
 利久はすぐに、マシンガンの狙いを千秋から外し、新たに現れた標的へと向け直す。しかし長身の男は銃器の威圧にも動じないばかりか、さらに鋭い眼光を放ちながら、相手を睨み返しさえする。
 この男には恐怖感というものが存在していないのだろうか。
「比田くん? どうして――」
 ようやく開いた口から男の名前を出した。そう、千秋の前に立っているのは、クラスメートの比田圭吾(男子十七番)。クラブ活動には何一つ参加していないというのに、そこいらの運動部に所属している男子生徒なんかよりも筋肉隆々で身体が大きい。トレードマークのファッショングラスの下に見え隠れする目つきは、恐ろしいほどに切れ長で鋭く、そのうえ彼は他者との馴れ合いを好んでいないらしく、人を寄り付かせないようなオーラを常に纏っている。それゆえに、女子たちを中心にクラスメートの多くから、密かに怖がられていたりする。
 同じ理由で、千秋も彼のことを近寄りがたい存在だと思い、接触する機会などこれまでにほとんど無かった。しかし一つ確かなのは、そんな彼によって死の淵から助けられたということ。状況から考えて、千秋が被弾せずに済んだのは、どこかから飛び出してきた圭吾に突き飛ばされ、銃弾の軌道上から外れることができたから。
 千秋は分からなかった。マシンガンを持つ利久の前に現れれば、自らも標的にされるだろうと分かっていただろうに、圭吾はどうして危険を犯してまで、特別親密なわけでもない千秋なんかを助けてくれたのか。だから「どうして助けてくれたの?」と、聞くつもりだったが、まだ口が上手くまわらないせいで、言葉は中途半端なところで途切れてしまったのだった。だが、そんなことはどうでもよかったのかもしれない。真正面から銃を向けられている圭吾が、悠長に千秋の相手などするはずはないのだから。
 案の定、彼は千秋の問いかけに対し、何一つ反応を見せはしなかった。


「なんだお前。まさかその刀一本で俺とやり合うつもりか?」
 ボタンを外したブレザーをワイシャツの上から羽織っている圭吾の全身を、舐めるように眺めてから、利久は呆れたような顔をした。そう、圭吾は右手に一本の刀を握っているが、それ以外に武器を持っている様子はない。間合いの外にいるマシンガンの男が相手では、刀の男に分があるとはとても思えない。不十分な装備で場に現れた圭吾に対して、利久が呆れてしまうというのは、当然のことだったといえよう。
 だが、圭吾は尚も動じることはなかった。
「俺のことなんかよりも、自分の身を心配したらどうだ」
 彼はそう言って、ちらりと視線を横にずらした。つられて利久も圭吾の目線を追いつつ、後方を振り返る。二人が見つめる先にあるのは燃え盛る廃ビル。建物中が派手な朱に塗りたくられたせいで、静かで寂しげな雰囲気は消し飛び、今や全くイメージの異なった外観へと変貌してしまっている。そんな灼熱地獄のすぐ脇、鉄製の非常階段の足元に何者かが立っているということに、千秋はようやく気がついた。
 全身に包帯を巻き、両手に大振りのナタとライフルのような武器を持っているその人物は、間違いなく御影霞。いつの間にか、あの炎に包まれた建物の中から、非常階段を伝って脱出していたらしい。
「驚いた。よく無事に出てこれたね、御影さん」
 圭吾と霞を結ぶ直線上に立っていた利久は、両脇のターゲットに銃口を交互に向けつつ、その場にいる人物全員を一望できる位置へと歩く。ちょうど、圭吾、霞、利久の三人の立ち位置を結ぶことで、三角形が出来上がるような形になった。
 互いに敵意を剥き出しにしている三つの頂点に形成されたトライアングルの中では、どす黒い暗雲が渦を巻き、轟々と雨風が吹き荒れる。そこから撒き散らされる気迫はとてつもなくて、千秋なんかはその側にいるだけなのに、ビリビリと肌に刺激を感じた。
 霞は頭を左右に動かしながら辺りの様子を一瞥し、不思議そうに首をかしげる。
「これはいったいどういうことかしら?」
 仲間だったはずの千秋たちに、利久はなぜ銃を向けているのか。先ほど建物内では見られなかった圭吾が、いつの間にここに現れたのか。廃ビルが突然炎に包まれたのはなぜか。霞が言った「どういうことかしら」には、これら全ての疑問が含まれていたようだった。ほんの少し目を離している間に、事が思いがけぬ方向に動き出していたという、まさに浦島太郎状態。さすがに状況を整理できないようで、不思議そうに首をかしげている。だけど、彼女の疑問に答える者はいなかった。事の全てを一から話していてはきりがないし、それに千秋には、逆に霞に聞きたいことがあったから。
「磐田くんは、いったいどうなってしまったの?」
 灼熱の廃ビルの足元に立っているのは霞だけ。自分たちと一緒に下りてきていない以上、磐田猛はそれからも廃ビル内部に留まり続けていたはず。それなのに、利久が放った炎が建物じゅうに広がっている今となっても、彼が外に出てきている様子はない。猛は無事にビルから脱出することができたのか。頭の中に張り付いた嫌な予感を気にしつつも、どうしてもすぐに知りたかった。だけど、こういうときに限って予感というのは的中するもので、直後、聞いてしまったことを後悔することとなる。
 まるで罪悪感など感じていないのか、霞は問いかけにさらりと答えた。
「私が殺したわ」
 ――と。しかし千秋はすぐにそれを信じることは出来なかった。つい数分前まで元気な姿を見せていた彼が、今はもうこの世に存在していないなんて、たちの悪い冗談としか思えなかったから。
「そんなの嘘よ! 磐田くんが死ぬはずない! だって――」
 だって私を守ると言ってくれた。だから正義感の塊のような彼は、その言葉どおり私や真緒を救うために、今すぐここに現れるはず。そう信じて疑わなかった。だけど千秋の中に存在していた望みはいくら美しくとも、所詮は脆く壊れやすいガラス球のようなもの。見てはならないものが視界に飛び込んできた途端に、ヒビは一瞬にして広がって、いとも簡単に砕けてしまう。
 霞が手からぶら下げているナタの刃先からは、ぽたぽたと一定間隔で何かが滴っている。最初それは単なる雨の雫かと思ったが、液体は生々しい赤色をしており、人間の血液であるということは明らか。そう、おそらくそれは猛の血なのだろうと、千秋は直感した。その瞬間、正面から向き合うことを避けていた現実から、これ以上目を背け続けることもできなくなってしまった。
 磐田猛は死んだ。
 愕然とした。そしてあまりに大きなショックを受けてしまったせいなのだろうか、千秋の視界の中だけで、世界じゅうの景色が激しく揺れた。体感震度はレベル七。荒れ狂った大波が押し寄せてきて、瞬く間に大都市が壊滅に追いやられてしまうような、それほどの揺れであった。
 いっそう勢いを強めた雨に打たれながら力なくうなだれていると、瞼の裏に隠れた源泉からは、いつしか涙が溢れ出していた。雨は頬を伝う涙をすぐに洗い流してはくれた。だけど、心の中に染みついた悲しい思いまでは、洗い流してくれなかった。
「磐田だと?」
 割り込んできたのは圭吾。
「磐田のやつは、やっぱりここにいたというのか?」
 細長く整えられた眉の間に、しわがくっきりと浮かび上がる。
「ええ、いたわよ。今言ったとおり、頭を砕かれた彼はもう生きてはいないけどね」
「愚かな」
 圭吾の言葉には不可解な点があった。「やっぱりここにいたのか」という言動から察するに、彼は到着する前からここに猛がいると推測していたようだ。
 いったいどうしてそのように考えたのだろうか。ギリッと奥歯を噛み締める姿を、涙でぼやけた視界に写しつつ、不思議に思った。
「そんなことはどうでもいい! ビルに火を放ったのは、いったい誰なの!」
 自分の身が危険にさらされたことに、霞は大変ご立腹のよう。
 廃ビルからなかなか出てこない霞や猛を、建物もろとも焼き払おうとした当の本人は、頬の筋肉を緩め、クックックッ、と、おなじみの意地の悪い含み笑いを、再び周囲に漂わせ始める。
「何がおかしい!」
 霞は声を荒げながら、ライフルのような物のバレルの先を利久に向けた。しかし利久は驚いた様子もなく、逆にマシンガンの狙いを霞に合わせてみせる。
 所持している武器を比べたところ、立場的に優位なのは明らかに利久。マシンガンなんて向けられては、霞も下手に攻撃に踏み出せない。
「いやいや、だって、全身火傷に苦しんだことのあるお前が、また火に飲み込まれそうになったなんて――」
 溜まりに溜まったおかしさを押さえきれなくなったのか、利久はついに腹を抱えて大声で笑い出した。
「ビルの外に出てから三人を仕留めるという、全く面白味のない終幕を迎えるはずだったこの劇のラストに、突然御影が飛び入り参加してくれたというのは、本当に幸運だったよ。おかげで今もこうして楽しい時間を過ごせている」
「まさか、あなたがやったの?」
「ああ、俺が燃やした」
 力のこもった霞の目線を身体に浴びつつも、利久はこれまたあっさりと言う。人間なら誰もが持っているはずの感情の内いくつかが、彼の中では欠落してしまっているのだとしか思えない。
「そうだ、話のついでにあの事件の真相を教えてやろうか?」
 その場の空気が一瞬にして凍りついた。
 あの事件。利久はそれについてまだ具体的な話はしていないが、おそらく今ここにいる人物全員が、全く同じ出来事を頭に思い浮かべていたに違いない。
「あの事件って、まさか二年前の――」
「ああ、松乃中等学校大火災のことさ」
 二年前の大火災。理科実験室から発生した炎が校舎じゅうに広がって、七十以上もの人命が焼き尽くされた、被災者ならば誰しも忘れたくても忘れられないという大惨事。半木造の校舎は元の面影を全く残さぬ程にまで焼け落ちてしまったため、火災が発生した原因を含め、今も多くの謎が残されたままだったりする。そんな松乃の火災の真相を教えてやるとは、いったいどういうことなのだろうか。
 一割の好奇心と九割の不安が押し問答している最中、顔に笑みをたたえたままの利久が、ゆっくりと口を開く。
「実はあれ、俺が起こしたんだ」
「えっ?」
 目の前にまばゆいばかりの稲光が走ったかと思いきや、その直後、高圧電流が体内を駆け巡った。倒れたまま荒い息ばかりを繰り返していた真緒も、衝撃的な事実に驚いている様子。
「つまり、校舎に火を点けたのはお前だということか」
「その通り」
 呟くように言った圭吾の言葉にもあっさり反応する利久。
「なんてことをっ」
 悲鳴に近い声を勢いよく押し出しているのは、心底から湧き上がってくる、とてつもなく巨大な怒りと悲しみの混合体。
 松乃中学校に通っていたころ千秋には、真緒や智香の他にも、醍醐葉月という親友がいた。
 親の育て方が良かったのだろうか、葉月は心優しいだけではなく、とても礼儀正しい少女だった。中学入学後に初めて出会った智香の、軽々しいながらもフレンドリーな態度も親しみやすかったが、それとは対照的な葉月の淑やかな性格にも惹かれるものがあって、それに幼馴染の真緒を加えた四人は、すぐに仲良くなってしまったのだった。
 松乃中学に通っていた期間はたったの半年ちょっと。その短い時間の中で一緒に暮らしていくうちに、彼女達は親睦を深め合い、そしてかけがえのない友情というものを手に入れたのだった。だけど、そんな微笑ましい様子のどこかが気に入らなかったのだろうか、神様は彼女達にとんでもない仕打ちを与えた。
 どこからともなく降り注いでくる火の粉を身体に浴びながら、千秋たちは涙を飲んで大切な親友に背を向けた。葉月は瓦礫の下敷きになって身動きとれずにいるというのに、足は勝手に前に進んで後戻りすることを許してはくれなかった。自分の命と親友の命を天秤にかけて、どちらが大切かなんて比べられるはずがない。だけど、この時ばかりは出口を目指して走るしかなかった。それは真緒も智香も同じだった。三人とも命からがら校舎から脱出し、自らの存在を未来へと繋ぐことができたが、見捨てられた葉月は身も心も灼熱の炎に焼き尽くされて、夢も希望も消し飛んでしまった。
 以来、千秋たちは親友の死に悲しみ、そして見殺しにしてしまったという罪に苦しみ続けたのだった。
 そして今、校舎を燃やしたのは自分だ、と言う一人の男が目の前に立っている。
 思い出したくもない当時の様子が頭の中に蘇ると同時に、人生至上最大の怒りが込み上げてきた。
 あの男が葉月を殺した。いや、全ての運命を狂わせた。
 身体中がブルブルと震え、爪を立てて握り締めた拳の内側からは血が滲み出ている。渾身の力を込めた鉄拳を今すぐあの悪魔の顔に叩きつけてやりたい、などと女らしくもないことを思うものの、相手の手に握られている圧倒的力を誇る武具を前に、悔しいが最初の一歩すら踏み出すことができない。
 だけどせめて聞かせてほしい。葉月を含め、なぜ多くの人命を奪ってまで学校を燃やさなければならなかったのか、を。
「どうしてよ! なんで学校を燃やされなければならなかったのよ!」
 怒りに任せて疑問を投げかけた。訳が分からないまま命を奪われてしまった葉月のためにも、これだけは知っておかなければ気がすまない。
 ところが、これまで全ての問いかけにあっさりと答えてきた殺人犯、及び放火魔は、どうしたことか難しい表情をして一瞬黙り込んでしまった。だけどすぐに調子を取り戻して、
「今回と同じさ。学校中の奴らが死の恐怖に怯えながら、慌てふためいて駆けずり回る様子を見物したかっただけ」
 なんて憎たらしいことを言ってくれる。問答の間に挟まれた数秒の沈黙は気になったものの、結局、火を放った理由なんてくだらないものだった。こんな愚の骨頂に付き合わされた末に葉月は命を落とした、なんて思うと、たぎる怒りを冷ますことなんてもはや不可能。
「馬鹿にするんじゃないわよ!」
 なんて言葉が勢い良く飛び出してくる。だけどそれは千秋の口から出てきたものではなかった。黙って話を聞いていた霞が、千秋が大口を開けるよりも一瞬早く、怒りにまかせて叫んだのだった。
「あなたのそんな馬鹿らしい暇つぶしに付き合わされて、私は全身ズタボロにされたと言うの!」
 そういえば、彼女もまた火災の被害者だった。利久の遊びに知らぬ間につき合わされたせいで、全身を焼かれ、病床で二年間苦しみ続けてきたなんて分かれば、当然怒りも頂点に達する。
「なんだやる気か? お前の持っているその玩具と、俺のマシンガンでは勝負にならないと思うが」
 全身から湯気でも上がりそうな霞に対して、利久の態度なんて冷めたもの。この場にいる人物の中で一番優位な立場にいると分かっているだけに、今にも相手が襲い掛かってきそうになっても、全く焦りもしない。
「確かに、今の状態では私に勝ち目は無いでしょうね。だけど――」
 霞は構えていたライフルのような物体を下ろす。
「だけど私は貴様を殺すまでは諦めないっ!」
 突如その場に突風が吹いた。突然のことに利久が一瞬尻込みした隙に、霞は素早くポケットから何かを取り出し、先端からピンを引き抜いて投げた。勢い良く投げられたので形状はよく分からないが、大きさは栄養ドリンクのビンほどのように見える。それがトライアングルの中心に向かって、真っ直ぐ飛んでいっている。
「目と耳を塞げっ!」
 そう叫んだのは圭吾だった。


 磐田猛(男子二番)――『死亡』

【残り 十九人】
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