千秋が階段の中腹で身を固めていると、荷物を抱えて降りてきた真緒と利久が、背後で立ち止まった。
「こんな所で立ち止まって、どうしたんだ?」
不思議そうな顔をして尋ねてきたのは、最後尾を歩いてきた利久。
「誰か下にいるらしいの」
振り返りざまに口元に人差し指を立てて、静かに、と千秋が注意を促すと、後ろにいた男女の顔は、みるみるうちに緊張の色に染まっていった。
一階にいるって、いったい何者なのだろうか?
猛の後ろに立つ三人が一斉に耳を澄ます。すると階下から、カツンカツン、と確かに人間のものらしき足音が聞こえた。向こうも警戒しているのだろうか、出来る限り足音を忍ばせようと努めているようだったが、物音がよく反響する建物内で足音は完璧には消えず、不気味さの演出に拍車がかかっているだけに思えた。
一瞬、亜美たちを殺した犯人はやはり外部の人間で、それが今になって再び動き出したのかと思ったが、階下の人物はビル内部をしらみつぶしに調べ回っているようで、どうやらたった今ここに侵入したばかりらしかった。
「くそっ、仲間が三人も死んで監視役がいなくなっていたというのに、ぐずぐずしていたのはマズかったな。話し合いなんて後にして、さっさと出て行くべきだった」
抑えた声で猛が悔しそうに言った。しかし今さら嘆いたって仕方が無い。階下を歩いている人物は、いずれ二階三階と上ってくるだろう。相手が敵か味方かも分からないという状態で、ここでそれを待ち受けるのはあまりに危険。
「一階にある俺と春日の荷物が見つかっている可能性は高い。奴が一階全てを調べ終えて、階段を上ってくるのは時間の問題だろう。仕方が無い。上階の鉄扉を開錠して、気付かれないように非常階段で外に逃げるぞ」
猛が体の向きを返すと、他の三人は頷きながら後退を開始する。プログラムの恐怖を存分に味わってきたメンバーの中には、相手の正体を知りたいという好奇心に駆られるような無鉄砲はいないらしい。
沈静した階段を、四人は足音を殺しながら、ゆっくりゆっくりと上っていく。縦に並んだ八本の足がスローペースで動く様は、さながら一匹の芋虫が葉の上を進むかのようだった。
ふと千秋は心配になった。忍び足で徘徊する侵入者に自分達が気付いたように、階下にいるその人物だって、足音を殺しながら階段を上るこちらの存在に、すぐに気付くのではないだろうか、と。しかし幸運にも、こちらの存在はまだ相手に知られてはいないらしく、ビル内に響く不気味な足音は、まだ下の階でうろうろしている。
少し安心しつつ次の一歩を踏み出したときだった。劣化が進み亀裂が走っていた一段に千秋の体重が加わった途端、コンクリートの表面から欠片一つが崩れ落ちた。
カタン。
辺りの空気が急に張り詰める。サイコロ大の欠片が一段下で跳ねる音は、「微かな」という修飾語がぴったり当てはまるようなものだったにもかかわらず、鍾乳洞の奥で滴る水音のように、建物内によく響き渡った。
長い年月をかけて劣化したコンクリートが崩れるというのは、一種の自然の摂理のようなものであるが、それが起こるきっかけを作ったのは紛れも無く千秋。謝って済まさせることではない。
息を殺す四人体が自然と硬直する。「もしかして、今の音で気付かれたか」といった考えが、皆の頭の中によぎったのだろう。
千秋は再び耳を済ませた。先ほど聞こえた不気味な足音が消え、降りしきる雨の音が外から聞こえる以外には、何も耳に入ってこない。
もしかして、もう外へと出て行ってしまったのだろうか。
一時の静寂の中に身を置きつつ思った直後、再びあの不気味な足音が耳に入ってきた。あろうことか、こちらに近づいてきているように聞こえる。
「やっかいなことになった。気付かれたかもしれないぞ」
猛が顔をしかめた。
はっきり聞こえるようになっていた足音は、一度真下で立ち止まったかと思ったが、数秒の間を置いてから、ゆっくりと階段を上り始めた。もはや疑う余地は無い。階下の人物は間違いなく、千秋たちの存在に気づいている。
猛がバットを構えるのを見て、鉄パイプを握る千秋の手にも力が入る。後ろでは、武器も持たず緊張に身体を固めるしかない男女が、心配そうに前線の二人を見ている。
「いいか、いつでも逃げ出せるように身構えておけ。相手が敵じゃないならそれでめでたいことだが、勝ち目の無い戦いを強いられることになったら、無様だろうがその場は即退散。上の階まで全速力で走って相手を引き離してから、非常階段で外に逃げるぞ」
猛は仲間達を庇うように三階の手前で仁王立ちした。
下からの足音がだんだん近づいてくる。おそらく、もうすぐ二階に達するというところにまで来ている。その不気味な響きに圧倒されたか、メンバー達が一斉に息を呑む音が聞こえた気がした。
足音は二階を通過してさらに上ってくる。もはやこちら四人と相手を隔てているのは、亀裂の走ったコンクリート壁一枚のみ。位置的には千秋の斜め下2、3メートルほどの所に、もうその人物は近づいているはず。
固唾を呑む四人の目は、階段の曲がり角――二階と三階の間の踊り場付近へと自然に向けられる。はたして、次の瞬間にそこから姿を現す人物は、いったい誰なのか。
曲がり角の壁の後ろから、ゆっくりとそれは姿を現した。壁を掴む左手、こちらを覗き込む頭、という順で姿を見せた相手の体のパーツは、いずれも白い包帯でぐるぐる巻きにされていた。そして次に壁の後ろから現れたのは、右手に携えられたライフルのような物体。
「逃げるぞっ!」
相手の正体を確認した瞬間、猛は有無を言わさずに叫んだ。だが言われるまでも無く、千秋をはじめ、メンバー達は一斉に階段を駆け上がり始めていた。
逃げずにはいられなかった。壁の向こうから現れた包帯ずくめの少女、御影霞(女子二十番)の姿を見た瞬間、経験したことも無いほどの恐怖を感じてしまったからだ。殺意に満ち溢れた目と、獲物の出現に喜んでいるような、僅かに端がつり上がった口元、それらには生きとし生ける者達全てを震え上がらせるだけの力があった。
戦うとか和解するとか、そういった選択肢など用意されていないと瞬時に感知した。
逃げるしかないじゃない。あんなの……あんなのを前にしたら、逃げるしかないじゃない。
身体中の震えが止まらず、鉄パイプを持つ千秋の手からは力が完全に失われてしまっていた。
目の前には千秋と同じく、一目散に走り逃げようとする真緒と利久の姿がある。その背中を追いかけるように、とにかく足だけを動かして、上の階を目指して駆ける。もはや建物じゅうに響く複数の足音が何人分であるかも分からない。そのうえ、恐怖のあまり後方を振り向くことも出来ないため、霞が追いかけてきているのかどうかも分からない。しかしそれでも、とてつもない殺気を放つ白き夜叉から、一センチでも遠くに逃れたいという思いから、足の動きは止まることを知らない。
ひび割れたコンクリートの段を二つ飛ばしで駆け上がっていると、すぐに五階に到着した。
「早く! ここから外に出るんだ!」
先頭を走っていた利久が、五階廊下の奥の鉄扉を開錠し、後に続く者たちに手招きしている。
右の肩にデイパックをかけたまま走っていた真緒の小柄な身体に続いて、千秋も開け放たれた鉄扉の枠の間をすり抜けた。
およそ半日ぶりに出た建物の外の天候は最悪だった。まだ真っ昼間だというのに、まるで世界の終わりかと思わされるほど薄暗く、天から降り注ぐ雨の勢いはまた一段と激しくなっている。完全に乾ききっていたグレーのブレザーが、ほんの数秒で水玉模様になっていく様は見事なものだった。だが今はそんなことを気にしている場合ではい。建物の外に飛び出した面々は、そのまま後ろを振り返ることも無く、今度は非常階段を全速力で駆け下りる。
カンカンと激しく足音を鳴らす鉄製の階段はこれまた劣化が進んでおり、一歩を踏み出すたびに大きく軋んだ。チョコレート色の塗装が剥がれ落ちた箇所から錆が広がっていて、柵が根元から折れている所もあった。だが、御影霞に後ろから追いかけられることの方が恐ろしくて、今にも崩れ落ちそうな階段の上を走ることなど今や何とも思わない。
四階、三階、二階と、非常階段と建物内部を繋ぐ堅強な鉄の扉が、一つまた一つと目の前を通り過ぎてゆく。一度雨に足を滑らせて、踊り場で強く尻餅をついたが、そんな微々たる痛みに構うことなくすぐに立ち上がり、だんだんと迫る固い地面を目指して、とにかく走った。
勢いあまって最後は下から五つ目の段から飛び降りた。アスファルトの上に着地した瞬間、両足に衝撃が走ったが、なんとか体制を崩すことなく立ったままの体勢を保てた。
振り切ったか?
建物から離れるようにさらに走りつつ、千秋は下ってきたばかりの非常階段の方を振り返った。だが不思議なことに、そこには御影霞の姿が無かった。それだけではない。自分と一緒に走ってきていると思っていた、ある人物の姿までもが見られない。
磐田くんがいない!
辺りを見渡したそのとき、千秋の耳に、タタタタと、聞きなれぬ音が飛び込んできた。それは人の生死を司る悪魔の咆哮。
千秋の視界の片隅で、誰かの身体が鮮血を振りまきながら二メートルほど前に吹っ飛んだ。
【残り 二十人】 |