074
−仮面下の真実(6)−

「この建物から出るって、いったいどうして?」
 円上に並ぶ四つの点のうち一つが、隣に座る猛のほうへと身体を乗り出しながら声を上げた。春日千秋だ。
 皆を集めてまで何を話すのだろうかと思っていたところに、猛が突如「このビルからそろそろ出よう」などと言い出したのだが、千秋はその意図を掴むことができず、聞き返さずにはいられなかったのだった。しかし、真緒に疑いの目を向けていた猛に対する鬱憤が、まだ完全には収まっていなかったのだろうか、あろうことか声のボリュームが少し大きくなってしまった。慌てて自らの口を手で押さえたものの、時既に遅し。怒声ともとれるその声は、コンクリートむき出しの壁に囲まれた空間内でよく反響した。
 途端、真緒が口元で人差し指を立てて見せたので、素直に両手を合わせて頭を下げることにした。まったく、プログラム中に大きな声は厳禁だってことくらい分かっているのに、情けない。
 素直に謝ると、それからは特に誰からもお咎めを受けることはなかった。皆、話のほうに集中したいのだろう。
「ここから出る理由なんて説明するまでもないだろ。藤木を殺した犯人が見つかっていないという現状では、このままこの建物内に潜み続けるなど、とても正当な判断であるとは思えない。犯人はもうここにはいないという可能性も無きにしも非ずだが、ビル内部に正体不明の殺人者がまだ潜んでいるという考えも、決して否定できたものではないからな」
 確かに、そう言われると建物からすぐに出るべきだという意見にも筋は通る。しかし千秋は猛の言葉に「おやっ?」と思わされた。
 先ほど二人で話していた時、彼は仲間内に犯人がいる可能性があると強調していたので、この場でも同様の話をするのかと思っていた。しかし彼が始めたのは意外にも、「犯人が外部の人間である場合」に関する話。いったいどういうつもりなのだろうか。
 しかしよくよく考えてみると、「お前達のどちらかが藤木を殺した犯人だ」なんてこと、容疑者とされている二人に向かって言えるはずが無い。だからこそ彼は、千秋と二人きりになった時になって初めて、真緒や利久にも注意を払うべきだと言ったのだった。
 そう、四人での会話を穏便に進めるにあたっては、真緒たちの前で内部犯の可能性を唱えるということは、最大級の禁忌。つまり、猛がその話を今この場に引っ張ってこないのは当然のこと。
「それともう一つ、激しく降り続ける雨を嫌う者たちが、ここに集まってきてしまう可能性も大いにあるからな」
「雨避けが少ない山中では、この建物は雨宿りに絶好な場所だというわけか」
 利久が呟くと、猛は「そうだ」と言って頷いた。
 確かに、廃墟と化したこのビルは所々で雨漏りしてはいるものの、雨宿りするにはとくに何の支障もない。外でまともにスコールを浴びることを嫌い、雨避けを求めてここに人が集まってきてしまうということは、十分にありえる話だ。もちろんその人物というのが、害のない善良な存在であるならば、問題など全く無いのだが、プログラムという極限状態の中では、そんな甘い考えは実現しないと考える方が利口。肉に飢えたハイエナのような輩が寄ってきてしまったら、それこそ大問題だ。
 これまでに何度か窮地を体験したことあるからなのだろうか、そんな考えがごく自然に浮かぶ。
「つまり、建物の中に今も隠れているかもしれない殺人者、及び、これから集まってきてしまうかもしれない新たな敵から逃れるために、ここから出ようというわけね」
「簡潔に言えばそういうことだ」
 身体を前に乗り出した真緒と目線を合わせつつ、猛は再び頭を上下させた。しかし、おそらく半分は嘘。内部犯の可能性を疑い始めている彼が、仲間以外の誰かが潜んでいる可能性を恐れるなど、ほんの少し不自然だ。たぶん、ビルから去る本当の理由は、新たに現れるかもしれない敵から逃れるためということのみで、誰かが潜んでいる可能性について話したのは、猛が内部の人間を疑い始めていることを、真緒や利久に感付かれないようにするためではないだろうか。
「それで、もうすぐにでもここを出るの?」
「ああ、出発を遅らせたところで、メリットなんて無いからな。どうせ出るなら早い方がいい」
 一呼吸おいてから、「藤木たち三人の遺体をこの場に取り残していくのは、ちょっと後ろめたいけどな」と、猛は少し寂しそうな顔をして付け加えた。
「というわけだが、何か反対意見でもあるか?」
 一応念のためにといった感じの質問に、真緒も利久も首を横に振って、反対意見は無いという意思を示した。自分達以外の誰かが潜んでいるかもしれないという考えをまんまと刷り込まれ、これ以上ビル内に留まり続けることに恐れをなしたのだろうか。それとも――。
「反対意見は無いようだな。それじゃあ早速、ここを出る仕度を始めてもらおうか。お前達、荷物はどこに置いてあるんだ?」
 荷物といっても、持っているのは政府から支給されたデイパックくらいだ。
「僕は五階。ビルの外の監視をしていた時から、ずっと窓際に置いたままだったから」
「私も。由美子と交代したときに、一応持って上がったんだった」
 利久と真緒が順に答えると、猛が「お前は?」とでも言いたげに視線をこちらに向けた。
 確か、どうせ大した物は入っていないという理由から、デイパックは一階フロアの片隅にずっと放置したままだった。放送時に禁止エリアを書き込むのに使った、地図やボールペン等はまだポケットに入ったままだけど。
 千秋がそれを伝えると、猛はすぐに、「それじゃあ、とりあえず上の階の荷物を回収しに行くか」と皆に向かって言い、立ち上がった。猛の荷物も一階に放置されているらしいが、それらは建物から出る直前にでも回収するつもりなのだろう。
 早速、真緒たちの荷物を回収するために、三階フロアの隅に見えていた階段を、四人連れ立って上り始めた。木製のバットを握り締めた猛が先頭、利久が最後尾という、男二人が女達を挟むような形は、申し合わせたわけでもないのに、ごく自然に組まれていた。だが、前後を守られた状態であろうとも、千秋は何故か安心することは出来ず、護身用の鉄パイプを握る手に、必要以上の力が入っていた。犯人は外部の者ではなく、もしかすると内部の人間の中にいるのかもしれないという考えが、頭に張り付いて離れなかったからだ。
 千秋は一段一段上りながら、前を歩く真緒の後姿を見つめた。十年以上もの時を共に過ごしてきた友の身体はとても小さく、二人ものクラスメートを殺した凶漢だとは、とても思えない。それなのに自分は心の奥底で、か弱い幼馴染のことを僅かに疑い始めている。もちろん彼女が殺人者であるなどとは思えず、猛に歯向かったりはしたものの、推理を覆せなかったためなのだろうか、頭のどこかでは考えたくも無い可能性を排除できずにいたのだった。
 三階から上り始めて五階に到着するまでは、本当にあっと言う間だった。一度捜査を終えた階なので誰もいないはずだと思いつつも、一応辺りの様子を警戒してみた。ひとまず人間が隠れているような気配は感じられない。
「それじゃあ、各々荷物をすぐに回収してきてくれ」
 何事もなく五階フロアに到着した途端、猛は千秋を除く二人に指示した。真緒と利久はすぐに、自分達の荷物が置いてある部屋へと散る。
「さっきはすまなかったな」
 二人の後姿を見届けていた時、突如猛が小さな声で言った。顔は横を向いていたが、側には千秋しかおらず、誰に向かって言ったのかは一目瞭然。
「俺は、お前たちの仲を断つつもりはなかった。ただ、春日に危険な目に遭ってほしくないと、そう思っただけだったんだ。だけど、だからと言って、お前が羽村を疑いの眼で見るなんてこと、出来るはずが無いよな」
 ほんの数分前までの自身を見限るような自嘲的な笑みを浮かべた後、猛は振り向き、今度はしっかりと千秋に目線を合わせてきた。そして言った。
「お前はもう、余計なことを考えるな。最後まで幼馴染を信じてやればいい。お前の身は俺が守ってやるから」
 それに対して千秋が返答することは出来なかった。十秒かかるかかからないかというほどで、真緒たちがすぐに戻ってきたからだ。荷物を回収するだけだから、さほど時間がかからないのは当然のこと。
「よし、それじゃあ早速ここを出るぞ」
 戻ってきた二人ともがしっかりとデイパックを抱えているのを見て、猛はすぐに踵を返し、たった今上ってきたばかりの階段を下り始めた。
 千秋はその後ろに着きながら、今度は猛の後姿を見つめた。力強くて広い背中が、今は萎れてしまっているように感じる。
 疲労困憊。今の彼の状態は、まさにこの一言に尽きるのではないだろうか。体力的な面でももちろんだが、きっと精神的な疲れは相当なものなのだと思う。その疲れの原因の一端は自分が担っているのかと考えると、なんだかいたたまれない気持ちになってきた。
 猛は別に女二人の仲を引き裂こうとしたのではなく、ただ千秋の身を心配してくれていただけなのだと、それくらいのことは初めから分かっていた。少なくとも心の奥底では。しかし、何よりも真緒のことを大切に思っていた千秋は、ついつい一時の感情にまかせて怒りの方を全面的に押し出して、本当は分かっていた相手の気持ちに背を向けてしまったのだ。
 冷静になって考えるうちに、自分のしたことがどれほど愚かなことだったかが分かってきた。それにつれて、いつまでも意地を張り続けている自分自身が馬鹿らしく思えてきて、胸の辺りが次第にきりきりと傷みだした。
「磐田くん……」
 ついに耐え切れなくなり、千秋は三階を通過した辺りで呟いた。
「あたしの方こそゴメン」
 本当に小さな声だったので、遅れてついて来る真緒や利久には、たぶん聞こえていないと思う。
 猛は階下へと目を向けたまま、「なあに」とだけ言った。とても短い言葉だったけれど、今の千秋には何よりも温かいものであるように感じられた。そして不思議なことに、そのたった一言でだけで、からからに渇いた喉が潤されたような気がした。
 何度も命を助けてくれた恩人との仲違いによって発生する精神的苦痛は相当なもの。だから千秋はきっと知らず知らずの内に、猛との仲が改善されることを望んでいたのだろう。
 猛の言葉の中に込められていた温かさが、冷え切った身体によく染み渡った。
「ありがとう」
 背中に向かってもう一度、渾身の思いを込めた言葉を、そっと投げかけた。途端、前を進んでいた猛の背中が急速に迫ってきて、反応が遅れた千秋はそこに顔を埋めてしまった。
 固い背骨にぶつけてしまった鼻を手で押さえながら、何事かと尋ねようとすると、二階の手前で立ち止まった猛が振り返り、開きかけた口を押さえてきた。
「一階に誰かいやがる」
 猛が抑えた調子の声で言った瞬間、千秋の中で針のように鋭く尖った緊張が走った。

【残り 二十人】
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