071
−仮面下の真実(3)−

 立て付けの悪いくすんだ色の扉がギギッと音を立てながら開き、湯川利久がそこから頭を覗かせる。
 彼の目の前に広がっている梅林中の教室丸々一つ分ほどの空間は、資材の山に埋もれた多くの部屋とは違い、物が何一つとして残されていないせいで少々寂しげ。長い年月の間に劣化したビニル床タイルが所々で捲れ上がり、コンクリートの味気ない灰色がむき出しになっていたりで、とてつもなく見栄えが悪い。
 閑散とした部屋の中は静まり返っており、人がいる気配など全くと言って良いほど感じられないのだが、少女の姿はその片隅に確かに存在している。
 軽く癖の入ったベリーショートは、後ろから見ていると男だと間違えてしまいそうなのに、それでいて性格は人一倍淑やかという、なんだかアンバランスな少女――羽村真緒は窓辺に両肘をつけるような体勢で寄りかかり、どこか遠くへと視線を向けながら、静かに物思いにふけっている様子。
 数時間前までは海の上を走る地平線がくっきりと見えていた美しき景色も、降りしきる雨と舞い上がった白い水蒸気に隠されてしまい、今は外を眺めていても興味をそそられそうなものなど見当たらない。それだというのに、真緒は割れた窓の向こうへと目を向けたまま。
 利久は部屋に一つしかない扉を閉め切って、人差し指で頬の辺りを掻くような仕草をしながら、背を向けたまま振り返りもしない真緒の方へと、一歩だけ近づく。
「どうしたんだい。急に一人でこんなところに入ったりして」
 利久の穏やかな声は雨音にかき消されて耳に届かなかったのか、それとも単に心ここにあらずな状態なのか、真緒は黙って外を眺めたまま、何一つリアクションを見せない。それでも利久は真緒の反応を待ち続けていたが、三十秒経っても進展がないとなると、さすがに「待ち」の状態を保っていた体勢を、改めないわけにはいかなかったようだ。
 もう数歩だけ真緒へと近づいて、再び「どうしたんだい」と声をかける。距離と声量から考えても、今回は絶対に聞こえているはず。しかしそれでもなお、真緒は返事をしないばかりか、振り返りもしない。かといって彼女は『心ここにあらず』な状態だったのかと言うと、決してそうではなかったらしい。利久の二度目の問いかけから、じっくりと十五秒も間をおいてから、真緒はぼんやりと声を発した。
「外の空気」
 時間差をつけて返ってきた的外れな言葉に、利久は当然「えっ?」と聞き返す。すると真緒は再び呟くようにして、「外の空気が吸いたくなったの」と言い直した。
「辛気臭い話が続いたせいで、気分を悪くしたのかい?」
「そんなところ……かな」
 なんとも歯切れの悪い返事であるが、利久は別に気にする様子もなく、その話はそこで切り上げた。急に別の部屋へと入っていった真緒が何をするのか気になっていたようだが、結局は何をするでもなく、ただ窓辺にぼんやりと寄りかかるだけだったと知って、興味が削がれてしまったのだろうか。
「ねぇ、一つ聞いていい?」
「何をかな?」
 相変わらず振り向きもせず、このまま背中越しに話を続けようとする真緒に、利久は眉一つ動かさずに聞き返した。
「湯川くんさ、亜美を殺した犯人は由美子だろうって、妙に力強く主張していたけど、本当のところはどう思っているの?」
 つい先ほどまでは使用するのを避けていたはずの「殺」という漢字一文字が、何故か今の真緒の言葉の中には違和感なく含まれている。しかし気がついていないのか、それとも気がついた上でスルーしているのか、利久はいちいちそんなところを突っ込んだりはしなかった。
「何を急に聞くのかと思えば……。そりゃあさっき話していたことが本心だって決まっているじゃないか。それとも、羽村さんは、僕が嘘をついているとでも言うの?」
「さぁ。ただ、犯人であるはずの由美子は死んだのだから、もう危害が及ぶ心配は無いんだと、私達を安心させるために言ってくれているのかもしれないと思ってね。湯川くんって優しいからさ」
「なるほどね。だけど僕はそんなつもりはないよ。それより、そういう考えが思いつく羽村さんの頭にこそ、何か別の仮説が浮かび上がっているんじゃないの?」
 すると真緒は何か考えているのか一瞬だけ黙り込んでしまったが、五秒後、雷鳴が轟くのとほぼ同時に「いいえ」とだけ返した。
 利久はあいまいな目つきをしつつも、ふうん、と鼻を鳴らした。
「まあいいや。羽村さんが急に席を立ったことには心配したけど、別に大丈夫そうだね」
「うん。心配してくれてありがとう」
「仲間だからね。さあ、春日さんも心配していたみたいだし、そろそろ向こうに戻ろうよ」
「あ、先に戻っててくれないかな? 私ちょっと一人で考えたいことがあるから」
 利久は踵を返しながら「分かった」と言って、そのまま扉へと歩き出した。
「千秋には心配しなくても大丈夫だって言ってあげてね」
 利久が背中を向けた途端、真緒は初めて後ろを振り向いた。
 それは必然のことだったのか、かくして二人が目を向き合わせることは、結局ただの一度すらもなかった。黒く淀んだ目を。


【残り 二十人】
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