065
−杖突きの決断(9)−

 黒河龍輔は真っ暗な闇の中にいた。いや、肉体は日の当たる場所にちゃんと存在していたが、土屋怜二が放り投げた炸裂閃光弾の効果によって、聴覚と共に視覚も奪われてしまった今、いくら周りを見渡したところで、彼の目に景色は黒単色にしか映らなかった。
「どこへ行きやがった! 畜生畜生畜生!」
 予想もしなかった相手の不意打ちをまともに受けてしまった悔しさから鬱憤が募り、腹の底に溜まったそれをぶちまけるべく、まるで本物の獣のように大きく吼える。ところが、聴覚が失われてしまっているせいで、自ら発した声ですらも、真っ暗な空間内に溶け込むようにして消えてしまう。
 何も見えない、何も聞こえない、そんな経験したこともない事態が、彼を恐怖に陥れる。
 誰かがすぐ側に立っているような気配が、一人暗黒の世界に落とされてしまった龍輔に常に付きまとう。頭の中にのみ姿を現した虚像を相手に、ファイティングナイフをひたすら振り回す姿は、さながら奇怪なダンスを踊る道化のよう。
 でたらめに振り回されるナイフの刃に触れたものは全て切り裂かれ、ぼうぼうに伸びた草や木の葉の切れ端が、龍輔の周囲で乱舞する。しかしいくら暴れ続けても、彼の恐怖が生み出した架空の敵の気配は、頭の中から一向に離れてはくれない。
 ことに悲惨だったのは、ありとあらゆる痛みを感じなくなってしまった最強の身体。視覚と聴覚が失われた上に、さらには痛覚までもが消失してしまっている今の彼には、世にあるもの全ての存在が感じられない。木々がざわめく微かな音も、すぐ脇を走り抜ける小動物の姿も、何もかもが無でしかなかった。
 もし誰かが近づいて来ていたとしても、今の龍輔はそれに気づくことはできないだろう。いや、実際、少し離れた場所に一人の少女の姿があったが、彼はその存在に気がついてはいなかった。
「誰かの喚き声が聞こえると思って来て見れば――、なんて愚かな姿なのかしら」
 血の染み付いた大振りのナタを右手に携えてゆっくりと近づいてくる御影霞(女子二十番)の不気味な声も、龍輔の耳には全く届いていなかった。ただ、何も聞こえないがゆえに、いつ何処から誰に襲われるか分からないといった恐怖感は頭から消えず、ナイフを振り回す腕の動きは止まることを知らない。それだけが、彼の身に敵が近づくのを妨げていた。だけど、落ち着き払った霞の態度は全く変わらない。
「なるほどね。これのせいで何も見えず、そして何も聞こえなくなってしまったわけね」
 先ほどの戦闘の際に土屋怜二が取り落としていた未使用の炸裂閃光弾を見つけ、それを拾い上げながら霞は納得したように言った。もちろんその声も龍輔には聞こえていない。そして、くすくすと笑いながら背後へと回り込んだ霞が、ナタを高く振り上げているのにも気がつかない。
 直後、叩き割られた頭の頂から、脳漿と血とが混じった液体が飛沫となって辺りに降り注ぐ。痛みも何も感じられない龍輔は、全身に走る衝撃にも気がつかないまま、瞬時に意識を放散させた。


 霞は見事に砕けた頭からナタを引き抜き、死してもなお全身の筋肉を膨張させたままの龍輔の死体を一瞥し、辺りに散乱する三つのデイパックへと歩を進めた。
「他にも誰かいたのかしら……」
 誰に言うでもなく一人で呟きながら、一番近くにあったデイパックのジッパーを開く。厚紙の箱に詰められた注射器の束が出てきて顔をしかめたとき、彼女の手に水滴がかかった。それを発端に、霞の頭上を覆う木の葉の屋根が、ぱらぱらと音をさせ始める。どうやらまた雨が降り出したようだ。
 忌々しげに遠くの空を見上げたとき、視界の端に何かが映った。鬱蒼と繁る緑の中で明らかに浮いて見えるその建物は、薄汚れた外壁で形成された廃ビルだった。


 黒河龍輔(男子六番)――『死亡』

【残り 二十人】
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