028
−約束の場所(3)−

 プログラムに巻き込まれるという極限状態の中、参加生徒が精神に何らかの支障をきたすということは少なくない。過去何年にもわたって行われてきたプログラムの歴史の中では、そんな者の数など知れずといった状態だ。
 そんな中、恐怖や緊張が限界点へと達してしまうと、僅かながらにでも正気を保っていた生徒でさえも、心をついに崩壊させてしまうという事態にまで発展してしまうこともある。発狂もちょうどこれに当てはまる。
 今回プログラムに参加させられることとなった、兵庫県立梅林中等学校三年六組の生徒の中にも、こんな状態に陥ってしまった生徒は存在する。
 ただでさえ乱れていた長い癖毛をさらに振り乱しながら、行く当てもなくフラフラと森林内を歩き続ける少女。氷室歩(女子十六番)
 二年前に起こった兵庫県立松乃中等学校大火災の被災者である彼女は、事件以来壊れてしまっていた。
 火災の恐怖によって、彼女は異常をきたした自らの精神を安定させることができなくなってしまい、気持ちの高ぶりがある一定ラインを越えてしまうと、幻覚を見たり意味不明な言葉を叫んだりするようになってしまった。
 そして、今回プログラムに巻き込まれてしまったという事実には、歩の気持ちの高ぶりを非常ラインを超越させてしまうだけの力があった。そのためだろうか、今の彼女の目には、常人になら絶対に見えるはずのないような不思議な光景が映っている。
 目の前に広がっている森林内を埋め尽くすように、空気中を漂っている煙のような巨大な物体。それをよく見ると、目や鼻や口らしきものがついており、さらには自分の意思で動き回っているようで、まるで気化してしまった人間の姿のように思える。
 あれはいったい何なんだろう?
 歩がそう思っていると、これまでただ漂っていただけだった煙のような物体がこちらを振り向き、突如襲い掛かってきた。それを見て歩は驚いた。
 まさか悪霊?
 自分に襲い掛かってくる悪霊の姿に恐怖した彼女は、意味不明な叫び声を上げながら走り出した。
 逃げなきゃ! 逃げなきゃ殺されちゃう!
 死にたくないという一心で、全力疾走をする彼女。だが懸命に走ろうとしているつもりでも、どうしたことか足がふらふらと揺らぎ、真っ直ぐに走ってはくれない。
 じつは、精神異常に陥ってしまっていた歩は、平衡感覚までもを失っていたのだ。
 視界がぐらぐらと揺れる中、よろけてその場に倒れこんでしまった。
 振り返って迫る敵の姿を確認すると、やはり距離はかなり詰められており、逃げることは不可能だと思われた。
 このままじゃ殺されちゃう! いやだ! 私は帰ってドラえもん見るんだ! だからまだ死にたくない!
 継続して高まり続けた恐怖感は、歩の人生至上かつて無いほど巨大なものに成長した。そしてついに、混乱していた彼女の思想は、恐るべき方向へと向かいはじめた。
 そうだ、殺される前に殺しちゃえばいいんだぁ!
 名案を思い付いたと言わんばかりに口元をつり上げて笑んだ歩は、手に持っていた拳銃、グロック19を襲い掛かってくる悪霊へと向けた。そしてそのまま狙いを合わせもしないうちに引き金を絞った。
 腕に強い反動を受けた歩は、その勢いで身体を背後へとのけぞり、地面に頭を強く打ち付けた。だが頭の痛みなどまるで感じていないかのように、すぐさま起き上がって悪霊達へと視線を向けた。
 歩の目に映し出されたのは悪霊の最期だった。
 見事に弾を命中させられた痛みに苦しみもがき、全身を赤々とした炎で燃やされながらのたうちまわっている一匹の悪霊。歩の手の中から発射された正義の聖火に身を包まれた悪霊は、助けを求めるかのようにこちらへと手を伸ばしてきた。しかし、歩へとあと少しで届くというところで、ついにその全身は燃やし尽くされ、灰となった悪霊は一陣の風にさらわれて、その場から姿を消してしまった。
 もちろん、実際には悪霊など存在しておらず、歩が撃ち出した銃弾はあさっての方向へと飛んでいき、そのままどこか遠くにへと消えてしまっていたのだが、歩には自分の目の前でそのような出来事が起こっていたかのように思えていた。
 一つの危機を乗り越えたつもりになっていた歩は、自分には悪霊を退治できるほどの力が隠されていたのだと思い込み、そしてその発見を喜んだ。
 すごい! 手から飛び出した炎が悪霊を燃やしちゃった! 私って、こんなにも凄い力を持ってたんだ!
 もはや何者も恐れることはないと笑い出す彼女。その狂った笑い声が森林内にこだまする。
「アハッアハッ! アハハハハハハハッ!」
 だがその笑いは長くは続かなかった。歩の視線の端に、先ほどのとはまた別の悪霊の姿が映っているのに気が付いたからだ。
 笑いを止めた歩は、新たに出現した悪霊へと目を向けた。
 先ほどの煙のようなやつとは異なり、今度のは全身の筋肉を隆々と盛り上がらせている二本足の獣。頭から二本の鋭い角を伸ばしているそれは、昔読んだホラー小説の挿絵に描かれていた牛魔人とかいうのとよく似ていた。
 なんにしろ、こいつもまた邪悪な存在であるには変わりないだろう。と歩は思った。
 もはや説明不要だが、歩が見た牛魔人のような悪霊というのもまた、本当は目の前に存在などしていない。実際にその場にいたのは悪霊でもなんでもなく、どこからか走ってきた歩が突如銃を発砲したのを間近で見て、驚きのあまり腰が抜けて動けなくなっている小心者の六条寛吉(男子二十二番)だった。細身の彼は筋肉隆々の牛魔人とは似ても似つかないのだが、幻覚世界の中にいる歩の目にはそう映ったようだ。



 血走った目を大きく見開き、ふらふらとこちらに近寄ってくる歩の狂気に満ちた姿を見て、地面にへたり込んでいる寛吉は恐怖のあまり失禁してしまっていた。そんな彼の目に、狙いが定まらないままあちらこちらへと向きを変え続けるグロックの銃口が目に入る。
「う、撃たないでくれぇ!」
 寛吉の悲痛な叫びが辺りに響く。しかし現実世界との関係を完全に断ち切られてしまっている歩には、その声は届かない。
 思考回路がおかしくなっている歩は、へらへらと笑いながら寛吉へと近づいていく。
「悪霊は皆燃やさなきゃ」
 グロックを握る歩の指が動いた。同時に、方向の定まっていなかった銃口から、固く冷たい金属の塊が飛び出し、寛吉の左手七メートルほどの所に立っていた木にめり込んだ。
「ひぃっ!」
 耳をつんざく銃声に驚いた寛吉は、再び情けない声を上げた。
 だが恐怖はこれで終りはしない。一発目で獲物を仕留め損ねた歩は諦めることなく、続いて二発三発とグロックを撃ち続ける。
「燃えちゃえ! 燃えちゃえ! 燃えちゃえ! 燃えちゃえ! 燃えちゃえ! 燃えちゃえ! 燃えちゃえ! 燃えちゃえ! 燃えちゃえ! 燃えちゃえ! 燃えちゃえ! 燃えちゃえ! 燃えちゃえ!」
 グロックの十五発マガジンいっぱいに込められていた銃弾を、歩は惜しむことなく全て撃ち出した。
 尿で股間を濡らしながら這い逃げようとしていた寛吉の情けない後ろ姿に、四発の銃弾がめり込んだ。さらにその内の一発が彼の頭の中へと進入し、頭蓋骨内で跳ね返り続けながら脳細胞をぐちゃぐちゃと破壊していった。
 こうして死亡した六条寛吉だったが、彼を殺した当の本人の目には人間の死体など映されておらず、歩が放った正義の炎によってミディアムステーキにされてしまった牛人の姿が見えていただけだった。
「悪霊は皆燃やさなきゃ」
 焦点の定まらない目でどこか遠くの方を見ながら、歩は再びそう言った。

 正気を完全に失っている氷室歩という一人の少女は、現在このように危険な存在へと成り果てていた。
 本人達は気付いていないが、春日千秋と磐田猛が下した“氷室とは合流しない方が良い”という判断は正解だった。もしも二人が歩を見た時に、ついつい声をかけてしまっていたならば、寛吉と同じような運命をたどっていたかもしれない。
 二人はまさに間一髪のところで死を回避することができたのだった。


 六条寛吉(男子二十二番)―――『死亡』

【残り 三十二人】
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