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−エピローグ(2)−

 次の日、私は一人で街に繰り出していた。十代から三十代くらいの若い世代の人達で賑わう、少しお洒落な感じの店舗の並び。
 脇を見ると、石造りの入口前に「バーゲン 20〜50%OFF!」と掲げているショップが、おいでおいで、と目に見えない手招きをしている。
 何気なく店先に並べられていた黒のレザーブーツを手に取ってみた。
「安い」
 靴底に貼られた値札を見て、つい声を漏らしてしまった。定価なら二万円する品が一万三千円で販売されていたのだ。
 まさにこの色と形の靴を欲していたところだった私は、この思いがけない出会いに心から感謝した。
 ……だけど私に合うサイズってあるだろうか。
 並べられていた品は若干大きかった。他のサイズがあるかどうか聞こうと、私は店内に足を踏み入れようとした。だが思い止まった。
 ……なにしているんだ、私。これじゃあ彼の誘いを断った意味が無いじゃないか。それに、これから行くところがあるのに、今から余計な荷物を増やしてどうする……。
 客の姿に気付いた店員が奥から出てこようとしていたが、私は逃げるように石段を下って通りに戻った。
 危ない、危ない。最近衝動買い癖が酷くなってきているので、控えるよう意識しなければ。それに、年下の男を「貧乏人」と罵った次の日にいきなりバーゲンに食いついているなんて、格好が悪過ぎる。
 今のは無かったことにしよう、と一人で勝手に思いながら、私はまた歩きだした。
 しかし何時来ても洒落た街だ。ファッション関係の店が多く、それぞれの建物に個性がある。木製のテラスのような入口を持ったいかにも上品そうなブランド店や、スプレーによる落書きのような色彩に支配されたインテリアショップ。それらが集合した様はとても鮮やかで、道を歩いているだけでも、外国か、はたまたテーマパークの中にいるような気分になれた。
 ここにいる人達は皆、柔らかな表情をしている。服屋の三分の一ほどを改装して作られたらしきカフェテリアで、中学生っぽい女の子達がカップを手に、何か楽しげに話しているのが見えた。
 私にもあんな幼い頃があったんだよなぁ、と考える。するとかつてのクラスメート達の姿を急に思い出してしまい、いけないいけない、と首を振った。
 今は過去の記憶に振り回されて悲しい思いに耽っている時ではないのだ。
 思い出すのはもう少し後でいい。どうせ今日は否が応でも、そういう話題に尽きる一日になるのだろうから。

 目的地にはほどなくして着いた。ログハウスとは少し違うが、それを思わせるようなシックな造りの木製のお店。木箱を改造して立てられた小さな看板には『カフェ・ハイカラ』と記されている。その下には『本日の日替わりメニュー』という貼紙があった。料理を写したポラも隣に並んでいるが、照明が上手いのか、鮭のムニエルと野菜スープがとてもよく映えている。
 扉を押し開けると小さな鐘の音がカランカランと店内に響き渡った。二十代後半くらいのエプロン姿の男性がすぐさま飛んできて「お一人様ですか?」と聞いてくる。
「あ、後でもう一人来ます」
「お煙草はお吸いになられますか?」
 私は一瞬考えた。
「とりあえず禁煙席をお願いします。窓際で。相手が着き次第、必要となれば席を移動させていただきたいのですが、よろしいでしょうか?」
「構いませんよ。それではお席の方にご案内します」
 まばらに客がいる店内は、大きなバイクやカラフルな外国製の玩具などが飾られていたりして、店の名の通り、外観よりも少しハイカラな印象だった。しかしこれが私の肌にはちょうど合うのか、妙に落ち着いた気分になれる。
 案内された席もまた変わっていた。古タイヤを重ねて作られた支柱の上に丸い板を重ねて固定しただけの簡素なテーブルで、これまた色とりどりのステッカーが至る所に貼られている。
 ……とくれば椅子はもしや酒樽か?
 少しワクワクしながらテーブルの下を覗くと、意外や意外、座席は普通の木の椅子だった。しかしよく見ると、個々の木材の切り口や繋ぎ目がいびつで、これもまた手づくりであるには違いなかった。
 つくづく手が込んでいる。やるなこの店。
 感心しているうちに、店員が注文を聞きにやってきた。先程の男性ではない。シャギーの入ったミディアムショートの髪型と、エプロン姿が似合う若い女性だった。
「ご注文はお決まりになられましたか?」
 私は焦った。店の内装に見とれていて、まだ何も考えていない。
「そうね……」
 ペラペラとメニューをめくって、ソフトドリンクのページで急いで目を走らせた。
「こういうのもございますよ」
 女性店員はメニューの下敷きになっていた紙切れを引っ張り出し、私の前に提示した。『黒酢入り蜂蜜ティー』と書かれている。
「これ、美味しいの?」
 聞くと、店員はただニコッと笑ってみせた。
 若干の疑いを持ちつつも、私は話の流れに逆らえず、結局この黒酢入り蜂蜜ティーとやらを注文することとなった。恐い物見たさというか、どういう味なのか試してみたいという好奇心はあったので、とくに後悔はしなかった。
 メニューを下げて店の奥へと戻っていく店員の後ろ姿を見送ってから、私は袖を捲って時計を見た。
「まだちょっと時間があるか……」
 約束していた時刻よりも早く着き過ぎた。
 ならば、と私は鞄の中から三冊の本を取り出す。獣医学に関する専門書ばかりだ。一冊は所々のページにポストイットが挟まっており、ほぼ読み終えていると誰が見ても分かる状態である。ここに来る前に電車の中で読んでいたのだ。
 私は本気で獣医になりたいと思っている。だからほんの一瞬であろうと暇な時間があれば無駄にはせず、こうして出来るかぎりの知識を頭に詰め込むことに専念することにしている。
 かつての級友が抱いてきた夢を、今度は私が受け継いで叶えるのだ。
 もちろん楽な道ではないと承知している。苦しいことや辛いことはあるかもしれない。でも、私に夢を語ってくれたときの少女の真剣な眼差しを思い出すと、やらなければ、と気合いが湧いてくる。だから私は頑張れる。
「うげ……、ドイツ語か……」
 手に取った専門書にはアルファベットの列がズラリと並んでいた。表紙が日本語表記だったので中もそうかと思っていたが、すっかり騙された。仕方なく、鞄から辞書を取り出して、翻訳しながら読み進める。
「お待たせしました」
 注文した品を手に、女性店員が席にやって来た。私は相手の顔を見ながら「ありがとう」と笑って見せる。自称『百万ドルの笑顔』という、私に出来る最高の笑顔。
 店員はテーブルにコルク製のコースターを敷いてから、そこに円錐を逆さにしたようなグラスを乗せた。ジンジャエールのような色彩をした飲み物で満たされている。黒酢のイメージが強かったので、もっと濃い色を勝手に想像していた。
 早速、グラスにささっていた真っ黒のストローに口をつけ、黄金色の飲料を吸い込んでみる。
 控えめな甘さを含む独特の風味が、口いっぱいに広がった。
 美味しい。素材が素材だけに飲む人を選びそうてはあるが、個人的には好きな味だ。
 本に目を走らせている間にも、黒酢入り蜂蜜ティーはどんどんと水位を下げていく。正直言って、ちょっとハマってしまっていた。
 だから、グラスの中が空になるまでに、時間はそれほどかからなかった。
 おかわりしたい衝動に駆られたが、この様子だともう一杯だけでは飽き足らず、何杯も頼んでしまいそうだったので、ここはぐっと堪えることにした。
 頼むにしても、どうせなら待ち人が来てからにしよう。
 約束の時間が近づきつつある。そろそろ来ないかな、と外の人通りに目を向けると、ガラスに映った半透明の私自身と目が合った。
 外から誰もこっちを見ていないのをいいことに、ガラスを鏡の代わりにしてヘアースタイルを整えた。
 昔は肩に髪がかかるのを嫌って定期的にカットしていたが、大学に入ってからは長めにしている。単にイメチェンしたくなっただけなのだが、そのせいで髪の手入れが以前と比べて大変になってしまった。きちんとセットしようとすると鏡の前に一時間近く座っていなければならなくなるし、寝癖が酷いときなんかはそれどころでは済まない。
 やっぱり元の長さに戻したほうがいいかな、とぼんやり考えながら、髪の束を摘んで毛先にフッと息を吹きかけた。
 そんなとき、出入口の小さな鐘が、カランコロン、と音を鳴らした。
「お一人様ですか?」
 女性店員が、店に入ってきたばかりの客に向かって問い掛けている。基本的に接客は彼女が担当している様子だ。私が入ってきた時には男性店員が応対してくれたが、そのとき女性のほうは何らかの理由で手が離せない状態にあったのだろう。
「え……と、人と待ち合わせをしているのですが……」
 そう答えた客は四十代くらいの男性だった。紺のスラックスを穿いて、ワイシャツの上からジャケット羽織った姿は少々地味で、若い世代で賑わう華やかなこの町並みの中では浮いて見える。
「では、こちらへ」
 彼は店員に案内されて、こちらの席へと近づいてきた。
「パパァ、久しぶり」
 おどけながら迎え入れると、彼はあからさまに慌てだした。
「ふ、ふざけないでくれよ! 勘違いされてしまうじゃないか!」
 周囲を見ると、何人かの客がこっちに注目していた。私達がどういう関係なのか興味を持ったのだろう。
『親子というには男のほうの態度がそれらしくないし……、となると別の意味の“パパ”か?』
 などと妄想を膨らませているのかもしれない。
「まあまあ、そうカリカリしないで座って。先生」
「……ったく」
 設定は『高校時代の教師との再会』。これなら不自然では無い。
 二人の関係を理解した気でいる客たちは、こちらに対する興味を失ったのか、それぞれの穏やかな一時へと戻っていった。
 私は椅子を引いて、彼に座るよう促した。
「元気そうだね、明日香さん」
 彼はちゃんと私の偽名を覚えてくれていた。
「先生も元気そうで何よりです」
「先生なんて呼び方はもうよそうよ。木田でいいよ、木田で」
 と彼は首を振って照れ臭そうにした。そう、目の前にいる男は木田聡。かつて梅林中プログラムの管理をしていた兵士の一人だ。そして私にとっては恩人でもある。
「木田さんって煙草吸う?」
「いや……。なんで?」
「別に。ただ聞いただけ」
 席を移動するのは面倒臭いから嫌だと思っていたので、私は相手の回答を聞いて、テーブルの下で小さくガッツポーズをとった。
「何か注文しませんか?」
「コーヒーをいただこうかな」
「じゃあ私は黒酢入り蜂蜜ティー」
「なにそれ?」
 木田は不思議そうにメニューの横のペラを見つめている。
 私はフフンと笑った。
「ここのオススメの一品、かな」
「若いね。そういう探求心が強いところ」
「もしかして馬鹿にしてます?」
「とんでもない。羨ましがっているんだよ。私なんて、自分が知らない世界には、もう足を踏み入れる勇気も湧かなくなるほど衰えているからさ」
 そう言う彼の顔をよく見ると、確かに六年前と比べてしわが増えて老けたような気がする。それほど目立つわけではないが、頭にはところどころ白髪が混ざっていた。これまで色々と苦労してきたのかもしれない。
「しかしこれは良い店だな。窓の外から覗いた印象とはだいぶ違う。派手ながらも落ち着いている」
 田舎から上京してきたばかりの人のように、木田は辺りを見回した。
 どうやら彼は店内の色鮮やかさを前に、自分のことを場違いに感じてしまっていたらしい。しかしそんな心配もすぐにどこかに吹き飛んでしまった、とのこと。
「お待たせいたしました」
 女性店員が注文の品を運んできた。盆の上にコーヒーと、黄土色のグラスが乗っている。
「ありがとう」
 コーヒーを受け取りながら木田が微笑むと、店員もニッコリと笑顔を返した。


「このお店、店員は二人だけなのかな」
 女性店員が奥に戻っていってから、木田が声を潜めながら聞いてきた。
「みたいよ。奥にいる男がおそらく店長なんでしょう」
「なるほど……」
 厨房の出入口で姿を見え隠れさせている男性店員のほうを、木田はじっと見つめている。
 彼が今何を考えているのか、私は少し興味を持った。
「カフェを経営する若い男と、アルバイトとして店にやってきた少女。二人っきりになる時間は多く、徐々にお互いを意識するようになる。そして、やがては気付くのであった。これは恋というものなのだと」
「突然何を言い出すんだ?」
 木田が不審そうに私の方を見た。
「興味津々そうに店の奥を見ていたじゃない」
「だけど、別にそういうことを考えていたわけじゃあなくて……」
 木田は焦った様子で目線をテーブルへと戻す。
 見ていてとても面白い。
「そう言う明日香さん自身は最近どうなんだい?」
 話を反らすための質問とも感じられたが、これは実際に彼が気にしていたことだと思われるので、私は真面目に答えることにした。
「希望していた大学の獣医学部に入れたし、毎日楽しく過ごせていますよ」
「彼氏もできた?」
「ええ、お蔭様で」
「それは良かった」
 お互い笑顔を見せ合う。自分のこととなると少し恥ずかしくはあったが、それ以上に今の自分のことを木田に知ってもらいたかった。
「木田さんの方は最近どうなの?」
「私かい? ようやく会社に適応できてきたかな、という感じ。転職して四年ともなれば、流石にね」
 梅林中のプログラム終了後、木田が自らの希望で軍を抜けたことは知っていた。今はコンピューターのセキュリティ関係の仕事をしているそうだ。元々そういう方面に強い人だったので、すぐに会社にも馴染むだろうと思われたが、そうでもなかったらしい。仕事場は一人一人のスペースが狭く窮屈で、ヘビースモーカーの人間が多いために空気が悪いのだそうだ。
 実はこの店に木田が入ってきた時に煙草の臭いを感じたのだが、どうやら彼が吸っていたわけではなく、仕事場から臭いを連れてきてしまっただけのようだ。
「色々と大変そうですけど、慣れてきているようで少し安心しました」
 私が本心を述べると、彼は屈託無く笑ってみせてくれた。

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