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−焔に刻まれし紋(1)−

 ダムが崩れる際の爆音を耳にしてから、もうどれだけの時間が経過しただろうか。未だに分校内部に水は流れ込んでこない。
 緊張は既に極限のレベルにまで達しており、桂木幸太郎は今や息苦しさすら感じていた。
 ここまで長い間なにも起こらないと、もはや現状を調査するまでもなく、最悪の展開が自然と頭に浮かんでくる。
 桂木は思っていた。自分達が命を懸けて取り組んできた計画は、残念ながら失敗に終わってしまったに違いない、と。
 本来、作戦が上手くいっていたのなら、ダムに蓄積されていた大量の水は、数分とかからずこの場に押し寄せてきているはずなのだ。多少のタイムラグが発生する可能性があるにしたって、ここまで元の計画と相違しているのはあまりに異常だった。
 おそらく、醍醐一郎も同じ事を思っているだろう。脱出計画の関係者である桂木ほど事の全容を把握できていない彼にしたって、少なくとも、何かおかしいと薄々感じ始めてはいるはずだ。
 このまま本当に何も起こらなければ、桂木は醍醐が放つ銃弾によって、そして千秋は首輪の爆発によってもうじき命を落とすこととなる。
 遥か遠くの方にある希望を闇の中で照らしてくれていた灯火が、今では弱々しく消えかかっており、もはや絶望的だった。
 廊下から誰かが走ってくるような足音が聞こえてきたので、出口の方をちらりと見やる。すぐに御堂一尉が姿を現し、醍醐の前で足を止めた。
「遅くなってすみません」
 御堂は軽く頭を下げて告げる。
「衛星等用いて総出で調査をした結果、今この島で何が起こっているか、そのほとんどを把握することが出来ました」
 無言のまま話に耳を傾けている醍醐から少し離れた位置で、桂木も御堂の言葉に聞き入っていた。いったい何が自分達の運命をぶち壊したのか、遅ればせながらも知っておきたかった。
「ダムの水は確かに今も尚物凄い勢いで流出を続けております。が、どうもその圧力と、昨日降り続いていた雨によって地盤が緩んでいたことが影響してか、こことダムの間で大規模な土砂崩れが起こり、水の流れが偶然変わってしまったようです」
 それを聞いて桂木は愕然とした。雨の日に今回の計画を行う利点についてはかなり早い段階から分かっていたが、まさかこんな落とし穴があったとは気がつかなかった。桂木だけではない。桂木と共謀した木田、計画を発案した蓮木風花、それに乗った千秋たち、誰もが作戦に綻びなど無いと信じて疑わなかった。それもそのはずだ。ダムの破壊と同時に起こる大規模な土砂崩れなんて、あまりにイレギュラーすぎる出来事だった。
「いや、おかげで助かりましたよ。水の来襲を直接受けた住宅地は広範囲に渡って浸水しておりまして――、あれがもしもこの場に向かってきていたなら、防ぎようがなかったです」
 心底ほっとしているらしく、御堂が自らの胸に手を当てる。
「なるほどな……」
 そういうことだったか、と、醍醐は納得したらしく振り向いた。
「ということなんだとさ、桂木」
 彼はわざと話を振り、憎たらしく微笑んでみせる。
 政府側を裏切った罪人が、失望してどんな顔をするのか目に焼き付けたい。そんな相手の胸中が読み取れた。
「あの、醍醐教官。私はこれからどうすれば……?」
「もう本部に戻ってくれて結構。ワシは今からコイツをさっさと処刑するから、その後に戻ることにする」
 部屋の中に向かって拳銃を構え直す醍醐の後ろで、御堂は「了解しました」とだけ答え、さっさとその場から姿を消してしまった。部下が処刑されることに、なんら関心を抱いていない様子だった。
「さて、悪かったな、長い間待たせてしまって」
 オーバーなアクションで肩を鳴らしながら、至極落ち着いた口調で話す醍醐。本当はまだ怒りが煮えたぎっているであろうに、あえて感情を表に出さないというところが、かえって不気味に思える。
「でもさ、それもこれも全部お前のせいなんだからさ、堪忍してくれよな」
 鱈子唇の端がつりあがる。自分にたてついた人間をようやく処分できるという爽快感が今、彼を包み込んでいるのだろう。
 太い指で握り締められた銃が、既に桂木の脳天を捉えている。銃口の奥の闇の中から、すぐにでも弾が飛び出してきそうだった。しかし醍醐はすぐには撃たない。小さな虫をじわじわと弄るように、執拗に話しかけ相手の意識を自分に向けさせようとする。
「なあ、黙ってないでさ、お前も何か反応を見せてくれよ。ワシ一人で喋ってしまっているじゃないか」
 一歩二歩と近寄って、こちらの顔を覗き込んでくる彼。
「懸命に関わってきた計画が水の泡となって、何か思ったこととかあるだろう。そういうの、聞かせてくれると嬉しいんだけどなぁ。あるいは、死ぬ前に言い残しておきたい事があったりするなら、今の機会を利用してもいいぞ。何も無いなら無理強いはしないけどさぁ」
 妙に楽しそうな態度を見せる彼がなんだか腹立たしい。黙っていることに我慢ならなくなった桂木は、どうせ死ぬなら、と思い、醍醐が言ったとおりにこの機会を使わせてもらうことにした。
「一つ、聞きたいことがあった」
「お、なんだ。言ってみな」
 桂木が言葉を発したことを意外に思ったか、醍醐は一瞬だけ表情を素に戻した。
「お前には子供がいたのだろう?」
「ああ、葉月という名の娘が一人だけな。前に言っただろ。俺は娘を見殺しにした面々を地獄に送るために、今回の教官役を買って出たんだって」
「その娘について聞きたいことがある」
 醍醐が急に怪訝そうな顔をする。当然だろう。娘のことなんて知らないはずの桂木が、いったい何を聞きたいのか想像すら出来ないのだ。
「お前が娘に対して、大なり小なり愛情を持っていたということは、これまでの様子を見てきてなんとなく分かる。しかし逆に、娘は父であるお前のことを、好いてくれていたと思うか?」
「……何が言いたい?」
 家庭内の事情に踏み込んだ失礼な内容の質問に、醍醐は不機嫌さを露にする。しかし臆することなく桂木は続ける。
「いいから答えろ」
「ふんっ、いったいこんなことを聞いてどうするつもりやら……。そうだな、ワシが注いだだけの愛情を娘が返してくれたかといえば、そうもいっていなかったかもしれないな。難しい年頃でもあったし、多少反発されていたところがあったのは確かだ。だけど、こんなのは何処の家庭だって同じだろう。反抗期さえ終えてしまえば、娘もワシの気持ちを分かってくれただろうさ」
「……本当に何も分かっていなかったんだな」
 桂木は拳を握り締める。以前、葉月のことを話す千秋が悲しい顔になるのを見て、少し感情的になってしまったことがあった。そして今、葉月のみならず千秋までを悲しませた張本人の、勘違いも甚だしい自分勝手な真意を目の当たりにして、ついに我慢が限界を超えた。
「お前は自分の娘の気持ちをただ知ったつもりでいただけだ。大切なことに何一つ気がついていなかった。これでは当然だな。愛していたはずの娘に嫌われてしまうのも」
「なんだと!」
 声を荒げる醍醐。しかし、明らかに動揺しているのが見て取れる。考えもしていなかった方向に話が進み、気持ちの整理が追いつかなくなっているのだ。
「ああそうさ。そんなことだからお前は娘を、幸せから逆へ逆へと追いやってしまうこととなったわけだ。そして娘が亡くなってしまってからかなり経つ今になっても、娘の望む方向とは反対へと事を進めていってしまっているんだ。はっきり言ってやる。お前は父親失格だ」
「……」
 醍醐は何も返さない。ただ桂木の話を頭の中で反響させ続けている。
「死ぬ前に教えてやるよ。お前の何が娘を悲しませることとなったか。そして今も継続している、お前の最大の過ちをな」

【残り 四人】
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