018
−白い悪魔(2)−

 それは二年前のある日のこと。
 松乃中軽音楽部の一年生だった翠は、クラブ活動終了後になってようやく下校を開始した。
「みーどーりー、待ってよー!」
 校門から一歩踏み出た途端に聞こえた呼び声に振り向く。その視線の先にいたのは、こちらに追いつこうと息を荒げながらも懸命に走る少女、親友であるマキの姿だった。
 マキは翠の元にたどり着くやいなや、両膝に手を当てて大げさなほどに激しく深呼吸を始めた。
「どうしたのマキ、そんなに急いで」
 自分も腰を屈めて相手の目線に合わせつつ、マキの顔へと目をやる。
「いや……、ただ翠と……一緒に帰りたいなって……思っただけ」
 合間合間に息継ぎを挟んでいたマキの言葉は少々聞き取りづらい。しかし言いたいことは十分に理解できる。
 マキがこうやって翠にくっついてくるのはいつものことだ。彼女の人懐こい性格がそうさせているのだろう。
「あんた、そうやって私にくっついてばっかりじゃあ、いつまで経っても一人歩きできないよ」
 翠はぶっきらぼうにそう言ったが、本当はこうやってマキに懐かれていることに悪い気はしなかった。そして、マキも翠がそう思っていることをなんとなく察していたらしく、「いいよー、私はいつまでも翠の側にいるんだもん」と舌を出して笑っていた。
 翠とマキは小学校三年生のときからの無二の親友だった。当時同じクラスになったのをきっかけに知り合い、それからは気づかぬうちに現在の関係へと発展していったのだ。
 少々大人びた顔つきの翠と、童顔のマキ、その二人は“凸凹コンビ”と呼ばれることもしばしばあったが、本人達の相手を見る目線はいつまでも変わらず常に同じ高さ。
 そうやって四年以上もの年月を共に過ごしてきた二人の絆は深く、彼女達の間にはお互いに隠し事をしないという暗黙のルールがいつの間にか築かれていた。そのためだったのだろう。並んで歩きながらしていた取り留めのない会話の合間に、マキがこんな言葉を挟んできたのは。
「翠、私、好きな人ができた」
 マキは言った。同じクラスの男子、風間雅晴に恋してしまったのだと。
 翠はそれを聞いたとき、恋愛などに全く無関心だと思っていたマキが本気で恋をしたということに驚いた。
「へぇ、まさかあんたが男を好きになるなんてねぇ」
「もう、私真剣なんだから、からかわないでよね」
 ニヤニヤと笑みを浮かべる翠の背中をバンと突くマキ。恥ずかしさのあまりか顔を紅潮させている。
「あはは、ごめんごめん。でも頑張りなよ。私はあんたを応援してるから」
「うん、ありがとう」
 お互い目を合わせて微笑んだ。

 その日以来、翠はマキの視線の先に意識を集中させるようになった。すると、授業中、休み時間中と、時を問わず彼女の目が風間雅晴へと向いているということが確認できた。マキが雅晴のことを好きになってしまったというのは、たしかに本当だったようだ。
「ねぇマキ。いっそのこと風間君に告っちゃいなよ」
 なかなか行動に出ない親友の様子に歯がゆさを感じた翠は、ある日マキに向かってそう言いだした。しかしマキは顔を真っ赤にして、
「な、なに言ってるの。駄目だよ、私なんかが告白たって、きっと風間君はなんとも思わないよ」
 と言うばかりだった。しかしその程度で翠は諦めたりしない。
「そんなのやってみないと分からないよ。さあ、勇気を出してドンと当たってきな」
「か、勝手なこと言わないでよ。恥ずかしいよぉ」
「大丈夫だって。男なんて女の子に告白されたりしたら、案外もろいもんよ」
「なんでそんなこと簡単に言えるのぉ? 翠、男の子に告白したことあるの?」
 そういえば、マキの色恋話に色々と口出ししてはいたが、そういう自分自身は告白どころか異性を好きになったこと自体ない。今まで知ったように話していたことも、全てテレビや雑誌で得た聞きかじりの知識にすぎないのだ。
 どうやら私は、親友の手助けのためと調子に乗って、確証もないことをしゃべりすぎたようだ。
 翠は自分の暴走を恥じた。中学一年生である自分には、恋愛話などまだ早すぎたのかもしれない。
「でもさ、私も翠みたいに綺麗だったら、自信を持って告白できるだろうになぁ」
 黙り込んでしまっている翠を見て気まずさを感じたのか、その沈黙を破るようにマキはこんなことを言い出した。
 たしかに翠の整った容姿は他人から見れば綺麗だと思わずにはいられないほどで、マキがそんなことを思ってしまうのも無理はない。
 だが翠は首を振って、
「なぁにバカなこと言ってるの。女は顔が全てじゃないし、そもそも私は綺麗でもなんでもないよ」
 と真っ向からそれを否定した。そしてこうも言った。
「それに、私はマキだって十分すぎるくらいに綺麗だと思うよ」
 嘘ではない。確かに翠と比べて少々幼くも感じるが、個々のパーツのバランスがよく整っているマキの顔は綺麗だというには十分だった。しかし本人はそれに気づいていないらしく、
「ちょ、ちょっとぉ、適当なこと言わないでよね」
 と言って頬を膨らませていた。そういう彼女の仕草を、翠は本気で可愛いなと思った。しかし、これ以上マキをおだてても彼女は気を悪くするだけだと分かっていたので、あえてこれ以上その話を続けはしなかった。
 彼女達のこのようなじゃれ合いもまた日常茶飯事。そしてそれは二人の仲がそれほどに深いという証拠でもあった。
 まあ進展が遅かろうとも、マキの恋が実る日まで、私は彼女のことを温かい目で見守り続けていこう。
 翠は大好きな親友の顔を見ながら、そんなことを考えた。

 時はさらに経過して、気がつけば十月。空気が肌寒く感じるようになり、学生達は衣替えの季節を迎えた。
 ブレザーが半袖から長袖に変わるのは男女同じだが、下半身については別。男子はズボンが厚手の生地のものへと変わり、女子はソックスの長さが膝上までのものに変わる。
 そうして新たな気分で学校へと通う生徒達。しかし、そんな彼ら彼女らをあざ笑うかのようにあの事件が起こった。
 兵庫県立松乃中等学校大火災。
 事件発生当時、次の授業のために一階の校舎東側に位置する音楽室へと早めに移動していたということは、翠にとってこの上ない幸運だった。そのおかげで火の手に脅かされることもなく、すみやかに外へと逃げ出すことが出来たのだから。
 だが、親友のマキはそうもいかなかった。
 クラスメイト達と三階教室内で談話に花を咲かせていた彼女は簡単に校舎から脱出することはできず、逃げ惑う生徒達でごった返していた階段を降りるのに時間を費やしているうちに、大量の煙を吸ってしまった。それだけならむしろ良かったのかもしれない。深刻なのは頬に負ってしまった酷い火傷だ。
 それはかなりの重症で、頬の火傷は目立つだけでなく、整ったマキの顔のバランスを見事に崩す要因となってしまっていた。
 いくら命が助かったとはいっても、二度と消えないかもしれないこの酷い火傷の跡を顔に残したまま、一生を生き続けなければならないという現実を受け止めては、とても手放しで喜べる状態などではない。美容を気にし始める年頃であるマキにとって、それはあまりにも辛すぎた。
 煙を吸って体調を崩し、さらに数箇所の骨折という重症だったマキは、しばらくの入院生活を余儀なくされていた。そんな彼女を励まそうと、翠はある日病院へと見舞いに出向いた。
「マキー、お見舞いに来たよー」
 彼女を元気付けるために出来るだけ明るく振舞おうと決めていた翠は、病室の扉を開くや否や元気良く声をかけた。しかし、マキは布団に包まったまま出てこない。どうやら顔の火傷を見られるのを嫌っているらしい。
「マーキー、そんなにしつこく打ちひしがれてちゃあ、いつまで経っても元気になれないよ!」
 そう言って、嫌がるマキに構わず、無理やりに布団を剥ぎ取った。そうしてようやく翠の前の姿を現したマキだったが、今度は両手で頬の火傷だけでもと一生懸命に隠そうとしていた。
「大丈夫だってマキ。私はそんな火傷なんか気にしてないから」
 するとマキは恐る恐るとだが、ようやく顔から両手を放し、その顔を翠に見せてくれた。
 赤茶色く変色し、でこぼこと皮膚を盛り上げていた火傷の跡は酷く、正直なところ気にしないわけにはいかなかった。しかしマキの心情を察している翠は、身体の具合はどうだとか、入院生活はどうだとか、できるだけ火傷について触れないように話しをし、視線は常に彼女の目へと向けるように気遣った。
 そうやってしばらく話しているうちに、マキも少しずつではあるが元気を取り戻していってくれた。
「風間君は元気にしてるかなぁ」
 あるときマキが急にこんなことを言った。
 彼に恋焦がれているマキがそんなことを気にしだすのは仕方のないことだった。事件後すぐに入院してしまったマキは、あれから一度も雅晴の姿を見ていないのだから。
 しかし、翠にもそのことは分からない。なぜならば火災によって校舎を無くしてしまった松乃中はもはや復旧不可能な状況で、そのため今は長期休暇となっており、翠が雅晴に会う機会は現在のところ皆無なのだ。一応政府の迅速な対応により、元松乃中生たちは一週間後に同市内の梅林中へと編入することとなっているため、その頃には雅晴の姿を見ることも出来るだろうが。
 とりあえず、雅晴も翠と同様に事件当時は一階にいたため、校舎の炎上に巻き込まれることはなく、全くの無傷で脱出することが出来ていた。なのでおそらく今も元気に暮らしていることだろう。
「それにしても、マキもすっかり恋に走るようになったよねぇ」
 肘でわき腹をつつきながら冷やかすように言ってやると、案の定マキは頬を紅潮させた。何度見ても面白い。
 しかしそれもほんの一瞬のことだった。何かを思い出したようにあからさまに表情を暗くして話し始めるマキの声は沈んでいた。
「私……もう風間君の前に立てないんだね……。だって、こんな顔じゃあ……」
 点けっぱなしだったテレビでは、早くもクリスマス特集といった時期を先走った番組が映し出されている。イルミネーションに彩られた街中を歩く恋人達にレポーターが次々とインタビューを重ねていく。
 それを見るマキの目がなんとなく寂しそうに見えた。
 クリスマスに一緒に過ごす恋人達。マキは少なからずそれに憧れを抱いていたのだろう。しかし彼女はもうそれは叶わぬ夢だと決め付けている。
 翠はそんな彼女を放ってはおけなかった。
「そんな、あきらめちゃあ駄目だよ! まだこっちの想いを伝えてもいないのに、最初から諦めちゃうなんて! 勇気を出して、頑張ってみようよ!」
「無理だよ……。ただでさえ恥ずかしいのに、顔にこんな火傷まで負っちゃあ……。こんな顔で告白なんてしちゃ、彼に嫌われちゃうよぉ」
 元気付けようとする翠の想いもむなしく、マキは自虐を止めようとはしない。
「そんなことで諦めないで! 私、前にも言ったでしょ! 人は顔じゃない、その想いを伝えることが大切なんだって!」
「だって……、だって……」
 そんなやり取りがしばらく続いた。最初の頃は聞く耳も持たないといったマキだったが、翠の勢いに気圧されたか、徐々に話に耳を傾けていった。そして最後には僅かにだが前向きに物事を考えてくれるようにもなり、諦めずに頑張ると約束してくれた。
「がんばってねマキ。私、いつまでもあなたのこと応援してるから」
「うん。いつも私なんか気にしてくれてありがとうね、翠」
 誰もいない病室内で、彼女たちはお互いをぎゅっと抱きしめた。まるで二人の友情を確かめるかのように。

 元松乃中生の梅林中入りは予定通りの期日にて行われた。
 事件からもうすぐ一ヶ月が経とうとしている現在、被災者たちも徐々に元気を取り戻しつつあったらしく、集まった者たちは皆クラスメートとの久々の再会に喜び、笑顔さえ浮かべていた。それは翠も同じで、一ヶ月ぶりに再会した級友達と手を取って喜び合った。
 ふと男子の集まりへと目を向けた。その中には風間雅晴の元気な姿も見られる。
 もしもマキが全くの無傷で、この場に来ることができていたならば、いったいどれほど喜んだだろうか。
 未だに病院から出て来れない親友のことを思うと、喜んでばかりはいられなかった。

 さらに一週間が経過。
 松乃中と同市内に位置しているとはいえ、自宅から梅林中までの距離は遠く、毎日の登下校は一苦労だったが、それにも徐々に慣れ始めていた。
 松乃中にいたころは軽音楽部に入っていた翠だが、梅林中ではどのクラブに入るつもりはない。なので本日もいつもどおりに、授業終了後すぐに自宅へと真っ直ぐ帰るつもりだ。
 荷物をカバンへと詰めて教室を出る。
 そうだ。帰りにマキの病院に寄っていこう。そして、学校での出来事を沢山話してあげよう。もちろん風間君のことも……。
 そんなことを考えているうちに下駄箱へとたどり着いた。するとそこに意外な人物が待ち受けていたので驚いた。今頭の中に思い浮かべていたばかりだった風間雅晴が下駄箱を背に立ち、誰かを待っているようだった。
「どうしたの風間君。だれかと待ち合わせ?」
 何気なくそう聞いた翠。すると雅晴はこちらを振り向いて、つかつかと翠へと歩み寄ってきた。
 にじり寄ってくる雅晴の考えがつかめず、翠はおどおどとしてしまう。
 目の前へと迫ってきたとき、彼は想いがけぬ発言を口にした。
「好きだ」
 たった一言。それきり彼は顔を横に向けて黙り込んでしまう。
「えっ……、えっ?」
 不測の事態に驚いた翠は辺りを見回したが、この場には自分と雅晴以外には誰もいない。つまり、彼の発言の対象となっていたのは、どうしても自分以外には考えられなかった。
 驚き戸惑い何も言えなくなってしまった翠を見て、雅晴はさらに追い討ちをかけるように言った。
「俺はずっと烏丸さんのことが好きでした。よかったら、俺と付き合ってください」
 胸が何かによって射抜かれたような感覚を覚えた。体温が一気に上昇していくのが自分でも分かる。
 生まれて初めてされた告白。その威力はあまりにも絶大で、思想回路がやられてしまい、正常に物事を考えられなくなってしまった。このままでは頭から煙を噴いてしまいそうだ。
「黙ってないで、良いのか悪いのか言ってくれ」
 勇気を振り絞って告白を決行した彼もまたいっぱいいっぱいなのだろう。顔を赤らめつつ自分の行動が正しかったのか、それとも間違っていたのか教えてくれと懇願するかのように必死になっていた。
 正直なところ、翠はこの告白を受けた瞬間から夢心地に浸っていた。風間雅晴といえばなかなかの美形で、そのうえ優しいため、女子たちからのクラス内での人気は上位に位置している人物だ。そんな彼に告白されたのだから、翠が喜んでしまうのも不思議ではない。
 しかし、翠はある理由により、すぐさまその話に「はい」と言うことはできなかった。親友であるマキが恋していた人物こそ、他でもないこの風間雅晴だったからだ。マキがいないこの場で、彼女に内緒でOKしてしまうということは、親友を裏切ってしまうということでもある。
 マキとは一生親友同士の関係でいたいと思っている翠には、それは許されないことなのだ。
 とはいっても、気分が有頂天に達していたこともあり、その話を断ることも惜しまれた。
 悩みに悩む。はたして、私は一体どうすればよいのだろうか。
 そんな時、一匹の悪魔が翠の耳元でささやいた。
――付き合っちゃえよ。こんなチャンス滅多に無いんだから。大丈夫、マキの奴はしばらく病院から出てこれないんだし、黙ってればバレはしないさ。
 気がつけば、翠は雅晴に向けて深々と頭を下げていた。そして、選んではならない禁断の選択肢を選んでしまっていた。
「よろしくお願いします」
 後々考えると、それはあまりにも馬鹿げた選択だった。思考回路が正常に作動してなかったためだろうか、とにかくこのときの翠はどうかしていた。男に狂わされた色情魔だと言われても仕方がないほどに。
 この日から二人の交際が始まった。まだ中学一年生同士である二人の交際は清らかで、一緒に買い物に出かけたり、映画を見に行ったりと、そんなふうにして一緒に時を過ごしていた。
 しかしこれは他人に知られてはならない事。もしもマキの耳にその事実が伝わってしまえば、たちまち二人の親友同士の関係は崩れてしまうであろう。なので翠と雅晴は学校ではなるべく接さぬよう気をつけて、隠れて会うようにしていた。
 翠は雅晴との交流が始まってからも、マキの見舞いには通うようにしていたが、自分と雅晴の関係については執拗に伏せ続けた。そんな努力の甲斐があってか、その交際がマキの知るところになりはしなかった。しかしマキの口から雅晴の名が飛び出すたびに罪悪感を覚え、そして心が痛んだ。これはお互いに隠し事をしないという掟を破った代償なのだろう。
「ねえ、風間君は新しい学校でクラブ入ってるの?」
 親友の裏切りを知らないマキは、いつものように話す。しかしどこかぎこちない様子の翠を見て、なにやら不安を感じたのだろうか。じっと顔を見つめてきて、確認するように、
「ねえ翠、いつまでも私のことを応援してくれるんだよね?」
 と聞いてきた。
 その瞬間、ドキリと心臓が跳ね上がる。そしてふと『いつまで隠し通せるだろうか』という不安が込み上げてきた。
 しかし本当のことを言ってはならない。言えば二人の関係は終わってしまう。
「ええ。前にも言ったとおり、私はいつまでもあんたの恋を応援し続けるよ」
 とっさに嘘をついてしまった。しかし、緊張によって口調を乱すこともなく、表情を固くすることもなかった。それはまるで嘘をつくことに慣れてしまったかのようで、翠はそんな自分に嫌気がさした。
 結局真実を伝えることなく、翠は病院を後にした。
 背中に背負った十字架が、とても重く感じられた。

 クリスマス。その日は街に恋人達の姿が溢れかえる。駅前の広場で待ち合わせている翠と雅晴も、そんなカップルの群れの中に、今やすっかりと溶け込んでいる。
「それじゃあ行こうか」
 雅晴が手を引いてきたので、翠も彼に寄り添うようにして歩き始めた。
 至福の時。今まさに二人は幸せの絶頂へと達していた。
 恋人と二人で過ごすクリスマス。誰もが一度はそれを夢に思うであろう。翠はそれを今ついに経験しようとしている。本来なら胸を躍らせながらその至福の時間を楽しむはずであった。しかしなぜだろうか、翠は楽しいながらも心のどこかに引っかかりを感じていた。それはいつまでも消えることなく、散々遊びまわった後に雅晴と別れる時まで感じ続けた。
 雅晴と別れた後、翠の足は自然と病院へと向いていた。
 やっぱり駄目だ。私、いつまでも雅晴との関係を隠し続けることはできない。
 親友の顔が頭の中に浮かび上がるやいなや、翠はマキの元へと向かって走り始めていた。
 翠はついに決心したのだ。これまで嘘をつき続けてきたことを謝ろうと。そして雅晴との関係を洗いざらい白状しようと。
 ほどなくして病院に到着した。面会時間はとっくに過ぎていたが、マキの見舞いに頻繁に訪れていた際に仲良くなった看護婦がまだ夜勤していたので、事情を話して協力を得て、なんとか病院内へと入ることができた。夜十二時には帰るという条件つきだったが。
 消灯時間が過ぎて薄暗くなっている廊下を、翠はマキの病室へと向けて走った。
 この病院にはよほど気の利く看護婦がいるのか、廊下のところどころにリースやモールといったクリスマスの飾りが施され、院内はささやかにだが彩られていた。
 しばらく走って、ようやくマキの個室の前へとたどり着いた。
 乱れた呼吸を整えて、気持ちが落ち着いてから扉をノックする。少しの間耳を済ませていたが返事は返ってこない。もう眠ってしまったのだろうか。
 もう一度ノックしてみるが、やはり返事は返ってこない。
 何気なく引き扉に力を加えてみた。すると扉はあっけなく開いてしまった。
 無断で入るのは悪いと思いつつも、親友に話したいことがいっぱいあった翠は、ゆっくり静かに室内へと身を滑り込ませた。
 既に消灯済みの病室内は暗かった。しかし室内には色とりどりの華やかな光を放つ光源があった。マキのベッドの枕元に置かれた小さなクリスマスツリーのライトだ。
 クリスマスツリーの七色の光によって微かに照らし出された室内。その部屋の中へと足を踏み入れた瞬間、異様な光景が翠の目に入った。
 天井から吊るされたビニール紐。そしてその先にぶら下がる何やら大きなかたまり。点滅するクリスマスツリーのライトが一斉に光った瞬間、暗闇の中でそのかたまりの姿がはっきりと浮かび上がった。
「マキ!」
 紐の先にぶら下がっていたもの、それは紐の先に作った輪の中に首を突っ込んだまま微動だにしないマキの身体だった。
 翠はマキの元へと駆け寄り、すぐさまその身体を下ろしてやりたかったが、すくんでしまった足が言うことを聞かず、その場から動くことができなかった。
 このとき翠は既に気づいていた。マキはもう帰らぬ人となってしまっているということに。しかし、あまりにも急すぎるその死を現実だと思いたくない一心で、何度も彼女の名を呼び続けた。しかし返事が帰ってくることはない。
 どうして? どうして自殺なんかしちゃったんだよ? 約束したじゃない! 最後まで諦めずに頑張るって……。
 そこまで考えて気がついた。間違っているのは自分だと。親友との約束を先に破ったのは、マキではなく自分なのだと。
 翠はいつまでもマキを応援すると約束した。しかし、その話を真に受けていたマキの気持ちも考えず、翠は一時の感情に流されて雅晴と付き合い始めてしまった。そして二人が付き合い始めてからも、それを知らないマキは自らの想いを語り続けた。それを聞いている翠には既に応援する気など無く、それどころか最低の嘘をつき続けているのだとも知らずに。
――ミドリ、シンジテタノニ……。
 マキのそんな声が聞こえた気がした。
 きっと、彼女は二人の交際を知った誰かしらから話を聞き、禁断の真実を知ってしまったのだろう。
 枕元に飾られていたはずの写真立ては部屋の隅に投げられ、写真を挟んでいたガラスが粉々に砕け散っている。破片の下敷きとなっている写真の中では、仲良さげに手を繋ぐ過去の翠とマキの姿が映し出されている。
 天井からぶら下がったままの翠の顔をもう一度見た。変色した火傷の跡が目立つその顔は、死してもなお悲しんでいるように見える。
 私が……私が彼女を殺した? 私がマキを裏切って、嘘をつき続けていたから?
――ナントイウウラギリダ……。
 再び彼女の声が聞こえた気がした。
「い、いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
 自らの行いを悔いた。約束を破ったばかりか、いつまでも嘘をつき続けていたということを。しかし、いまさら悔やんでももう遅い。死んでしまった人間は、もう二度と帰っては来ないのだ。そして、謝ることさえできない。
 後日、マキの自殺は『松乃中火災による更なる死者』と銘打ってメディアを賑わせることとなった。そのどれもが“火事による火傷を悲観しての自殺か”などと憶測を述べていた。しかし、翠ただ一人のみがその真相を知っていた。そして、ただ一人でその罪を背負い続け、今日までを生きてきた。だがそれは思う以上に過酷なもので、精神の疲れに耐えかねた翠は、自ら命を絶とうとも考えはじめた。
 そんなあるとき、プログラムに選ばれた。
 翠はそれを、自らに下された刑罰だと考えた。そして決めたのだ。自らの想いを全て雅晴に話した後に命を絶とうと。

「さようなら」
 翠は自らに向けたコルトロウマンの引き金に当てた指に力を入れようとした。
「やめろ!」
 危機を察した雅晴は翠へと飛びついた。そして自殺を謀る彼女を止めようと、その手から銃を引き剥がそうとした。
「放してよ! 死なせてよぉ!」
 一瞬反応が遅れた翠と雅晴はもみ合いになった。そのときだった。二人の手の力が加わった瞬間に銃が暴発し、その銃口から放たれた弾丸が雅晴の左胸部を貫通したのは。

【残り 三十九人】
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