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−ひびわれた深層(4)−

「これは……、いったいどういうこと?」
 信じられないような光景を目の当たりにして、春日千秋は呆然と立ち尽くしてしまった。
 崩壊したダムから溢れ出た水は、とてつもない勢いで山の斜面を流れている。高台の上からその様子が一望できた。しかし、プログラム本部として使われている分校は今もまだ無傷のままで、これから水に飲まれてしまうような気配も全く感じられない。それは、脱出計画の発案者、蓮木風花が組み立てたシナリオには無い展開であった。
 いったいどうしてこのような事態が起こってしまったのだろうか。
 千秋は現状を把握するべく、島じゅうに視線を走らせる。すると、予想もしなかった原因に辿り着くこととなった。
 ダムと分校を結ぶ一本の線を分断するかのように、山が途中で崩れている。水の流れはそこで急に向きを変えて、市街地の方へと下っていっていた。直撃を受けた北村住宅地は、今や泥水の色に染まって、元の姿を失っていた。
 どうやら計算を誤っていたらしい。と、千秋は自分達の過ちに気がついた。
 昨日から降り続いていた雨がもたらした影響は、なにもダムの貯水量を増やしただけではなかった。じっくり時間をかけて雨は地中に浸透し、そして地面を柔らかく解していったのだ。もろくなった山肌は、大きな圧力に耐えるだけの強度を失っていただろう。そこに勢い付いた水の流れを受けてしまえば、どうなってしまうか想像するのはたやすい。広範囲に渡って土砂崩れを起こし、水の流れを大きく変えてしまうだろう。
 なぜこんなことに気付かなかったのか……。いや、想像できる範囲の話でなかったとしても、せめてこれに近い展開が頭を掠めていてもおかしくは無かったはずだ。だけど不運なことに、千秋のみならず、脱出計画を発案した風花も、それを耳にしていた比田圭吾も、羽村真緒も、誰もこういう形での作戦失敗を思い描くことは出来なかった。
 千秋は、自分たちのことをこれ以上無い愚か者だと思った。目先の光明に喜悦して、肝心なところで詰めを誤ってしまうのだから。もちろん、今回のことは、運に見放されてしまった末に起こった悲劇ともいえた。だが、自分達にとって都合の良い展開を僅かながらも思い描き、小さく開いていた穴を見落としてしまっていたというのは、否定しようの無い事実。もし光明を前にしても囚われず、冷静さを失わなかったならば、己が盲目であろうとも、こういったもしもの事態に対して何らかの備えを行っていただろう。
 真っ直ぐ前だけを向いて、周囲の危険は軽視して、蔑ろのようにしていた。意識的にそのつもりは無くとも、そうだったかもしれない箇所が当時を思い返せばいくつかある。今回の残念な結果は、そういった自分達のご都合主義な思想に対する報いだったのかもしれない。
 でも、それにしたって、いくら何でもこの仕打ちはあまりに酷すぎる。
 恵比須、宇賀神、韋駄天、迦具土神、蛭子神、シーサー、オシリス、フレイ、ハヌマーン……。その役割や国は問わず、千秋はとにかく思いつく限り、神と名の付く者全てを恨まずにはいられなかった。
 あたしたちはこれまでずっと、苦しい思いに耐えながら生き続けてきたのだ。そろそろこの胸を締め付けるような束縛から解放されてもよい頃だろう。なのに、どうしてあたしたちばかりが、さらに重い刑罰の如き圧迫を受け続けなければならないのか。もしも本物の神がこの世界のどこかにでも存在してくれているのならば、こんなことは起こらないはずだろう。つまり、偽者だ。あらゆる神話や宗教に登場する神は全て、作り物の皮を被って役を演じているだけの偽者としか考えられない。
 希望を失い、もはや冷静さなど残されてはいなかった。何もかもに嫌気が差してうなだれる千秋は、無心で地面を殴りつける。振るったのは右腕だったが、左肩にも振動が伝わって傷口が激しく痛んだ。
 ダムに溜められていた、千秋には予想もできないほどの量の水は、山肌が崩れて出来た大きな窪地を、今もまだ下り続けている。もちろん、急に流れが変わって分校の方に向かっていく様子などは無い。苦労して一斉放流した努力の結晶が、無意味に市街地を破壊して、海の中へと流れ込んでいく。
 いったい、真緒や圭吾は何のために命を落としてしまったのか、と思うと、なんだか悔しくなってきた。
「このままではいけない……」
 地面を殴りつけるのを止め、千秋はゆっくりと立ち上がった。頭に上った血はまだ引いてはいない。だけどほとんど無理やりに怒りを静めて、冷静な思考を取り戻そうと努める。
 このままじっとしていても仕方が無い。悲しみや苛立ちが内心を支配してしまうのも当然といえるような展開が起こっているとはいえ、かといってここで全てが終わったと判断してしまったら、それこそ真緒や圭吾を裏切ることとなってしまう。確かに希望はかつて無いほどに薄らいでしまったかもしれない。けれど、あたしはまだ生きている。生きている限り、道を開ける可能性は残されている。なら諦めずに扉を探し、そして前に進もう。死んでしまった仲間達も、きっとそれを望んでいるはずだ。
 千秋は身体の向きを180度回転させ、先ほど登ってきた坂道を今度は下り始めた。流されてきた自分が目を覚ました場所へと戻るのだ。
 仲間は全て失われてしまったわけではない。まだ蓮木風花が残っている。ダムの水に飲まれた彼女もまた、千秋と同じように、どこかの岸に打ち上げられている可能性があった。ならば探すべきだろう。
 もし風花を見つけることができたなら、二人で生きて再会できたことを喜び合いたい。それに脱出計画を発案した彼女なら、今回の出来事への対処も考え付けるかもしれない。もちろん人任せにするのではなく、千秋だって真剣に考えるつもりだ。ただ、一人で考えているよりも、二人で知恵を分かち合った方が何事も効率が良いに決まっている。何にしろ、まず風花を見つける必要がある、ということに違いは無かった。
 ほどなくして、千秋が打ち上げられていた岸が見えてきた。側を流れる濁流は、相変わらず凄まじい勢いを誇っている。いや、それどころか、水門の崩壊がさらに進んだのか、流れは前よりも激しさを増しているようにも思われた。木々や岩の欠片に混じって、たまにコンクリートの塊らしきものが流されているのが確認できた。
 あんなものまで流されている水の中にいて、よくもあたしは無事でいられたものだ。
 千秋は不安になる。自分が助かったからといって、一緒に流された仲間も同様に命が救われているとは限らないのだ。
 息をのんで真っ直ぐ前を見据える。
 どんな結果が自分を待ち受けているかは分からない。だけど、なにがあっても目をそむけないという決心が無ければ、この先の展開によっては自分の精神が折られてしまうかもしれない。なんとなくそう思った。
 上流の方はその場からの見通しが良く、川沿いに人の姿は無いというのがすぐに分かった。となると必然的に、千秋が風花を探すエリアは、数々の障害物に邪魔されてよく見えない下流の方に絞られることになる。
 行くか。
 千秋は再び深呼吸して、流れの下の方へとゆっくり進みはじめた。大事なものを見落とさぬよう、じっくりと周囲に視線を配りながら歩く。砂利を踏んだ時のごりごりとした感触が、薄くなった靴底を経由して足に伝わってくる。
「痛っ」
 歩いている最中、脇の藪から伸びてきていた細い枝に肩の傷を撫でられた。途端、もともとはっきりとは見えていなかった景色が急に暗転しそうになった。今にも倒れてしまいそうな立ち眩みまでもが襲い掛かってくる。だけど千秋は力強い一歩で手前の地面を踏み、なんとか意識と体勢を整え直す。倒れてはならないという強い思いが、ぎりぎりのところで身体を支えてくれたのだった。
 そうだ、あたしはまだ行ける、と自らに言い聞かせる。すると、心も身体も、もう限界近いはずなのに、不思議とまだ頑張れるような気になった。
 風花が助かっているとしても、彼女が島の何処に辿り着いているかは不明。よって、千秋が行なっているこの捜索も、いつ終りを迎えるのか分からない。もしかすると、これから何時間も歩き続けなければならないという状況の中、意欲を保つことはなにより重要だった。
 千秋は必死に歩き続ける。時間の感覚も無く、自分がどれくらい川を下ってきたのか、途中からはもう分からなくなってしまっていた。
 岸に流れ着いた数々の障害物が景色を狭め、捜索の邪魔をしてくる。まだまだ先は見えない。
 焦るな。落ち着け。
 再び自分に言い聞かせながら深呼吸。ペースを乱して身体に余計な負担を与えるわけにはいかない。それにあまり急ぎすぎたら、それこそ大切なものをつい見落としてしまいそうだ。岩陰に転がっている仲間の存在に気付かず通り過ぎてしまう、なんてことがもしあったら、悔やんでも悔やみきれない。
 歩きながら、人がいる可能性のある場所は全て確認しながら歩く千秋。しかしその努力はなかなか実らず、いつまで経っても風花の姿は見当たらない。
 まだまだ、諦めてなるものか……。
 川辺に転がった巨大な岩に右手をつきながら、さらに続く砂利の地面へと回り込んだ。すると唐突に、岩に隠されていた先の様子が、鮮明な像となって目に飛び込んできた。
 千秋は目を擦った。
 遠くの方で、川から上半身だけを岸に出した人が倒れているのが見える。じっと目を凝らしてみても、その光景に変化は表れない。妄想や望みが引き起こした、都合の良い幻などでないのは明らかであった。
「蓮木さん?」
 千秋は走れないまでも、なんとか今出せる限りの歩行スピードで、倒れている人のほうへと進みだした。
 近づくにつれ、暈しがかかって見えていたその姿が、はっきりしたものに変わっていく。辛うじて「人」と判断できるだけだった不透明な像の中に、確固たる詳細な情報が加算されていく。
 だが、千秋はすぐに足を止めてしまった。

【残り 五人】
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