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−ひびわれた深層(3)−

 火山が噴火したかのような轟音が聞こえ、大地が上下に激しく震えたのは、ほんのつい先ほどのこと。
 桂木幸太郎は分校の一室で跪きながら目を瞑り、時が訪れるのをじっと待った。
 少し離れたところから複数人の足音が聞こえてくる。兵士達が慌しく駆け回っているらしい。まさか本当に、醍醐に命じられた通りに土嚢か何かで堤を築こうとしているのか、それともコンピューターを濡らさぬよう急いで運び出そうとしているところなのか。彼らが今、何をしているのかは、死刑執行を前にした桂木の知るところではない。だがこれだけは分かる。今さら慌てて動き出したところでもはや無意味。建物全体を飲み込むであろう水の前では、チンケな壁の建設や僅かな距離の移動なんて、何の抵抗にもならない。戦争中、敵に攻め込まれそうになった城の周囲に泥で壁を作ろうとするくらいに無駄な行為である。
 もちろん、彼らもそれは分かっているだろう。しかし分かってはいても、藁をも掴むような気持ちで希薄な可能性に賭けてもがくしかないのだ。プログラムに参加する生徒達の反乱を考えて、本部のある建物の外壁に鉄板を張り巡らせることは行ったが、水への対策など何も立ててはいなかったのだから。否、前もって立てられるはずが無かったのだ。
 過去何十年にも渡って行われてきたプログラムの歴史の中、このような事態が訪れたことは一度たりとも無かった。それに、今回の出来事も、小さな要素がこれ以上ないほどに上手く緻密に組み合わさって発生した、言わば一つの奇跡のようなもの。本部とダムが絶妙な位置に置かれたプログラム会場の地形、気まぐれな天候によってもたらされたダムの貯水量増加、それに、プログラム参加者の中に紛れていた策士の存在や、仲間であるはずの兵士の裏切り。これら全てを頭に入れて今回のような事態を想定することなんて可能だっただろうか。いや、絶対に不可能だろう。一つ一つの要素にイレギュラーな部分が多すぎる。
 プログラム会場の地形はともかくとしても、天候なんて完璧に予報できるものではないし、そもそも雨が降るかどうかなんて、プログラム運営においては全く気にする必要の無いことだ。策士の存在についても、参加者名簿やその他の資料に目を通したところで気付けるはずが無い。ある意味広大な海よりも奥深い人間の内面は、そんな簡単に見透かすことができるものではないし、その知識の量や頭の回転力などは本人以外に知り得るはずがないのだから。兵士の心変わりによる反逆に至っては問題外。政府側が気にすることが無かったのも当然だ。プログラムを妨害することの無意味さは、作戦に関わっている兵士自身が一番知っているはずだからだ。
 だが今回、そんな一つ一つでは大したことは起こらないであろう事柄が偶然、絶妙なバランスで組み合わさり、取り返しのつかない事態を引き起こしてしまった。政府側からすれば想定外の出来事。当然、襲い来る水に対抗する準備なんて全くできていない。
 多大な時間をかけてでも、砦の周りに石とコンクリートで屈強な城壁を築き上げなければならないような戦況。しかし石もコンクリートも時間も足りず、結局彼らは土と泥で薄く軟弱な壁を急造することしかできない。無駄だと思いながらも一途の望みに賭けて、愚かしくも力を消耗し果てていく。そんなことが今現実に起こっている。
 毒を飲み込んでしまった人間が喉元を掻き毟るような末期症状。もはやこの戦いの終りは見えていた。
 砕けたコンクリートの塊や、何本もの巨木を飲み込んだ濁流が、こちらを目指すようにだんだんと迫ってきている様子が、瞼の裏にはっきりと浮かんでくる。
 早く。もっと早く。
 桂木はもう待ちきれなかった。プログラムの崩壊という危機に晒されて、兵士達のほとんど全員が本部を死守することに追われ、もはや生徒達の方に気を向かせるような余裕なんて無いはず。とはいえ、メインコンピューターが無事である限り、千秋たちの首輪が爆破されてしまうという危険は消え去らない。
 俺もろともで構わない。だから、早く全てを飲み込んでくれ。
 強く願う。しかし、その時はなかなか訪れない。山肌を削りながら流れる水の激しい音はたしかに近くまで迫っているというのに、なぜか分校が飲み込まれるような気配は全く感じられないのだ。何も起こらないまま、無情にも時間ばかりが過ぎていく。
 いったい今、何が起こっているのだろうか、と、桂木はゆっくりと目を開いた。
 先ほどから何ら変わりの無い教室の風景。力の無い目を開いて倒れたままの相沢智香の死体が、ただじっと空虚を見つめている。
 扉の方に視線を移動させると、教室の出入り口付近に醍醐一郎の姿があるのが目に入った。すぐに本部に向かって走り出したいところだが、重罪人である桂木から迂闊に離れてしまうこともできない、という状態なのだろう。事の様子を確認するためか、彼は教室から廊下に身を乗り出している。しかし、建物の中にいる限り、外の様子を知ることなど絶対に出来ない。窓が鉄板で覆い尽くされていて、太陽光が一筋も差し込んでこないような状態なのだ。朝を迎えながらも、建物内の照明を消してしまうことは出来ない。
「おい、一体どうなっている?」
 醍醐は廊下の奥の方を見ながら誰かに向かって問いかけた。その際、銃は後ろ手に構えたままで、決して背後の反逆者から気を逸らしているわけではなかった。おかげで桂木は不用意に逃げることも歯向かうこともできない。
 ところで、醍醐も桂木と同様に、ダムが破壊されつつも分校に何の被害も及んでいないという現状に対して、幾ばくかの疑問を抱いているようだった。エリアで言えば二つほどしか離れていない所にあるダムが破壊されれば、通常もうとっくに建物全てを飲み込まんばかりの激しい水流が押し寄せてきているはずだった。
「ダムから溢れた水はこちらに向かってきているのか!」
 声のボリュームを上げて、醍醐が再び問いかける。すると、廊下の外から一人の兵士の声が返ってきた。
「分かりません。事態に備えて、兵士総出で出来る限り手を尽くしてはみたのですが……。なぜか一向に水がなだれ込んでくる様子が無いのです」
「なんだと! それはいったいどういうことだ!」
「これより、衛星を使って島の状況確認を行うつもりです。現状が分かり次第、追って報告させていただきます」
「急げよ。今水が来ないからといって、もうずっと安心できるとは限らないからな。絶対に気を抜くな」
「はっ」
 力強く返すと、兵士は慌しい足音の中へと消えていった。
 一連のやり取りを耳にして桂木は愕然。
 まさか、唯一の希望だった千秋達の脱出計画は、失敗に終わってしまったと言うのか?
 僅かに辺りを照らしてくれていた光の筋を見失い、頭の中が真っ暗になりそうになる。
 このままでは自分だけでなく、千秋も醍醐の手によって死に至らしめられてしまう。
 絶対に避けたいと思っていた展開が、いつしか自分達を完全に飲み込んでしまっていた。桂木は不運にもそれに気付くのが遅すぎた。

【残り 五人】
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