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−ひびわれた深層(2)−

 水の音が聞こえる。沢のせせらぎのように穏やかなものではなく、轟々と流れ落ちる滝のように威圧感のある唸り。地響きすら起こさせるその激しさを身体で感じ、地面の上に倒れていた少女は小さくうめき声を洩らしながら身をよじった。
「う……ん……」
 右肩を下にして横になりながら、腰を中心に全身をくの字に曲げているような状態。組んでいた足を左右に広げて、大の字になるように仰向けになった。
 冷たい風が頬を優しく撫でて通り過ぎていく。ひんやりとした感触がとても心地良い。
 少女は閉ざしていた目をゆっくりと開いた。青い空が視界いっぱいに広がっている。東の空から太陽がようやく昇ってきたらしく、辺りを包み込んでいたはずの真っ白な霧はほとんど消え失せていた。
「んっ……」
 両足を伸ばしながら、再び唸り声を上げるこの少女は春日千秋(女子三番)。決壊したダムの水に流されて気を失いながらも、幸運にも一命を取りとめていた。
「あたし、助かったの……?」
 自問自答するように呟いた。なんだか長い夢を見ていたような気がする。
 目を覚ましたばかりの彼女は不思議な感覚にとらわれていた。夢か幻か、ついさっき懐かしい人に出会った気がした。松乃中等学校大火災が起こるまで、かつて仲良く一緒に過ごしていた親友の一人。共に遊んだ楽しい日々の思い出が頭の中に次々と蘇ってくる。彼女一人を炎の中に置き去りにしてきてしまったという、一生消えぬ罪の記憶も一緒に思い出される。
「は……づき?」
 思わずその親友の名を口にしてしまう。しかし千秋は自分でも分からなかった。クラスメートの多くが命を落としていったプログラムの最中に、どうして二年前に死んだ者が今さらになって頭の中に姿を現したのか。何か思いがけない出来事が訪れる予兆なのか、それとも、生き伸びるために必要な何かを暗示しているのだろうか。
 すぐに考えるのを止めた。一度気になったことをそのまま放っておきたくはないが、今は夢で見たことなんかばかりに頭を使っている場合ではなかった。
 ここはいったい何処なのか。千秋と一緒に濁流に飲まれた他の者たちはどうなってしまったのか。脱出のための計画は結局成功したのかどうか。
 すぐさま把握しなければならないことは沢山あった。
 状況を確認するべく身を起こそうとする。しかし水に濡らされた全身がとてつもなく重くなっているためか、思い通りに動くことが出来なかった。体力を使い果たしてしまっているせいもあるだろう。しかたなく、辛うじて動く頭だけをまわして周囲の窺うことにする。
 何か大きな力に集められた砂利によって周囲より少し盛り上がった地面。千秋はその上に転がっていた。すぐ側では山肌が削られて出来た天然の水路があり、泥の色に染まった濁流が激しく唸りを上げている。力強い流れは行く手に在るもの全てを飲み込んでいるかのごとく荒々しく、なぎ倒された木々などが目の前を物凄いスピードで通過していった。
 どうやら千秋は幸運によって救われたらしかった。狂ったかのように辺りにある物を容赦なく破壊し続けているあの流れの中に居続けていたら、命がいくつあっても足りないように思われる。こうやって岸に偶然打ち上げられでもしなかったら、きっと今ごろ生きてはいられなかっただろう。
 どれくらいの距離を流されてきたのかは分からないが、とにかく、命だけは助かった。泥や砂、それと自らの血にまみれてボロボロになった衣服が多少気にはなったが、それくらいは我慢しなければならない。ちなみに、所々で無造作にはねた髪がみすぼらしさを演出するような感じになってしまっていたが、後ろで髪を縛っていたヘアゴムは水の中でも外れることは無かったようで、おかげで今もまだトレードマークのポニーテールは辛うじて維持され続けていた。
 自分の身が置かれている状況を、千秋はなんとなくだが把握できた。でもまだ大事なことは何一つ分かっていない。
「蓮木さんは、いったいどこに……」
 再び周囲に目を向ける。ダムが崩壊したことによって勢い良く流れ出した水の渦に飲み込まれる風花――今のところそれが、千秋が見た彼女の最後の姿である。
 はたして、風花もまた千秋と同様に、運を味方につけて助かることはできたのだろうか。ただでさえ彼女は血液不足で身体が弱りきった危険な状態であったため、今もまだ生きていてくれているのだろうかと心配せずにはいられなかった。
 いくら振り払おうとしても悪い予感が幾度と無く頭に浮かんでくる。
 彼女を探さなければ、と、千秋は立ち上がろうと試みた。だが、相変わらず身体は言うことを聞いてくれない。
 足は両方ともほぼ自由に動かせるのだが、流されている途中で負傷してしまったのか、腕に力がほとんど入らなくなっている。とくに左腕。微力ながら身体を支えるだけの能力が残されている右腕に対して、左腕からは全く働く気配が感じられない。まるで脳からの信号を伝達する神経の全てがごっそり消失してしまっているかのよう。
 仕方が無い、と、千秋は両足をゆっくりと持ち上げた。腰が直角に曲がって下半身だけが倒立した、アルファベットのLを模るような体勢。腹筋に力を入れてその形を保ったまま、今度はその足を地面の上に振り落とす。すると、これまで全く浮く気配の無かった上半身が、いとも簡単に持ち上がってしまった。下半身の重みを利用した振り子作戦だ。自由の利かない腕の力を利用せずとも、見事体勢を立て直すことが出来た。
 上半身を地面に直立させたのは何時間ぶりだろう。今まで堅い地面に圧迫され続けていた背中が少し痛かった。が、千秋は構わず、さらに今度は立ち上がろうとする。風花を探すにしろ、作戦が成功したかどうか確認するにしても、いずれにしろ歩いてここから移動する必要があった。小高い丘でも見つけることが出来れば、その上から色々と見えてくるかもしれない。
 両の足を手前に引いて力を入れると、小さな尻がゆっくりと浮かび上がる。足は左右共に無傷ではなかったが、負傷とは言っても膝を擦り剥いたりした程度で、立ち上がることくらいは造作も無かった。
 千秋の視野の高度が徐々に高まっていく。
 ふいに違和感を抱いた。ほとんど動かなくなっている左腕がブランと垂れ下がるような感覚が、肩を経由して脳に伝わってきたのだ。骨格によってしっかりと支えられているはずの四肢は、通常このような感覚を発したりはしない。
 腕がどうかしてしまったのだろうか?
 気になって頭と視線を、違和感のある左腕のほうへと同時に動かした。そして、不自然に動かない腕に直接、辛うじて動きはするもう片方の手で、そっと触れてみた。
 派手に破れて無残な姿となったワイシャツの袖がぐっしょりと濡れていた。濁流の中に一度沈んだのだから当然だと思った。だが、水にしてはぬめり過ぎだとすぐに気付いた。
 まさか、これはあたしの血……?
 不吉を感じて身震いしたとき、右手の指に何か固くて尖ったものがあたった。両眼がその正体を捉えた瞬間、千秋はあまりの驚きから表情を固めてしまった。
 指に触れた固いもの――それは、真ん中で砕けて体の外に飛び出した上腕骨の尖端だった。
「ひぃっ!」
 初めて自分の骨を直に見てしまった恐怖から、思わず悲鳴に近い声をもらしてしまう。千秋は、左腕が動かないのは筋肉の疲れが限界にまで達してしまっているからか、せいぜい肩間接が外れてしまったかしたせいだと勝手に思っていた。ところが実際にはそうではなかった。おそらく濁流に飲まれて流されている間に、岩や樹にぶつかるなどして骨が砕けてしまったのだろう。皮膚を突き破って飛び出した骨の割れ方は素人目にも酷く、早急に治療が必要なのは明らかだった。
 だがそんな状態でありながらも、今まで不思議と左腕から痛みなど全く感じていなかった。
 そういえばいつか聞いたことがある。痛みがある一定のラインを越えるほどに凄まじいと、逆に何も感じなくなることがある、と。今回の千秋の場合もまさにそんな状態だったに違いない。だけど、負傷に気付いてしまった途端から、状況は一転してしまった。骨が皮膚を貫く痛々しい様子を目の当たりにしたことによって、千秋の精神は怯んで急激に弱まってしまい、それを期にこれまで感じていなかった痛みが鋭い棘となって襲い掛かってきたのだ。
 骨が突き出した箇所を右手で押さえながら地面に跪き、全身を石のように固めてしまう彼女。思わず絶叫してしまいそうになるのを、唇を必死に噛むことによってギリギリ堪えた。口の中に血の味が入ってくる。
 気分は急激に悪化していった。喉の奥から酸味が込みあがってくると、危うく嘔吐してしまいそうになった。
 恐ろしかった。赤い肉が覗く傷口のそばでは皮膚の一部が地割れを起こしたように引き裂けていて、今にも身体から剥がれ落ちてしまいそうに感じた。千秋がとっさに掌で腕を抑えたのは、傷がこれ以上広がるのを避けるためではなく、むしろそんな悲惨な光景を目の届かないところに隠してしまいたいという思いからの行動だったのかもしれない。
 それにしても、人間なんて軟弱な生き物だ。牙を剥いた大自然の力の前ではどうすることもできず、こうして簡単に捻り潰されてしまう。


 自らの被害の大きさを知り、風花の安否がさらに心配になってきた。同じ流れに飲み込まれた彼女も、この様子では相当酷い目に遭っていてもおかしくない。
 腕が千切れそうなほどの痛みに襲われて、もはや自身を支えていた精神の柱も崩壊寸前。しかし千秋は渾身の力を込めて再び立ち上がった。
 あまりに酷い痛みのせいで涙が止まらない。視界がぼやけてほんのすぐ前もほとんど見えていない。だけど、仲間を助けるために犠牲になった比田圭吾や、親友だった羽村真緒の思いを無駄にしないためにも、ここで歩を止めてしまうわけにはいかなかった。そう、終りが訪れていない以上、まだ前に進んでいかなくてはならない。風花がまだ無事でいてくれることを信じ、地獄のようなこの島から脱出して、志半ばで力尽きてしまった仲間達の分まで生き続けなければならないのだ。
 はあはあ、と荒くなった自らの呼吸音が、他のどんな音よりも大きく聞こえた。
 傷を抑える手の指の間から、生暖かい血が染み出してきているのを感じる。自分の体液のぬるぬるとした感触が怖くて、とてもそちらに視線なんて向けられない。赤く染まった腕をもう一度見て、意識を保つ自信が無かった。
 見ない、感じない、気にしない。死を意識しないためには、もはや現実から逃避するしかない。朽ちていく自分の姿を想像したら、生への渇望なんて一瞬のうちに消え去ってしまいそうだ。
「もう少しだから。もう少しだけだから」
 悲鳴を上げる身体中に言い聞かせつつ、気力を振り絞ってゆっくりと足を進める。靴の下で小石のジャリジャリと音をたてる。
 濁流から離れていくと、程なくして緩やかな斜面に差し掛かった。千秋は止まることなくそのまま真っ直ぐ登っていく。
 斜面はあまり長くは続かなかった。道はすぐに途切れて視界が大きく開けた。ちょっとした高さのある崖の上に出たらしく、目の前には展望台から見たかのような景色が広がっていた。
 ここなら現状を確認しやすそうである。
 青と黄色が入り混じった山が面積の大半を占める島。遠くの方に砂の浜と岸壁が見え、さらにその向こうには一隻の船が浮かんでいるのが確認できる。プログラムの憎らしい見張り役だ。今回の脱出計画における最後の関門。あそこを無事に突破できなければ、生を掴み取ることはできない。
 千秋は遠くに向けていた視線を手前に引き戻した。島のやや西側に、プログラム本部のある分校が建っていたはず。はたして、ダムから流れ出した大量の水は、本部にどれだけのダメージを与えることができたのだろうか。
 視線はすぐに、プログラムルールの説明の場でもあったエリアF−4を捉える。
 信じられない光景に千秋は愕然とした。
 身体全体から力が抜け、肩を落とし、そのまま土の上に膝をついてしまう。
 ダムの水を直接受けると思われた低地に、軟弱な木造の建築物――分校は押し寄せる水流によって崩壊させられるどころか、全くの無傷のままで何事も無かったかのように在り続けていた。

【残り 五人】
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