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−暁の水上決戦(9)−

 空気の激しい振動が身体に伝わると同時に、視界の中で景色が大きく揺らいだ。ボートの底が持ち上げられて、水面に対して斜めに傾いてしまっている。すぐ横で高く水柱が上がった。
 いったい何が起こったのか、千秋はすぐに状況を理解できなかった。混乱のためか、本当に水面下から鮫か何かが飛び出してきたのかと、一瞬ありえないことを考えてしまう始末。
 バランスを崩して船底に尻餅をついてしまった。すぐに体勢を整え直そうとするが、
「頭を上げるな!」
 風花に怒鳴られる。彼女は船底に伏したまま目線だけを動かして、千秋のほうを見ていた。
 続けてもう一度爆音が響き、ボートが左右に激しく揺さぶられた。白い柱が高く伸び上がったかと思えば、酷く冷たい流水が船内に入り込んでくる。
「いったい何が起こっているというの」
 半泣きになりながら千秋が言った。風花は動揺を隠しきれていない顔をこちらへと向けてくる。
「敵の攻撃よ。たぶん、グレネードランチャーを撃ってきたんだと思う」
「グレネードランチャー?」
「榴弾を発射するための銃器。いわば小さな大砲みたいなものよ。さっき追い付かれたときに彼女がぱんぱんに膨らんだデイパックを抱えているのが見えたわ。たぶんその中に入っていたのでしょうね」
「じょ、冗談じゃない。そんな強力な武器で狙われちゃったら、こんなボートなんてすぐに沈められちゃうじゃない」
「彼女はそのつもりで撃っているんでしょ。嫌ならエンジン全快で逃げるしかないわね。逃げられるかどうか分からないど。一発でも命中させられたら、私達なんて船ごと簡単に木っ端みじんよ」
 船底に数センチ溜まった水に足を浸したまま、身体を横に動かしてバランスを整える。すると、一時は沈むかと思えた船の傾きが幾分軽減される。
 しかし、沈没の危険を免れて安堵したのもつかの間、
「気を抜かないで。今度は右!」
 命令調に風花が船尾の舵を動かしながら言う。
 すぐにそれに従って右へと体重移動した。船縁の左側が持ち上がり、逆に反対側は水面へと近づく。重心が片側へと寄ったために、真っ直ぐに前進していた船の軌道が、緩やかに右へと曲がっっていった。雪上のシュプールのようにボートが通った後に残される水の上の線も、直線からカーブへと変化する。
 千秋達のボートの向きが変わった直後、左手でまた水柱が上がった。榴弾の破裂によって巻き上げられた大量の水が、敵の武器の強大さを物語っている。樹木の一本や二本は軽くなぎ倒してしまうくらいの威力はあるように思われた。もしも軌道を変えずに船を真っ直ぐ進めていたら、もろに榴弾が直撃し、今頃撃沈させられていたに違いない。
「オーケィ、上手く回避できた。船の方向は大丈夫?」
 船尾で敵の様子を確認しながら風花が聞く。
「少し北に向かってしまっているわ」
 コンパスの針が揺れて分かり辛かったが、千秋はなんとか船の状況を割り出した。
「それじゃあ今度は左に曲がるわよ。幸い敵が次の砲撃をしてくる気配はまだない」
 見ると、桜はランチャーに次の弾を装填している最中だった。ある程度使い慣れていたマシンガンとは勝手が違い、少しばかり手間取っている様子だ。その間、彼女のボートは操縦がお留守になっており、水の流れによって向きが徐々に変えられていっている。
 エンジンの馬力が大きく違わない以上、操縦に専念できる千秋達のほうが追いかけっこでは有利だった。
 瞬く間に、二艘の間の距離は再び開いていく。
「よし、この調子なら大丈夫。逃げ切れるわ」
 舵を強く握りながら風花が言った。
「砲撃は?」
「たぶんまだこない。それに、この状況からすると、私達の船を沈めるなんてことは簡単にはできないでしょう」
「どういうこと?」
 千秋は聞く。簡単には沈められないと風花が言う理由が分からなかった。
「船の揺れよ。白石さんが二度の砲撃で私達を仕留めることができなかったのは、足場が不安定で狙いが定まらなかったから。そう、ただ地面の上に立って銃を撃つのとは勝手が違うのよ。水の上での戦いという慣れない状況に、彼女は対応できていない。せめて船の揺れが治まらなければどうにもならないでしょう。でもそうはいかない、見て」
 風花が指す方を見る。桜の乗っているボートが激しく波打つ水面に弄ばれ、安定するどころか今にもひっくり返りそうになっていた。
「まさか、自滅」
「そう。グレネード弾の爆発で水面が揺さぶられたことによって、彼女の船の操縦にも大きな影響が及んでいる」
「じゃあ、白石さんが砲撃を続ければ――」
「その都度、彼女の身に転覆の危険が付き纏うことになるわね」
 ある程度ボートの向きが元に戻ったところで、風花は舵から手を離す。そして、身を縮めて縁の陰に隠れた。
「でも安心は出来ないわよ。彼女は私達が死ぬまで砲撃を続けるだろうし、弾が偶然こちらの船に当たってしまうということもある。あ、伏せて!」
 三度目となる桜の砲撃。グレネード弾は女二人の頭の真上を飛び越えて、目算十五メートル前方で着水した。直後、千秋の身長よりも圧倒的に高い水柱が上がり、大きな波が船を襲う。
 千秋たちは両手で左右の縁を掴みながら船の安定に努めた。しかし桜は敵への攻撃にばかり気が行っていて、船の操作なんて片手間もいいところだ。転覆こそしなかったものの、あれだけの揺れの中では弾の詰め替え作業すらもままならないだろうと思われる。
「水門はまだ見えないか?」
「まだよ。ていうか、霧のせいで未だに自分達がどれだけ進んでいるのか分からない」
 千秋は焦り気味にコンパスと景色の間で視線を行き来させる。さらに敵がいる後方を気にしていたら、それだけでもう精一杯。
「また砲撃よ」
 船尾の風花が警告する。今度はかなり近い位置で水柱が上がった。千秋の右斜め後ろ数メートルの位置――ほとんど風花のすぐ横だ。今までに無かった衝撃を受けて、一瞬足場が四十五度近くも傾いた。たまらず千秋は転がって腰を打ちつけてしまう。
「まだよ、もう一発来るわ」
 船のバランスを整える暇も無く、今度は左斜め前で弾が着水。持ち上がった水に船底が押し上げられたが、左右から順番に力を受けたためか、運の良いことに角度が安定。池に放り出されることはなんとか免れた。しかし水面のうねりに嬲られ続けたためか、ついには千秋の三半規管が異常を発する。吐き気がした。船酔いだ。


「まずいわね」
 風花が渋い顔を浮かべている。
「相手の砲撃の間隔が短くなってきている。それに、狙いもだんだんと絞られてきている」
 そういえばそうだ。桜は初め、不慣れなボートの揺れにてこずって、弾の詰め替えにすら苦戦していた様子だった。しかし今後ろを見ると、ほとんど揺れのない船の上で手際よくグレネードに弾を詰め込む姿が確認できる。
「学習したのね」
「えっ?」
 またしても風花の言葉の意味を理解できない千秋。
「白石さん、この短時間でボートの操縦と水上での砲撃を習得していっているのよ」
 風花は眉をひそませながら、暑くも無いのに額に汗を浮かべている。顔色が悪いのは相変わらず。
「まさかそんな。こんな短い間に、そんな高度な術を会得できる人間がいるわけ……」
「彼女に人並みはずれた学習能力があったと考えるしかないわ。そして彼女を最大の敵と見なして真剣に対応しなければ、こっちがやられてしまう」
 といって風花が舵に手をかけたその時、更なる砲撃音が耳に飛び込んできた。弾の装填から砲撃へのモーション切り替えまで、桜の動作が全てにおいて確かに早まってきている。絶妙なバランスでほとんど揺れることも無くなっている船の上から放たれた一発は、これまでに無い正確な軌道で千秋達のほうへと向かってきた。
 ほとんど倒れるようにして身を屈めた千秋は、ごく近い距離で爆発が起こったのを全身で感じた。ボートに強い衝撃が走る。なんとか直撃には至らなかったようだが、榴弾は船の側面を掠めていったらしく、縁の一部が砕けた細かい破片が頭の上から降り注いできた。
「し、沈む!」
「大丈夫よ。進水に影響を与えるほどのダメージじゃあない」
 顔を強張らせる千秋を落ち着かせようと風花が強く言う。だが船が沈まないにしろ、危険な状態であるのに変わりは無い。千秋たちが身を屈ませている隙に、桜は絶妙な舵捌きとバランスで、水面のうねりをものともせず距離を詰めてきている。砲撃の技術の向上にも目を見張るものがあり、彼女の動きを止めなければ、近いうちに自分達が餌食となってしまうのは明白であった。
「まだまだ……。いくら彼女が物凄いスピードで何から何まで学習していっているとはいっても、連射の出来ないグレネードランチャーじゃあ次の攻撃に移るのにはどうしても多少のロスが生じる。その隙に距離を離せば、まだ逃げ切れる可能性はある」
 限界が来ている身体に休みを与える暇すらも無い。風花は砲撃が止んだ間に頭を上げて、船尾の舵に手をかける。この最大の危機に直面しながらも、彼女はまだ諦めていなかった。志半ばにして命を失ってしまった真緒や圭吾のためにも、せめて自分達だけはこの島から脱出して生きなければならない。そんな思いに未だ頭の中が満たされていたに違いなかった。
 風花は身を乗り出して舵をきった。その瞬間、タタタタッ、と軽快な射撃音が聞こえてきた。
 突如無数の弾丸が横槍の雨のごとく飛んできたのだった。ほとんどが周囲の池に沈んでいく中、何発かは船体を掠めて表面を抉り取っていった。千秋は伏せていたので辛うじて身体に弾を受けずに済んだ。だが、船尾から身を乗り出していた風花は無事では済まなかった。
 勢いよく鮮血を噴出させる肩を抑えながら風花が倒れこんでくる。
 迂闊だった。桜はこちらを船ごと沈ませようと、ずっとグレネードランチャーを撃ってくるものかと勝手に思ってしまっていた。しかし、彼女は一枚上手だった。銃で狙えるくらいにまでこちらが身を覗かせると、素早く武器をマシンガンに持ち替えて、狙いを人にだけ絞って乱射してきたのだ。
 風花の傷はかなり深い。もともと血液が不足していた身体から、またさらに貴重な血が流れ出す。船底に溜まっていた水が瞬時に赤く染まっていくのを見て、千秋は絶望と悲しみの底に落とされるのを感じた。

【残り 五人】
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