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−暁の水上決戦(8)−

 穏やかに揺らめく水面を、ボートの縁先が一直線に長く切り裂いていく。ドゥルンドゥルンと水上で唸りを上げるエンジン音が最初はとても耳障りに思えていたが、意外とすぐに慣れてしまった。
 ボートから身を乗り出して下を覗き込む。昨日から降り続いていた雨のせいで水は茶色く濁り、水面下三十センチの様子も今や全く分からなくなってしまっている。コーヒー牛乳かカフェオレを思わせるほどに透明度がとてつもなく低い。
 下を見ているうちに、次第に恐怖が湧き上がってきた。岸近くからダム池に向かって垂れ下がる柳の葉の陰に身を潜ませていた異形の生物が、千秋たちの姿を見つけるや否や水中に潜り、下からゆっくりとボートに向かって近づいてくる。水が濁っているせいで千秋はそれに気付かない。不用意にボートの上から身を覗かせた瞬間、大きく開いた口が目の前に迫ってきて、そして頭から丸呑みにされてしまう。
 そんな場面が唐突に頭に浮かんできたのだった。
 千秋は昔から、こういった自然の中にある池や沼といった場所に対して恐怖心を持っていた。ホラー映画やドラマなどで悲劇の舞台とされることが何かと多いからだろうか。水の中から怪物のような生き物がいきなり飛び出してくるとか、人の死体が浮き上がってくるとか、そういう恐ろしげなシーンはよく見掛けるし、とてもはっきりと印象に残っている。
 だからだろう。濁った水面を見ているだけで不安を覚えてしまうのは。
「大丈夫よ。ここまで逃げればもう心配する必要なんて無いわ」
 不安な表情を浮かべている千秋を安心させようと思ったのか、風花が息絶え絶えになりながらもやさしく話しかけてきた。ボートに乗り込んでからでは初めて発した言葉だった。
「すぐ近くに他のボートは見られなかったし、白石さんがここまでやって来られるはずがない。まさか水の中を泳いで私たちを追おうとも思わないでしょうし」
「いや、あたしは別にそんなことを不安に思っていたわけじゃあなくて……」
 千秋は馬鹿にされることを覚悟しつつ、自分が何を恐れていたのか説明した。異形の怪物に襲われるなんて、とても幼稚な発想だと自分でも思っていた。しかし意外なことに、風花は千秋を馬鹿にしたりはせず、それどころか真剣になって話を聞いて頷きすらした。
「分かるわ。私もこういうふうに水場に近づくことは怖いって、時々思ったりはするから」
「そうなの?」
「あなた、私のことを未だに完璧超人だとか考えたりしてない? 私だってあなたたちと同じ、どこにでもいる普通の女子中学生よ。ただ歳が三つ上なだけの。何かを怖がって不安になることくらいあるわ。ジョーズやディープブルーなどに代表される海洋ホラーを観ていたときなんか、何回心臓が高鳴ったことか」
 長い時間接しているうちに、蓮木風花という人物を理解していっていたつもりの千秋だったが、それでもこの話は意外だと思わずにはいられなかった。気が強くてしっかり者の彼女が、まさかホラー映画ごときに恐怖することがあるとは考えもしなかったから。
「何、その顔。私がこんなことを言っていたら変だと思っている?」
「……ちょっと、ね」
「失礼ね。でも、こういうのって良い傾向だと思うわよ。特に、今みたいに命がかかっている状態の中ではね」
 自らのことを「捕食される立場の人間」だと認識して怯えていれば、自然と外部からの攻撃に対して常に警戒心を持つことになる。すると、万が一に唐突に襲われることがあったとしても、安心し切ってだらけている時よりは素早く対応することができる。
 風花はそのように言った。たしかに、いつでも逃げられるよう体勢を整えていれば、被害はいくらか少なくて済むかもしれないと千秋も思った。
「まあでも、今は警戒心を持つ必要もあまり無いでしょうけどね。水の上を移動して水門に近づくというアイデアは、いろんな意味で正解だったみたいだし」
 二人共もう体力は残っていなくて、重い爆弾などこれ以上運べそうにない。そのため、運搬に船を使用できるというのは非常に助かった。
「これは完全にあなたたちのおかげね。廃ビルから病院へと移動している際に、ダム池の畔にボートがとまっているのを見つけてくれていたから、水門まで爆弾を運ぶための移動ルートとして、水の上を進むことをあらかじめ考えておくことができた」
「たまたまだよ。あたしはただ見たことを何気なく口にしただけだし」
「何にしろ、爆弾を抱えて歩く距離を少しでも短縮できたというのはラッキーだったわ」
 そう。ボートに乗り込んで水門へと向かうという移動方法は、山代総合病院を出発する以前から既に彼女たちが考えていたものであり、窮地に追い込まれて苦し紛れに思いついたことでは決してなかった。比田圭吾を交えて綿密に計画を練っていた中で、千秋たちの証言を元に風花が最適なルートを導き出したのだった。
 ボートならば重いものを運ぶのに体力はほとんど使わずに済むし、水門まで直通で向かうことができる。そのうえ水上なら敵と鉢合わすこともない。
「さて。ボートの速度は決して速くはないけれど、それでもそろそろ百メートルくらいは進んでくれたかしら」
 風花が縁にもたれかかりながら辺りを見回した。そのときになって初めて、周囲の変化に気がついた。
「霧が出てきたね」
 千秋が言う。
 先ほどまでは鮮明に見えていた岸の様子が、今では白くぼやけて遠くのほうで霞んでしまっている。どうやらダム池の西側にはもともと霧がかかっていたらしい。千秋たちのボートは水門へと近づいていくごとに、だんだんと濃度の高いところに入り込んでいってしまっているようだ。
「やっかいだね。水門も見えなくなっちゃっているし、これじゃあ進む方向が定まらない」
「問題ないわ。方向くらいすぐに分かる」
 風花は船底に座り込んだままポケットをまさぐり、支給品であるコンパスを取り出す。
「これを見ながらひたすら西に進めばいい。岸に近づけば水門も再び見えてくるはずよ」
「なるほど」
 赤い針が指す方向から左に九十度。ボートは問題なくその通りに進んでいる。作戦が終わりを迎えるまで残りもう僅かだ。
 千秋は水門にたどり着いてからの行動を、最終確認として頭の中でシュミレーションした。
 ボートを泊めて爆弾を運び出し、水門の最も強度の無さそうなところに設置する。すぐにそこから移動して、爆弾に繋いでいたロープの端を離れた場所から勢いよく引っ張り、衝撃を与えて爆破させる。大きな衝撃を受けた水門の一部が破損し、水圧に耐え切れなくなりダム全体の崩壊に繋がる。限界量まで溜まっていた水が一斉に飛び出して、プログラム本部を一瞬にして飲み込む。メインコンピューターが完全に不能になり、首輪の機能が一時的に失われる。あとは本部の騒ぎに乗じて迅速に動き、海を泳いで外に逃げるだけ。
 よし、と、なだらかに膨らんでいる自らの胸を手で押さえた。とりあえず脳内でイメージはまとまった。海上で見張っているという政府の船が最後の関門となるが、霧の中に身を隠しながら海流に乗れば、なんとかなるように思える。もちろん楽にはいかないだろうけど。
 辺りに漂う水蒸気は、さらに濃度を増していっている。今や前も後ろも十メートルほど離れたところを見るのがやったといった感じだった。どの方角を向いても分厚い霧の壁しか視界に入ってこない。
「まるで水上に閉じ込められてしまったみたい」
 と、風花。
 たしかに、これだけしっかりと隙間なく周りを囲まれてしまったら、自分たちは異空間にでも入ってしまったのではないかと思えてくる。あまりに湿気が高いため、気がつくと顔全体に水蒸気の滴がへばりついていた。
 周りが見えないため視覚はあまり当てにすることはできない。千秋は意識を聴覚へと集め、耳を澄ますことにした。
 ドゥルンドゥルン。
 スクリューを回すボートのエンジンの音が聞こえる。意識してしまうとやはり耳障りに思えてくる。縁に手をついて目を瞑ると、機械の運動による均一的な揺れが全身へと伝わってくるのが感じられた。
 そんな中、千秋はふと気づく。耳障りなエンジンの唸りが、近くからも遠くからも聞こえているように感じるのだ。一瞬は気のせいかと思ったが、よく耳を澄ましているうちにそれは確かなことだと分かった。
 いる。この霧に視界を阻まれた水上のどこかに、ボートに乗って移動している者が、自分たち以外にも。姿形は見えないけれど、それは確実。
「蓮木さん!」
「ええ、分かっている」
 風花も既に気づいている様子。自分たちのボートに何かが接近してきていることに。
 エンジンの音が重なって聞き取り辛いが、間違いなく二隻の間の距離はだんだんと縮まってきている。相手は耳でこちらの位置を正確に掴み、最小限の距離を移動して追いかけてきているに違いなかった。
 やがて集中して耳を澄まさずとも、二隻目のボートの存在が間近に感じられるようになる。
「伏せて」
 風花が叫んだ。その瞬間、大量の石を水面に投げつけられたかのように、無数の波紋が周囲に生まれる。サブマシンガンによる敵の攻撃だ。
 掃射が止まった隙に頭を上げて、後方にうっすらと見える敵のボートへと目を向ける。揺れる船体の上で上手くバランスを取りながら、マシンガンを構えている白石桜がいた。
 馬鹿な。
 千秋の中に激震が走った。
「追跡はあきらめてくれたかと思ったのに、しつこい娘ね……。彼女、いったいどこでボートを見つけてきたのかしら」
 落ち着いた口調で言う風花。しかし切羽詰った表情からは焦りしか感じられない。
「広い池だし、周りを歩き回れば他にも何隻か停泊しているのがあったのでしょうね」
「ど、どうするの?」
 千秋が慌てふためいていると、風花は顎の先から水滴を落としながら、「ひたすら逃げるしかないでしょ」と言って身を屈めた。直後、すぐ脇を何かが掠め、爆発音が聞こえるとともに船体が大きく傾いた。

【残り 五人】
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