166
−暁の水上決戦(3)−

 元号三つにまたがって大東亜に在り続けた、由緒ある進学校、竹倉学園。
 歴史を感じさせる古い校舎の前の桜道で、以前は一人の少女を見かけることができた。
 丁寧にブローされたウエーブヘアーが朝のそよ風を受けて上品に揺らめくと、整った白い顔立ちが不規則な間隔で見え隠れする。耳にかかった髪を手で払いのける仕草が、外国の映画にでも出てくる女優のようで、とてつもなく様になっていた。
 中学に入学したばかりの十三歳。大人も顔負けというほどの気高さが早くも彼女からは感じられる。
 性格はどちらかというと気の強いほうで、若齢のわりに多少ツンツンとしすぎている感じが否めなかったが、それがまた彼女特有の魅力でもあった。
 発育の早さからスレンダーな身体は既に理想的なラインを形成しており、成人女性のそれと比べてもほとんど見劣りすることはない。
 顔良し、身体良し、そして性格はそれなりに魅力的。竹倉学園には比較的品の良い学生達が集まっていたが、その中でも特に目に見えて分かるほどの異彩を放っていた彼女に、周りからの視線が集まってくるのはごく自然なことであった。 
 際立って目立つ一厘の花に虫達が群がるように、彼女にはいつも複数の男子が付きまとってきた。そう、少女はまさに「華」であり「花」でもあった。
 さながら王宮の姫君のような待遇を受ける者の事を、同性の同級生たちは大なり小なり羨ましがっていたことだろう。だが当の本人は全く快く思っていなかった。現実は、自然の中で見られる花と虫達の舞い踊りのように純粋で美しいものではなかったからだ。
 蜜を与える代わりに花粉を運んでもらうというような、互いに利益を生むやり取りなんかは一切なし。ただひたすらに相手の一方的な欲求ばかりが存在していて、げんなりさせられることが多分にあった。
 結局、気高き花はただの一度も、虫達の欲求に応えて甘い蜜を与えてやることはなかった。大人顔負けな風格を持つ少女からすれば、自らに近寄ってくる男達は皆、子供のようにしか見えなかったのである。まれに、付き合ってくれ、と正面きって堂々と告白してくるような勇気ある者もいたが、それでもまだ肩を並べるに値するとは到底思えなかった。
 花はよりにもよって、誰の手も届かないほどあまりに高すぎる所に咲いてしまっていたらしい。
 花の蜜を吸うには、あなたたちはまだ早い。幼虫は幼虫らしく巣に篭って、母親の施しを受けながら自分の羽で飛べるようになる日を待ちなさい。話は全てそれからだ。
 しっかりしすぎている自分を相手にしても、リードして手を引っ張っていってくれるような大人と呼べる男に対してしか、彼女はもう興味を抱けなくなってしまっていた。
 竹倉学園の火災の後に入院していた期間を加算すると、中学生として過ごした時間は実に五年半にも及ぶ。その間に付き合った男性の人数はゼロ。近づいてくる男は数知れずというほどだったが、結局誰にも心を許してしまうことなんて無かった。竹倉にいたときも、梅林中学校に移ってからも。
 全ての告白をばっさりと断ってきたということで、いつしか彼女は「百人斬り女」と密かに囁かれるようになった。近づいてくる者が誰であろうと容赦なく、鋭い刃を振って斬り捨てる。
 彼女は思った。甘い蜜の香りにつられて近づいたら最期。棘のついた花弁によって傷つけられてしまうだけで、結局は何も得ることは出来ない。私はまるで食虫植物みたいだな、と。
 憂鬱になってしまった。
 こんな私が本気で人を好きになれるなんてこと、この先に一度でも起こるだろうか。

 静かなる密林の中では、穏やかな呼吸音ですらよく目立って聞こえてしまう。
 樹木の幹の表面に手をつきながら荒い息遣いを繰り返し、必死に立ち上がろうとしている少女の姿があった。蓮木風花である。
 彼女は千秋を一人で先に行かせてから、その跡について行こうと懸命に力を振り絞り続けていた。しかし体力がとっくに限界を迎えてしまっている状態では、なかなか思うように前には進めない。というより、実のところ、彼女は一人になってしまってからは、全くと言ってよいほど動くことができなくなってしまっていた。微かに痙攣している足に感覚はもう残されていない。足に限らず、身体じゅうの他の部位に関しても、機能はすでに失われかけていた。胴体から四肢がただぶら下がっているだけに近い感じだった。
 風花は、自らのぶざまな姿に対し、苛立ちを抑えることができなかった。
 脱出計画という大それたことを企てた身でありながら、仲間たちに苦労をかけてばかりで、自分は何も出来ないどころか足を引っ張りまでしてしまう始末。人生の先輩だか、学年トップクラスの成績保持者だか知らないが、本当に聞いて呆れてしまう。
 泥のついた手の甲で目尻から溢れ出しそうになっていた涙を拭った。このままでは圭吾にも申し訳が立たない。
 たぶん、先ほどの放送が終わった直後に彼は死んだ。聞こえていた銃声の様子から推測することができる。マシンガンで武装した誰かと交戦することになったが、力敵わなくてやられてしまった、と。
 もちろんあらゆる展開を想定すれば、圭吾がまだ生きている可能性だって僅かにはあったが、今はどんな問題が目の前に立ちはだかってきたとしても、冷静かつ適切に判断を下さなければならないという大切なとき。真実から目を反らして都合の良い考えばかりを浮かべ、現実から離れていってしまっている場合ではない。後で再起不能に陥ってしまうほどの大きなダメージを負わないようにするためにも、常に最悪のケースを頭に浮かべて、いざという時のために身構えておくべきであった。
 しかしそうは思いつつも、やはり心のどこかでは圭吾がまだ生きているかもしれないという希望を捨てきれずにいた。
 千秋が前に言っていたが、好きかどうかは別にして、少なくとも圭吾のことは嫌いではなかった。容姿も悪くはなかったが、それよりも、馬鹿正直に真っ直ぐ前へと向いた男気に少し惹かれてしまったというほうが正しいかもしれない。今までに風花が生きてきた中で、彼ほどの逸材に出会ったことは無かった。自分がしっかりとし過ぎていたためか、同年代の人間は皆子供のように見えて仕方がなかったから。だからある頃から精神的にも自分よりも大人であろうと思われる年上にしか興味を持てなくなってしまったのだが、どうやらそれは間違いだったらしいと、今になってようやく分かった。
 手を伸ばして高嶺に生える花を掴むことが出来る男は、同い年どころか年下にだってちゃんと存在していたのだ。いや、それどころか、彼なら花が生えている場所よりもさらに高いところへも、労せず登っていくことが出来たに違いない。
「ははっ。たかが十五歳の男一人に、私は何を真剣に考えているんだろう……」
 延々と溢れてくる涙を拭いながら、キッと真っ直ぐ前を見据える。力のある強い目つきが蘇っていた。
 グズグズと泣いていたって仕方がない。今は計画を成功させることだけを考えて前進を続ければいい。もしも圭吾が生きているというのならなおさらのこと。たとえ私たちと離れていようとも、彼ならプログラム本部の壊滅を知れば、自力での脱出を試みてくれるだろう。
 乱れて顔に張り付いた髪を掌ではらう。ガタがきている身体の動作からは、以前のような気高さなどほとんど感じられなかったが、その代わりに顔つきから少女が固めた決意の強さが滲み出ていた。
 しばらく固まってしまっていた身体に鞭を打って、ようやく一歩一歩ゆっくりと動き出す。爆弾の重さがとてつもない負担に感じられたが、気力を振り絞って持ち上げた。
 それにしても、気になるのは、圭吾と交戦した相手とはいったい誰だったのか。風花が知っている中でマシンガンを持っていた人物といえば、廃ビル組を壊滅に追いやったという湯川利久ただ一人。しかし彼は先ほどの放送で名前を読み上げられていた。少々信じがたい話だが、圭吾たちが戦闘を始めるよりも前に、彼はもう亡くなっていたのだ。
 となると、さっきのマシンガンの銃声は、利久を殺した何者かが鳴らしたということだろうか。今のところその説が最も有力である。利久を倒した人間なら当然、戦利品として今もマシンガンを手にしているだろうし。
 だが、そいつはいったいどんな化け物だというのだ。圭吾や千秋から以前聞いた話によると、利久は攻守において完璧といえるほどの装備を整えていたようだし、打ち倒すのは容易なことではなかったはずだ。もし本当に彼と戦って勝つことができる者がいたのだとしたら、それは想像を絶するほどの知力家か、人間離れした機動性を誇る超人か、あらゆる武器の力を無効化できる人ならざる者か……、とにかく普通の人間だとは到底思えなかった。
 そんな化け物が現実に存在しているなら、絶対に遭遇だけは避けなければならないな。
 ひきつった笑みを浮かべる。その瞬間、風花は背後から何とも例えがたい恐ろしげな気配を感じた。身をひきつらせながら急いで振り返るが、木々が密集している雑木林の中に人の姿なんて見られない。ただ、草むらを踏みしめるかすかな足音が風に乗って、耳の中へと入ってきた。

【残り 五人】
←戻る メニュー 進む→
トップに戻る



SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送